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白の章


三話、終了予定です(^-^ゞ

 *



 今日も、あれは正午前にやって来て扉を叩くのだろう。

 見事な白髪を片手で無造作に掻きながら、男は寝台で浅く思考していた。

 浅い思考になる理由は、上手く頭が回っていないせいだ。

 彼は怠惰で、睡眠至上主義である。総じて日差しを忌む。


 現に今も。


 ああ、億劫だ。それに尽きる。そもそも思考のほぼ九割はそれに傾いている。

 心境を言葉に表すことさえ面倒な男は、上半身だけで伸びをする。

 視線を上げた先に、差し込んで来る光が目を焼いた。

 再び寝台に潜り込む。

 ああ、億劫だ。

 背けても、逃れきれない憂鬱に舌打ちを零した。

 朝日というのは、大様にして自分の思考を逆撫でるばかりで、どうにも好きになれない。

 あれも、それに似ている。

 似ているだけで、自分と同じかそれ以上に歪んでいるというのに。

 否、歪みというよりかあれは既に壊れているのだった。

 思い至るそれに、溜息をつきたくもなる。

 あれの望みは、出会った頃からまるで変わらない。

 一辺倒だ。その愚直さが、自分にとっては不快だ。同時に眩しくもある。

 歪みも極めれば、一つの極致だ。

 眩しいばかりの存在など、面倒事を運んでくるばかりで欠片も救いは与えない。

 歪み切った人間には、朝日よりも月明かりが精々といったところなのだから。

 そういう意味で、あれは毒だ。

 自分は、昼向きの人間では無い分、余計に毒は強まる。

 既に明らかなそれを、照らし出すあれの存在自体が疎ましいのだ。



「おはようございます、目は覚めているのでしょう? クルル?」



 ああ、来た。


 一種の諦観と共に、その時を待っているだけの自分も大概どうしようもないことは分かっている。

 家を空ければ良いのだろうと考えてはみたが、その時を予想して外へと出たところで恐らく自分を探し当てるだろう。

 結局のところ、そういう少女だ。


「……とうとうノックという基本事項さえ忘れたか。お前は本当にどうしようもない」

「また、お忘れになったのですか? クルル? 私の名はエリノアです。ところで、本題に入りたいのですけれども。まずは朝ご飯にしますか? それとも……」

「それ以上は口にするなよ。塞ぎたくなる」

「……まぁ。随分情熱的な殺害方法を思いついて下さったのですね? どうぞ」

「…………お前は本当にどうしようもない」


 寝台から這い出て、目を瞑ったまま『その時』を待つ少女の顔を覗きこむ。

 生まれてこの方ハサミを入れた事すら無い、長い白髪がその顔に影を作った。

 この少女はいつ見ても、馬鹿馬鹿しくなる程に美しい造形をしている。

 白磁の様なその肌に、完璧なバランスを実現している相貌。

 その微笑み一つで、国を傾けると言われても洒落にならない在り様。

 くらり、と覚えたのは眩暈。

 ただし、それは単純な話。呆れているのだ。

 周囲を狂わせる美は、寧ろ害と言っていいだろう。

 手を伸ばし、頬に触れればこの上も無く幸福そうに微笑んで見せる。

 耐性の無い人間であれば、この時点でお前は犯されているよ。

 そんな冷めた内心さえも、やはり言葉にはならない。

 募っていくばかりの苛立ちを抱え、頬から滑らせた先。


「いっ……、痛い痛い!! もう、何をしゅるんですか。フルル?!」

「気安く名前を呼ぶな。貴重な睡眠を毎回の如く邪魔する存在に掛ける情けは無いよ」

「……酷い」

「お前の口から言われると、腹立たしいばかりの文句だな……」


 その形の良い鼻を限界まで摘み上げつつ、覚めてしまった眠気を嘆く。

