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第17章 三毛猫クイーンの逃走

猫と女は呼ばないときにやってくる。


ボードレール

十月二十六日 午後四時二十分


 二人が、クイーンにおやつをあげたり、猫じゃらしで遊んだりしているうちに数十分が経った。太陽は西の空に傾きかけている。


「私、そろそろ帰るね」美緒(みお)が言った。

「まだ、お父さんもお母さんも戻らないから、大丈夫だよ」


 明日奈(あすな)はそう言ったが、美緒は首を横に振って、


「明るいうちに帰りたいから。買い物もしたいし。……ねえ」と美緒はクイーンを抱き上げて、「今日は、ミケちゃん、私の家に連れて行ってもいいかな」

「……それはいいけど、美緒の家、ペット駄目なんでしょ」

「一日くらいだったら、大丈夫だよ。ミケちゃん、いい子だし」


 美緒は三毛猫を頬に寄せた。


「でも、トイレとか色々必要だよ」

「そっか……」


 美緒が残念そうな表情になると、明日奈は、


「じゃあ、私が用具一式、運んであげる」

「えっ? 悪いよ」

「そういうこと言わない。どのみち、美緒ひとりじゃあ、ミケを入れたバスケットと、ご飯やトイレ一式、運べないでしょ」

「うーん……じゃあ、お願いするね」

「うん」


 二人は協力して、キャットフードやトイレキットを袋に詰め始めた。



「大丈夫……?」美緒は明日奈の背中にぴたりと寄り添ったまま訊く。

「オーケー」門から顔を出して周囲を伺っていた明日奈は、そう言って路上に出た。美緒もその後ろに続く。


 美緒はグレーの制服姿のままだが、明日奈は私服に着替えていた。帽子をかぶり、強い日差しもないというのにサングラスもかけ、この季節にしては今日は比較的温かい気候だったが、口元をマフラーで覆っている。クイーンを入れたバスケットを美緒が両手で持ち、明日奈が片手に提げた大きな紙袋には、ご飯とトイレキットが入っていた。

 美緒は不安そうな足取りで歩き、明日奈はサングラスの奥から終始周囲に目を配り、緊張感を漂わせていた。まだ勤め人が帰る時間には少し早いためか、道路に車の数は多くない。


「明日奈……」

「なに?」

「私……怖いよ……」


 バスケットを持つ美緒の手は震えていた。明日奈は歩きながら、ぴたりと肩を寄せて、


「大丈夫よ。相手が探偵だろうが、警察だろうが、私が美緒を守るから」

「明日奈……」


 頼もしい言葉を掛けられても、美緒の震えは止まらない。


「ねえ、明日奈、私……やっぱり、警察に……」

「それは駄目」明日奈は強い口調で言って、「美緒がそんなことする必要ないの。そうでしょ」

「う……うん……」


 明日奈の声は最後、諭すように柔らかになっていたが、それでもやはり、美緒の震えは続いていた。


(ん?)


 バスケットの中でクイーンは耳を立てた。後方から低速で一台の車が走ってくる。見憶えのないセダンタイプの車だったが、その車が、いや、正確には乗車している人間が発する気配に、クイーンは「感じ憶え」があった。二人の数メートル後ろで、車はハザードを点けて道路脇に停車した。運転席と助手席、後部座席のドアが開き、三人の女性が降りた。その中の、助手席と後部座席から降りてきた女性をバスケットの網目越しに見て、クイーンは「にゃあ」と鳴いた。


「ん? どうしたの? ミケちゃん」


 美緒が声を掛けるのと、明日奈が後ろを振り返ったのは同時だった。


「美緒!」


 明日奈は美緒の肩を押して、強制的に走らせる。


「明日奈?」


 美緒は戸惑った表情を見せながらも、それに従った。


「待って!」


 背後から声が掛けられる。その声を耳にしたクイーンは、もう一度「にゃあ」と鳴く。走りながら美緒は後方を確認して、


「……あれって、安堂理真(あんどうりま)?」


 長い髪をなびかせながら、自分たちを追ってくる女性の姿を目にした。


「行って!」


 明日奈は美緒を走らせると振り返り、走ってくる理真の前に立ちはだかった。


「来るな!」


 明日奈は両腕を広げて理真の行く手を塞ごうとする。

 理真は明日奈の前まで来ると、


「……あなた、高宮明日奈(たかみやあすな)さんね」

「ど、どうして、私のこと……」


 明日奈の表情に動揺が浮かぶ。次の瞬間、


「――あっ!」


 背後で声がした。美緒が足をもつれさせて転倒したのだった。提げていたバスケットが放り出されアスファルトを滑る。


「美緒!」


 明日奈は振り返って走り出そうとした、が、


「きゃあっ!」


 動揺したのか、自分も脚を絡ませて、その場に転んでしまった。


由宇(ゆう)輝子(てるこ)さん、その子のこと、お願い」

「――待て!」

「じっとして。膝、すりむいてる」


 美緒のもとへと走り出した理真にすがろうとした明日奈だったが、立ち上がり掛けてまた膝をついてしまった。駆け寄った(やす)刑事が血の滲む膝にハンカチを当てる。


「ミケちゃん!」


 美緒は、這うようにして横倒しになったバスケットまで行き、蓋を開けて中から猫を抱き上げる。


「ミケちゃん! ごめんね、ミケちゃん!」


 美緒は地面に座り込んだまま、クイーンを強く抱きしめ、何度も詫びの言葉を漏らす。


(この程度、何ともない。ちょっと、びっくりしただけだ)


 クイーンは自分の無事を知らせるため、美緒の顔を見て「にゃー」と鳴いた。


「美緒ちゃん、大丈夫?」


 追いついて声を掛けたのは、クイーンもよく知る顔、安堂理真だった。理真は美緒の隣にしゃがみ込むと、三毛猫の頭を撫でて、


「クイーン……」


 飼い猫の名前を口にして微笑んだ。それを聞いた美緒は、はっ、として顔を上げると、


「ごめんなさい……」


 大粒の涙をこぼしながら呟いた。理真は美緒の肩を抱き寄せて、


「いいのよ。美緒ちゃん……ねえ、何があったのか、私に話してくれない?」

「……わ、私――」

「駄目よ! 美緒! そのことはもういいの! 美緒!」


 由宇と安刑事を振り切って立ち上がった明日奈が、叫びながら走ってくる。その背中を由宇と安刑事が追う。

 自分に掛けられる声から耳を塞ぐように、きつく目を閉じてクイーンに顔を押しつけた美緒は、小さな体をがくがくと震わせながら、


「わ、私が……」

「美緒!」


 明日奈の静止は間に合わなかった。


「私が……殺しました……形塚(かたづか)先生を……」

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