第11章 学園の少女
一瞬、幻聴かと思った。だって、こんな学校の中で――猫?
猫なんているわけないのに!
『保健室の午後』 赤川次郎
十月二十五日 午前七時三十分
朝が来た。私は、まだ寝ている理真を横目に、朝食の準備に取り掛かった。クイーン捜索に事件、会議と疲れていたせいか、何の夢も見ることなく(見ても起床するときには忘れているだけかもしれないが)目を覚ますことが出来た。昨日手を掛けた分、今朝は簡単なもので済ませてしまおう。消費期限ギリの野菜だけを使った野菜炒めと味噌汁。ご飯はあるので、昨日買い足した生卵を添えておいてやればいいだろう。メニューに困ったら、卵かけご飯を与えておけば理真は満足するのだ。
朝食を終えてから、私と理真は南中学校へ向かった。丸柴刑事から電話があり、朝一で学校側に話を通しておいてくれたという。保護者会だが、短い時間であれば、手の空いた教諭が応対してくれるとのことだった。
南中学校の駐車場はほとんど満杯だった。普段通勤してくる教諭の他、保護者たちの車が駐まっているためだろう。理真は、隅に軽自動車なら駐められるスペースを見つけ、そこにR1の小さな車体を滑り込ませた。
校舎は静まりかえっている。が、この学校のどこかで、保護者たちへの説明会が開かれているはずだ。職員室に入ると、若い女性の教諭がひとりだけ残って、私たちに応対してくれた。探偵が来ると警察から聞いてはいたが、若い女性のコンビだとは思っていなかったらしく、さらに理真の本業が作家だと聞き――残念ながら彼女は理真のことはご存じなかったが――二度目を丸くしていた。
保護者会は三階にある視聴覚室で行われているという。その近辺以外であれば、どこを見てもらっても構わないと、捜査の承諾を受けた。「お疲れ様です」と机に戻ろうとした教諭に、理真は、
「少し、お話よろしいですか?」
「ええ、いいですよ。では、お茶でも飲みながら」
女性教諭は私たちを職員室隅の応接スペースへ案内してくれた。
「私、理科を教えています、藤川と言います」
私と理真の前にお茶を出しながら、藤川教諭は名乗った。言われてみれば、首筋の辺りで切りそろえられたストレートヘアや、掛けているフレームレスの眼鏡など、いかにも理系っぽい。
「私、今年度から入った新人教師でして、それもあってか、こうしてお留守番を任されているんです」
確かに、喋り方なども板についていない感じで、まだまだ学生の雰囲気をまとわせている。理真が、さっそく亡くなった形塚のことを訊いてみると、
「私、未だに信じられなくて……とてもやさしくて真面目な先生でしたから……どうして……」
眼鏡の向こうで瞳を曇らせた。
「殺される理由なんていうのも?」
次の理真の質問には、藤川は耳に掛かっているストレートヘアが遠心力で水平になるほど、顔をぶんぶんと振って、
「あの形塚先生に限って誰かに恨まれるなんて、ありえませんよ。誰かと間違えて殺されたんじゃないですか?」
間違えて殺された……。死亡推定時刻は日も没した午後七時前後。現場は照明のない狭い用具室。その可能性は、ないとはいえないかもしれない。横目で窺うと、理真も何事か考えているような表情をしている。が、「そうですか」と言って、すぐに明るい顔に戻すと、
「体育の近野先生って、どんな方ですか?」
「えっ? 近野先生ですか? どうして?」
「私、昨日も学校にお邪魔して、そこでお会いしたもので。プロレスラーみたいな凄い体で、印象に残ったもので、どんな方なのかなと」
「ああ、そうですよね。近野先生はマッチョですよね。私たち教師にはやさしいですけれど、生徒にはやっぱり怖い存在みたいです。普段は生意気な男子生徒も、近野先生の前では借りてきた猫みたいになっちゃいますよ」
こんなところで猫の慣用句が出てきた。
「そういう先生、学校にひとりはいましたよね」
「ですよねー。私も生徒の頃は、ああいう先生って、おっかないな、って思ってましたけど、こうして先生の立場になってみると、とても頼もしく思います」