 ああ、この腹立たしさを一体何処にぶつけたら良いものか……


 考えを巡らせていた時に、真っ先に目に付いたものが少女の鼻だった。

 鼻一つで、芸術品のような繊細さを併せ持つのだから笑えない。

 この嗅覚を、他の事に使えば良い。

 けれども元より、この少女は周囲の言に耳を貸す程に柔らかい性質をしていないのだ。

 嫌という程に、思い知らされたこの二月。

 悪夢よりも性質が悪い、と言わざるを得ない。



 もはや忘れる日は来ないだろう。

 忘れようとしても、毎日のように上書きをしに来る人物がいる限りは無理な話だ。

 この少女は、毎日のように自分に望む。

 それは、当初から変わらぬ望みだ。

 どうせ、今日も同じ文句を囁くのだろう。

 もしくは、同じ文句を真顔で言うのだろう。

 または、同じ文句を叫ぶのだろう。

 微笑みながら。上目遣いを駆使しながら。涙を武器にしながら。

 彼女は今日も、自分に望むのだ。それはもう、一方的な望みを。



「……クルル=ヴェーリン? 私を殺してください」

「他をあたって。君を殺すくらいくだらない時間を、僕は他に知らない」



 毎朝、このやり取りを交わしているのだから。

 本当にこの少女は、どうしようもない。



 *



 事の起こりを話す為には、二月前に遡る必要がある。

 刻は夕暮れ。普段滅多に住み家を出ない暮らしぶりを続けているとは言え、食べないことには生きてはいけない。

 睡眠と、怠惰を愛する自分でも空腹を覚えない訳ではないからだ。

 つまりその日は買出しに出ていた。

 十日分程度の食料を買い、帰宅の途についていた自分が裏路地の騒ぎに気付いたのは単なる偶然だ。


 十人程の下卑た男たちに囲まれた美しい少女がいた。

 関わりたくない光景として、それ以上のものは無いと断言していい情景だ。

 不快を通り越して、吐き気を覚える。

 あのままにしておけば、輪姦の憂き目にあうことは想像に難くない。

 誰の目にも明らかな、危急の図だ。


 これに自分が立ち止まり、救出に向かったか?


 その問い掛けはそもそも前提から成立しない。

 何故ならば、面倒事は端から忌避すると言って憚らない自分。

 勿論、立ち止まったりはしない。

 好きものは少女に好印象を与えるべく、無謀にも挑んでいくのだろう。

 それで運よくヒーローになれれば思惑も報われる。

 それはそれでいい。

 だが、自分は決して選択しないであろう道筋だ。


 勝手にやっててくれ。自分は関わらないから。


 全身でその姿勢を示しつつ、足早に通り過ぎた。

 そう。自分は、関わらなかった。

 その選択が、二月に渡る悪夢を手繰り寄せる起因となることを知らぬままその場を去った。

 何事も無く通り過ぎた自分へ、その美しい双眸がひたと据えられていた事など知る由も無い。


 その不運を思い知らされることとなったのは、翌日の事である。



 買出しを終えて、膨大な食料を貯蔵庫に仕舞いこみながら早くも後悔した前日を思い返しつつ、面倒な身支度を終え、百合の花を束ねた。

 出掛けざるを得ない今日の日付を、失念していた自分へ溜息を隠さない。

 全身に纏う白の正装。一年振りに袖を通した所為か全く身に馴染まない。

 向かう先を考えれば、本来は黒を選択する処だろう。

 しかし、他でもない当人が望んだことだ。

 一年に、一度くらいはその我儘を汲んでも良いだろう。

 白い正装と、白百合を。

 母が生前好んだ白百合を、調達するのはさして面倒では無い。

 裏庭に咲き誇る、白い花弁。酩酊する程の濃い香り。

 白百合は、生前に母が自分へ残した三つの内の一つだ。

 残りの二つ?

