ありふれた仕込み
駆け上がった先。
頂上近くの広い空いた窓から、獣は中に飛び込んでいく。
その飛び込んだ塔の内部は、壁、床、天井の至るところに幾何学模様が描かれていて、少し不気味であった。
獣は床に着地し、急停止をする。
慣性に引っ張られ、私は前に落ちそうになったが、そこは彼が押さえてくれた。
獣が止まると、彼はスタッと綺麗に獣から降りる。
次いで、丁寧な扱いをされ、私も床に降ろされた。
降りてすぐ、私は興味津々といった様子で床の模様へと手を触れる。
こすったり、ひっかいた程度では剥がれない。ただ塗られたわけではなく、材質からして違うようであった。
「この部屋全体に描かれているのは、スキル『永久封印』を再現するための術式だよ」
私の様子を微笑ましく見るように、彼は語りかけてくる。
その声にはどこか、自慢気なものが混じっているように思える。
彼はそんな調子のまま、説明を続けていった。
「これで封印する予定なんだから、そんなに簡単に壊れてもらったら困るでしょ」
そんな言葉に、私は手を引っ込めた。そして誤魔化すような苦笑いをする。
彼が説明をしている間も、どうにかして剥がれないかといじりつづけていたからであった。
「……くっ、ふっ、あははっ」
そんな私の様子に、彼は思わずといったように笑い出す。
私は恥ずかしさでうつむくことしか出来ていない。
そして、それを笑っている彼を、若干だが恨みがましく睨んでいた。悪いのは私だが、このくらいなら許されるであろう。
我慢しきれなくなった私が、窓に目をやるとまだ沈みきっていない夕陽が目に入った。
後ろからは、「主、笑いすぎだぞ?」と、まだ収まり切っていない彼を、獣が諌める声が聞こえてくる。
私は惹きつけられるように窓のそばに立った。
「ここからだと、よく見える……」
不意に、私の横から声がした。
意外なことに彼ではなく、喋りかけてきたのはあの無愛想な獣であった。
夕陽のことかと、私は最初に思ったけれど、どうも違う。
横に並んだ獣の顔を見れば、目線がそれよりも下に注がれていた。
それに従い、私も目線下に降ろしていく。
この時間帯であると、この国を覆う壁の影に入ってしまっているが、それでも目を凝らせば見えてくる。
この国で暮らす人たちの多くが、まだ行き交っているのである。
「人々の営みが……。とても忙しない……」
私に向かって、ぶっきらぼうでこそはあるが、どこか物悲しいように、切実なように、鬱蒼としたように、そう告げた獣。
それは語るべくもなく言葉足らずで――、確かに、定かに、明らかに、私へと、……筆舌に尽くしがたい思いを抱かせたものだったのであろう。
そこでハッと、あることに気がついた。
ここから、あの待ち合わせの公園が見える。それだけではない、王城も見える。それに、そことそことを繋ぐ、私の通った道がよく見えるのである。
そうか、確かチラッとであるけれど、彼は時計塔に目線を送ったはず。
きっとそれは、時間を確認していたのではなく――。
私はジッとこの獣を見つめていた。
それに気がついたのか、獣は不思議そうにこちらを見返してくるのである。
「……ふん、これも主のためだ」
何を思ったのか、呆れたようにしながらも、ボソッとそんなことを呟いた。
私にだけで聞こえる声で、きっと彼には届いているはずがない。
さっきここに来る前に、本当に主と思っているのか、何てことを考えたけれど、――なんだ、本当に思っているじゃないか。
私の口もとは、微笑むように緩んでいた。
今度こそ、本当に呆れてしまったのか、やれやれと獣は私のもとを去ってしまった。
彼の方を見やれば、笑いこそ収まっていたが、なにか良い表情をしていた。
ここに来る前は、ずいぶんと真剣になにかを悩んでいたはず。解決でもしたのであろうか。
そんな彼の表情に、私の安心感は自ずと増していく。
「下がるんだ!!」
そんな折、私に向けて彼が叫び声を上げる。
窓の外の空間が歪んだ。
部屋の中央に向けて私は数歩後退する。
あまり時間の立たない内に、ソレは姿を現した。
空間が歪んでから、完全に姿を現わすまでの時間が、今までよりも数段と短い。
使うほどに強化されていっているのか。
私を庇うように、彼は前へと出てきていた。そして、徐々に私を後ろへと下げるように動く。
獣はというと、部屋の中央に立って動かない。そこで何かをするのであろうか。
ソレが動いた。
白い、半透明な翼が広がる。
ソレが空にとどまるために、翼は必要ないようで、大した動作もないままで、空中に、浮遊している。停止している。残存している。
広がった翼、そこから同じく、白い、半透明ななにかが射出された。
先端が尖っているようで、それが無数に私たちへと襲いくる。
反射的に目を閉じた私。
けれど、予想したような衝撃はなく、その攻撃は私たちへとは届いていなかった。
窓、私たちの入ってきた仕切りの一切がないはずのそこ。壁でもあるかのように、正体不明の攻撃の全くを通さない。
さらにソレが動く。
これ以上は無駄と判断したのか、攻撃を中断し、翼をたたみ、その窓からこちらへとの侵入を試みる。
先ほどの攻撃とは違い、邪魔するような不可視の壁が現れることはない。
もともと何もなかったように、いや、もともと何もなかったのであるから、これが正常なのであろうか、こちらへと進んでくる。
息を呑む数刻。
大して時間はかかっていない。けれど、数倍にも間が引き伸ばされたような緊張感に私は襲われたことであろう。
そんな中、彼はソレの前へと進んだ。
ゆったりとした動作で歩いているはずなのであるが、私には反応することができなかった。
乾いた足音がよく響き、彼はソレの前に立った。
ソレは彼が前に立ちはだかったことにより、動きを止める。
ただ、完全に止まったわけではない。前に進むことをやめ、その代わりに攻撃の準備へと、移っただけであった。
攻撃が、放たれる。
それよりも早く、彼はすっと右手を上げた。
ソレにかざしているような体勢で、その瞬間、ソレの動作が完全に止まったような気がした。
「今だ――っ!!」
彼の渾身の叫び声。
それと同時に、部屋中の模様が輝き出す。
そうなるように、何かをしているのは、部屋の中央に陣取る獣であろうか。
そうして、部屋中の床、壁、天井から、白銀に輝く鎖が飛び出してくる。
これがスキル『永久封印』。囚われたものは半永久的に抜け出すことはできない。拘束系最強のスキル。
もちろんそれらは、迷いなく一点に向かって……、ソレを捕らえる――
「――えっ……?」
――ことはなかった。
鎖に捕らえられたのは、ソレではない。そのスキルは、なぜか彼を標的に定めていた。
***
「あ……っ」
「す、すみません」
肩をぶつけた一般の町の住人は、一言だけ謝って、足早に人の群れへと紛れていった。
私たちは、目的地、つまり穢龍のもとに向かうために、町を通過しているところだ。
「スリとか、気をつけた方がいいですよ。なにか盗られていませんか?」
そんな様子を見ていた、私を案内してくれる無表情な女性は注意を促してくれる。
私はそれを、首を振ることで否定した。
全く、私がそこらのスリ程度に遅れをとるわけがないだろうに。
というか、盗られるようなものがないのに、どうやって盗られろと。
なんか悲しくなってきたよ。
まあいいや。
ある作戦も実行に移せた。これでぶつかられた鬱憤は晴らせたしね。むしろ、それ以上の実りだよ。
とりあえず、今は急いだ方がいい。
私は、先導する女性を見失わないようについていく。