「その近野先生、亡くなった形塚先生とは、仲が良かったのでしょうか? もしくは、昔、同じ学校に通っていた同級生だったとか?」
「形塚先生とですか? ……うーん、形塚先生は、誰とでも仲がよくて、近野先生とだけ特別仲がいいということでもなかったですよ。同年代ではありますけれど、学校が同じだったとかは、聞いたことがないですね。近野先生がどうかしたんですか?」
「いえ。昨夜、宿直を買って出たくらいですから、形塚先生に何か特別に友情を感じていたとか、そういうことがあったのかなと思っただけです」
「そうですか。でも、近野先生でしたら、私たちの誰が殺されても、同じようにしたと思いますよ。あ、やだ、また誰かが殺されるだなんて、変なこと言っちゃいました」
また殺される……。そうだ。殺人がこの一件で終わるという保証はない。もしかしたら、連続殺人に発展する可能性だって、先ほどの誤認殺人説同様、ないとはいえない。
もうこれ以上近野教諭について突っ込むのは危険だと判断したのか、理真は、そろそろ現場を見せてもらって暇する。と告げ、ソファから腰を上げたが、
「あ、最後にひとつだけ、いいですか?」
「え? はい。さすが、探偵さんって、やっぱり皆さん『最後にひとつ』っていうのやるんですね!」
感心したような声を上げた藤川教諭には悪いが、理真がこれから口にするのは、さりげなく事件の核心を突いた気の利いた質問などではない。
「迷い猫のポスター、掲示させてもらってもいいですか?」
理真は、生徒用玄関を入ったすぐにある掲示板に――隅っこの小さなスペースにではあるが――昨夜制作したクイーン捜索願いのポスターを貼りだした。学校行事や部活動のお知らせに混じって、三毛猫がちょこんと顔を出している掲示板が、妙に面白かった。
私たちは、現場であるグラウンド隅の体育用具室へとやってきた。昨日とまったく見た目に変わりはない。昨日の朝、事件が発覚してすぐに警察が呼ばれ、学校は休校となり、今日も保護者会のため、生徒をはじめ人の立入りがされていないせいだろう。
「理真、さっきの藤川先生との話に出てきた……」
「誤認殺人の可能性?」
私は頷いた。
「時間が夜で、現場に照明がなかったから、それを考えると、まあね」
やはり理真も同じようなことを考えていた。
「しかも、誰に聞いても、亡くなった形塚さんは、人に恨みを持たれるような人間じゃなかったって言うものね」
言いながら理真は用具室内をぐるりと見回す。窓が小さいため、今のような昼間でも部屋は薄暗い。
理真が事件後に現場を訪れることはままあるが、つぶさに何か遺留品が落ちていないか探し回るようなことは、ほとんどない。プロの鑑識が隈無く調べ尽くしたあとで、新たな証拠品が見つかるなどということはまずありえないからだ。
「そもそも、国語教師が放課後の時間帯に、こんなところに何の用事で来たのか……」
事件現場の様子を目に収め、理真と私は用具室をあとにした。
そのまま駐車場へ向かおうかと思ったが、理真が、他の教師や生徒にも配ってもらうため、ポスターをあと何枚か藤川教諭に手渡そう、と提案した。それはいいアイデアだ。私と理真は再び校舎内に戻ることにした。来客用玄関を入って職員室に向かおうとしたところで、理真が足を止めた。私も立ち止まって、理真と同じ方向に視線を向ける。そこは、生徒用玄関を上がったすぐの廊下。そこに、
「あれ? 生徒さん?」
グレーの制服を着た少女が、廊下の壁を見つめている。正確には壁ではなく、そこに掛かった掲示板を。
「保護者会で生徒の登校はないはずじゃ?」
「……行ってみよう」
理真はそちらに向かって歩き出し、私も背中を追った。
「こんにちは」
「えっ?」
理真が声を掛けると、少女は驚いた顔で振り向いた。背丈からいって、一年ではないだろうか。最近の中学生は大人びているというが、目の前の少女は年相応か、かえって幼く見えるくらいだ。
「こっ、こんにちはっ!」