 それはこの怠惰な生活を支えているもの、と言えば大抵の人間は察するところだよ。


 人気の無い早朝に、邸を出て向かった先は白菊の丘と呼ばれている。

 そこは霊園だ。

 立ち並ぶのは、無数の白十字。

 その静謐さは強ち嫌いではない。

 霊園の東の端へ歩を進め、目的とする白十字の五歩手前で立ち止まったのは。

 予期しない後ろ背に、戸惑いを覚えたからだ。


 母の墓前に立つ、朝日を浴びて眩しい程の黒髪の少女。

 足音に振り返り、まるで旧知の間柄のように微笑んだ。

 ぞわりと寒気を覚える程に美しいばかりのそれは、形だけなら自然そのもの。

 だが、この場にあって何よりも不自然な存在を前にして。

 微笑み返す程のゆとりは自分にはない。


「貴方を、お待ちしていました。クルル=ヴェーリン公爵様」

「なぜ、自分を知っている……?」


 不自然であり、同時にそれ以上無い程に自然な微笑みを維持したまま。

 器用に首を傾げて見せる少女はやはり、あの日の少女だった。


「あら、もうお忘れになってしまったのですね。クルル様」

「……君と面識はない」

「ふふ、やはり貴方は私の期待通りの方」

「……僕の話を聞いてるかな、君?」


 どうやら、あの素通りが問題だったようだ。

 所以は分からないがこの悪縁を引き寄せたらしいと、おぼろげながら察したところで。

 朝摘みの薔薇の花弁の如き、艶やかな唇から発せられた言葉が自分の思考をものの見事に凍りつかせた。



「貴方に、私を殺して頂きたいのです」

「…………ごめん、君ちゃんと睡眠は取った方がいいと思うよ」



 睡眠は大切だ。

 真っ当に眠らない人間は、時折予期せぬ様な妄言に走る。

 しかし、そんな的確な助言さえ届かぬ程にその少女は壊れているらしかった。


「貴方に再びお会いして、確信を得ました。私の望んでやまなかった人はこの方なのだと。……死因は問いません。貴女のその手で、確実に私の息の根を止めて頂きたいのです」


「……うん、本当に寝た方が良いよ君。それはそうと、其処を退いてくれるかな。百合を供えたい。君が退いてくれないと、早朝から起き出した僕の苦労が水の泡になる」


「……やはり、朝一でお願いするのはご迷惑でしたか?」


「………」


 どれほど言葉を重ねたところで、噛み合わない。

 それを察し、沈黙を選んだ自分の選択は賢明だ。

 佇んだままの黒い少女を横に、白百合の束を墓前に置いた。

 溜息を押し殺しつつ黙祷を済ませ、霊園を立ち去ろうとした背に少女の声が掛かっていたが。

 左から右に聞き流し、不快な遭遇に見切りを付けた気でいた。


 要するに自分は、見縊っていた。

 甘い見通しを抱ける程、自分は知らなかったのだ。

 たった一度の再会。

 それが序章に過ぎなかったことを。


 足早に邸へと帰り着き、身に馴染まない正装を仕舞い直したところでリンゴーン、とここ数カ月の間鳴ることの無かった来訪のベル音が鳴り響いた。

 知人と呼べるほどの間柄は、片手の指ほどしか存在しない。

 どこかで不吉な感覚を覚えつつも、普段着に着替え直して覗き窓から確認した瞬間。


 視界に飛び込んできたのは、不快の塊だった。

 彼はそれを、見なかったことにした。


 何事も無く、就寝前の軽食作りにキッチンへと向かう。

 普段から、寝室の次に入念な掃除を心掛けているキッチンは広い屋敷で二番目の清潔感を保っている。

 因みに客間は、ここ数年足を踏み入れた事すらない。

 何が生息していても、彼の興味の範囲には及ばぬ事柄である。


 手慣れた様子で、貯蔵庫から葉野菜とホールチーズを両手に取ったところで。


 リンゴーン、リンゴーン、リンゴーン、リンゴーン。


 遂に連打に踏み切ったらしい。しかも四回という選択が不吉だ。

 警吏を呼ぶ為に、溜息を零しつつキッチンの端にある受話器に手を伸ばした。

 ところが、である。