少女は慌てた様子で、ほぼ九十度近い角度に腰を折って私たちに挨拶した。頭を起こすと、興味半分、不審半分といった目つきで、理真と私を見る。
「今日は、休校だって聞いたけど?」
理真が言うと、少女は、
「あ、そっ、そうなんですけれど……私、家にいてもやることないから……」
私たちを見ていた視線を下げて、ばつが悪そうにする。暇だからとはいえ、制服を着て登校してくるとは。言い終えると少女は、ちらと横目で掲示板の隅っこを見る。その先に貼りだされているのは、
「これ、見てたの?」
理真が、自分が貼ったばかりのポスターを指さすと、
「あ、ああっ、は、はいっ……」
どぎまぎしたように少女は答えた。
「この猫、見たことある?」
「……い、いえ、あ、ありません」
「そっか……残念」
「え?」
「この猫、私の家の猫なの」
「そ、そうだったんですか……」
少女は改めて、三毛猫の写真をまじまじと見つめてから、私たちに窺うような目を寄越して、
「あ……あの、失礼ですけれど……」
「ああ、ごめん」と理真は、「私、安堂理真っていうの」
「安堂理真……って、もしかして、作家の?」
「嬉しい。知っていてくれたのね」
理真、満面の笑みになる。こんなことを言うのは何だが、理真の名前を聞いてすぐに「作家の」と職業を看破してくれる人は滅多にいない。
「は、はい。図書室に本があって、読みました。あ、あの、面白かったです!」
「ありがとう」
名前を知っていてくれたうえ、著作を褒められまでした。社交辞令も含まれているのだろうが、ありがたいことこの上ない。
「作家さんが、どうしてうちの学校に……?」
「えっとね……」
どう答えようか、言いあぐねているのだろう、理真が二の句を口に出す前に、
「あ、探偵さーん」
背後から声を掛けられた。先ほど会った藤川教諭の声だ。振り返ると、やはり、藤川が廊下を歩いてきて、
「駐車場に駐めてある、防衛隊みたいな大きな青い車、探偵さんのじゃないですか?」
藤川は車に疎いのだろう。わけのわからない車の形容をした。理真の愛車は小さくて赤いのだ。理真が「違いますよ」と答えると、
「ああ、そうでしたか。ライトが点いていたもので、お知らせしようかと。じゃあ、保護者のどなたかのお車ですね。視聴覚室に行ってみます……あら、大林さん、どうしたの?」
戻り掛けた藤川は、少女を見つけると声を掛けた。
「ちょっと、暇だったので、すみません」
大林、と呼ばれた女子生徒は、はにかんで、ちろっと舌を出した。
「もう。自宅に待機していないと、駄目よ」
本気で怒っているわけではないのだろうが、一応というふうに注意をして、藤川教諭は階段を上がっていった。それを見送ると、理真が、
「大林さん、っていうの?」
「あ、は、はい、大林美緒です。二年一組です……」
二年生だったのか。そう言われると、さらに幼く見える。
「美緒ちゃん、この猫を見かけたら、必ず連絡ちょうだいね。クイーンっていう名前なの。一昨日の昼間からずっと帰ってこなくて……どうしたの?」
ずっと理真の顔を見つめていた大林美緒は、理真の言葉で我に返ったように、
「あ、あの……安堂さん、今、藤川先生に、探偵さん、って……」
おどおどとした様子で訊く。隠しきれないと悟ったのだろう、理真は、
「そうなの、この学校で起きた事件の捜査を手伝ってるのよ。素人探偵ってやつ、知ってる?」
「……は、はい、知ってます。金田一耕助さんとか、ああいうのですよね」
「当たり」
理真は微笑んだ。厳密に言えば、金田一先輩は事務所を構えていた職業探偵なので、素人探偵とは違うのだが。民間探偵、というくくりにすれば同じということになる。
「で、こっちが、私のワトソンの江嶋由宇」
「よろしくね」私は微笑んだ。
「探偵……探偵の……猫……」
「美緒ちゃん、ワトソンって知ってる? ……美緒ちゃん?」
焦点の定まらない目をした美緒に、理真が声を掛けると、
「あっ? は、はい。すっ、すみません、私、用事が……」
ぺこりとお辞儀をすると、下駄箱に向かって走り、外履きに履き替えて玄関を走り出た。