 どうやら既に手を打たれた後らしい。その沈黙に、無言で踵を返した先は言うまでも無かった。


 扉を開けた先で、安堵という他ない表情を浮かべた少女。

 その腕を掴み上げ、どういうつもりだと苛立ちを滲ませた自分に寧ろ笑みを深めた壊れた少女。

 その言葉を、繰り返した。


「貴方に、私を殺して頂きたくて参りました。朝が駄目なら、昼では如何ですか?」

「………君、本当に大丈夫?」


 怒りよりも、急激に腕を這い上る寒気の方が勝った。

 未だ嘗て遭遇したことが無い程に、壊れた人間。

 それを前にして、普段の平静を保てるほどの耐性をその時の自分は持っていなかった。


「………僕に、見ず知らずの人間を殺す様な悪趣味は無いよ」

「つまり……見ず知らずでなければ、殺して頂けるのですね?」


 そう言って、この上も無く嬉しそうに笑った少女が恐ろし過ぎた。

 掴んでいた腕を放し、扉を閉めて邸の最も奥まった位置にある寝室へ向けて非難した後の記憶は曖昧だ。

 幸いなことに、その日はそれ以降ベル音が響くことは無かった。

 しかし、その日を境に終わらない悪夢は幕を開けたのだった。


 ひと月の間、ほぼ連日に渡る来訪音が絶え間なく続いた。

 警吏に連絡を取ろうにも、手段が排されている以上は直接出向くほか無い。

 しかし邸を出るにも、直接の遭遇が恐ろしくて踏み出せない。

 まさにジレンマだった。


 そうこうしている合間にも、十日は瞬く間に過ぎ去った。

 食料が尽きた為、買出しに行かねばならない。

 再びジレンマが立ち塞がり、彼の苦悩を煽った。


 十二日目、とうとう彼は決断した。

 勢い良く扉を開き、その様子を驚いた様子で見詰める少女との直接対決に踏み切る。



「……ねえ、君は殺されるよりも先に僕を殺す気なの?」

「それは困ります」



 本心から、それは望んでいないであろう少女の言葉。

 ことのほか真摯な眼差しに毒気を抜かれもする。


「なら、まずこの訪問方法を改めるという姿勢を君に望みたい」

「どのように改めれば、貴方は私を殺してくれる気になりますか……?」

「……ねえ、どうして君はそんなに殺されたがるの? どうして僕を指名する?」


 真っ向から聞くことに、躊躇いが無かったと言えば嘘になる。

 しかしここ数日の攻防に、苛立ちが頂点に至っていたその時にまともな思考は望めなかった。

 突き詰めれば、諦観にも染まる。

 とにかく、平穏な日々を取り戻したい。その思いが全てだった。



「貴方なら、確実に私を殺してくれると直感したからです」



 そして返ってきた答えに、半眼になる。

 具体的な答えを期待した自分が愚かだったのだと、脱力した後のことは覚えていない。

 グルグルと暗転した視界に最後に映り込んできたのは、慌てて駆け寄って来る少女の美しい顔だった。




 カタコトと何かが音を立てている。

 いつも以上に不快な目覚めの淵で、これは鍋の沸騰した時の音だなと思い至った瞬間。


 がば、と身を起していたのは無理も無い話だ。

 瞬きを繰り返し、そこが邸のキッチンであることはすぐに分かった。

 問題は煮えている鍋……というよりも、その鍋の前に立つもはや見慣れた背中である。



「君、……一体何なの」

「この中身ですか? 西海風特製ポトフです」



 少女の的外れな返答に、引き摺って運ばれてきたらしい長椅子の上で脱力する。



「……そういうことじゃない……」

「お疲れなんですね、クルル様。もうじき出来あがりますから……」



 一体誰のお陰で、ここまで疲労を蓄積したと思っているのか……

 もはや掴みかかる気力さえ無い自分に、感謝して貰いたいくらいだった。



 戸棚にざっと目を走らせて、手慣れた様子で深皿を出してくる少女を半ば茫然とした心境で見ていた。深刻な眩暈と、冗談にならない空腹感が普段以上の脱力感を後押ししてくる。

 そうして食卓に並べられたポトフの香りに、警戒心はあっけなく崩れ落ちた。

 見知らぬ人間の調理した食事など、普段の彼ならばどんなことがあろうとも口にはしなかっただろう。

 しかし、その時に最優先されたのは食欲を満たすという、ただそれに尽きた。

 振り返れば、それだけのことである。


 ポトフを全て腹に収めた後に、戻って来たのは冷静な思考。

 先程までは身体的な意味で、覚えていた眩暈。

 それが冷静に立ち返った途端、心理的な意味に切り替わる。

 食後のお茶を、やはり戸惑う様子も無く淹れて運んでくる様子を半眼のまま見ていた。

 その時点で既に、七割方の諦観を抱きつつあったと言っても過言ではない。



「どうぞ、クルル様」

「僕は君の主ではない。敬称は不快だ」



 突き放すような意図を込めてそう告げたのを、何を勘違いしたのか瞬いて微笑した。

 そうして返ってきた言葉に、彼は色々な意味で諦めを選択した。



「では、クルルとそのままお呼びしていいのですね? 嬉しいです。これほどに幸福な気持ちで貴方から死を頂ける私は、幸せ者です」



 その微笑は、まるでその言葉を裏切らない。まさに花開く様な笑みだった。

 それを目にしていたのが彼でなかったなら、恐らく国が一つ傾いただろう。

 しかしそんな彼の不安は、前提から間違いであることを後に彼は嫌という程に思い知らされることとなる。



「……幸せなところ悪いけど、僕は一言も君を殺すとは言ってない」

「まぁ、クルル。それはいけません。約束を違えては、貴族の矜持に反しますよ」

「……よりによって君のような人に貴族の矜持を諭されるなんてね。そもそも僕は貴族位を持つだけで、本来の意味の貴族では無い。それを踏まえて言えば、僕に君を殺す約束はそもそも存在しないよ」



 淡々とそう説けば、見る見るうちに萎んでいく花の顔。

 それを見て、ほんの僅かでも通じるものがあったのかと期待した自分も大概甘かった。


 その日は、茶器を片づけた後に一礼して邸を去った彼女。

 とうとう解放されたのだと、健やかな眠りについた夜。

 翌朝から始まる、恐怖の日々を知る由も無い。





 トントン、と何か音がする。

 やけに鮮明な空耳があるものだと、夢現に思っていられたのも僅かな時間に過ぎなかった。



「おはようございます、クルル? 朝食の準備が出来たので起きて下さい」



 空耳では到底片付けられない声に、殆ど何を考える間もなく寝台の上で飛び上がっていた。



「本当に、君は……………何者? 目的は何?」

「まぁ、もうお忘れになってしまったのですね。エリノアです」

「忘れた云々じゃなくて、初耳だよ……。ところで、これ不法侵入だから。速やかに邸から出てくれるかい?」

「これが反抗期の息子を持つ母親の気持ち……」

「いや、君の息子じゃないから。はぁ、そもそも……どうやって邸へ侵入した?」

「……?……」

「え、なに…その微妙な間は。逆に不安を覚えるんだが」

「ご存じ……なかったのですか? 」

「止めろ!! 何か無駄に不安を煽るのは!!」



 扉の向こうで、逡巡する気配に眠気も何も失った自分。

 恐る恐る扉を開けば、思いがけずエプロン姿の少女と目があった。


「おはようございます。クルル」

「何事も無く話を振り出しに戻さないで………」


 とうとうその日、侵入経路について聞きだすことは叶わなかった。

 一度目を過ぎれば、二度目にそれほどの躊躇いを持てなくなるのは人の性。

 用意された朝食を食べ終えた頃には、少女は姿を消していた。


 待ってはいない。

 そのように主張したいものの、侵入経路が明かされていない経緯もあって翌朝響いた声に殆ど間を置かずに扉を開け、少女を確保したのは事実だ。

 聞きだすまでは、逃がすまい。

 普段の淡泊さも、安穏とした生活を送る妨げが存在しているのだと知れば動かずにはいられない。

 安眠生活第一主義。

 それが自分のモットーだ。

 しかし何を勘違いしたのか、今まで見た事も無い様な嬉しそうな顔をして抱きついて来た少女を支える間もない。

 ほぼ、押し倒されたと言っていい状況で伸し掛かる少女は大変に美しい。

 相手が彼で無かったなら、恐らくこの一撃で昇天していたに違いない。


 しかし当の彼はと言えば。

 非常に醒めた目で、少女の頬に触れて問う。



「ねえ、今回は何を勘違いしたの?」

「……クルル自ら招き入れて下さいました。その流れでいけば、寝室で絞殺して頂けるのではと期待しています」



 伊達に少女と関わって来た訳ではないのだ。

 状況だけなら、これ以上無い程に心音高まる状況に置いても彼は非常に冷静だった。

 つまりそれは、耐性が付いて来たということに他ならない。

 それを自覚した時点で、色々なものが詰んでいることに聡い彼は溜息を漏らす。



「君を絞殺する暇があるなら、僕は二度寝を選択する」

「……まだ、貴方は私を殺しては下さらないのですね……」

「そんな悲痛な顔をされても。君は本当に……揺るがないね」



 彼の言葉に、少女は寂しそうに笑う。

 今まで見せたどんな笑みよりか、そこに少女の本質が垣間見えた気がした。

 しかしそれも、刹那のことだ。

 よいせ、と色気も何も無い呟きを零しつつ少女を抱え上げた彼。

 それに対する少女は諦めという言葉を知らない。


「絞殺は駄目でも……撲殺ならいかがですか?」

「君を殴り殺す様な腕力を、僕に期待して貰っても困るよ」


 変わらぬやり取りを交えつつ、キッチンへ向かった彼は三度目の朝食をとった。

 食後に侵入経路を問いつめようと計画していたものの、食後のお茶が運ばれた後につい目を離した隙に再びその姿は消えている。

 その後も、少女の訪問は続いた。




 その度に聞き出そうとする彼の労力は報われぬまま。

 その後も含め、二月に渡る朝の問答が繰り返されてきた。




 今朝も、滞りなく問答を交わして食後のお茶を啜っていると。

 普段ならば、既に姿を消していてもおかしくない少女がカップを手に向かいに座った。

 どんな情景に置いても、少女の美しさは変わらない。

 いつしか、彼女がいる光景に違和感を覚えなくなっている。

 随分毒されたものだと、内心で溜息を零しながら二人は静かに食後のお茶を楽しんだ。



 カップの中のお茶を飲み終えた彼女が、かちりと音を立ててテーブルにカップを置いた。

 それは、思い返せば最後の合図だったのだろう。



「クルル、私を殺してくれる気になりましたか……?」



 思い返せば、あの時彼女の声は少し震えてはいなかっただろうか。

 しかし、その時の自分はそれに気付けなかった。

 気付かない、ふりをした。



「僕は、君を殺さない」

「……どうしても、ですか?」



 とても静かな眼差しで、再び問うた少女へ自分は滑り落ちた言葉を、省みる間もなかった。


「僕は、君を殺す労力が惜しい」


 彼女は、それを聞いて一瞬その顔を俯けた。

 再びその顔を上げた時には、今まで見たどんな表情よりも儚い顔で少女は微笑した。



「貴方に出会えて、私はとても幸福です。……幸せな時間を、ありがとうございました」

「…………エリノア?」



 瞬いた瞬間、頬に零れ落ちた何かを見た様な気がした。

 思わず呼んだ名を、この上も無く幸福そうにそれでいて切なげに受けた少女は小さく手を振った。

 その仕草に思わず立ち上がり、駆け寄った先に少女はいない。

 彼女は、そうして消えた。


 明日になれば、という思いが愚かしいことを誰よりも自分が知っていた。

 それでも、寝台の上で昼過ぎになるまでじっと耳を済ませていた自分は過ちを知った。



 *



 彼女が来ない、朝。

 二月ぶりに、静かで穏やかな朝を迎える事が出来たというのに。

 それは全くもって、彼が望んだものではなくなっていた。



 彼は時折、酒を飲む。

 月の綺麗な晩は、これまで悪夢を見る事が多かったからだ。

 それも少女が毎朝襲来するようになってからは、パタリと止んでいた。

 その意味に、気付かなかった筈も無い。

 気付かない振りを、していただけだ。



 日は、どんどん過ぎて行った。

 二日、三日が過ぎ、いつしか週の終わりを迎えてまた過ぎる。

 ただ、その繰り返しだった。

 日数が半月に差し掛かる頃。

 月の夜の悪夢が、彼の眠りを苛む。

 それは彼がこの邸に来る前の、遠い日の記憶の断片。

 救いの差さない、暗い日々の中で。

 生きる事ばかりに、執着してきた過去の自分。

 周囲の誰をも信じられず、伸ばされる手を望みながらもずっと恐れる事でしか生きることが出来なかった薄暗がりの世界。

 息が、出来ない。

 苦しい。

 伸ばされるその無数の手の先に、先に死んでいった顔の無い顔たちが嗤う。

 差す筈の無い光を求め、手を闇雲に伸ばす。


 誰かが、この手を取ってくれることを願い。


 それが、果たされることが無い事も知りながら。


 引き攣りそうになる腕を、伸ばす。

 あれらと同じだったと思いたくない。

 自分は、違う。

 自分は望まなかったのに、周囲はそれを認めない。

 たとえそうであったとしても、生かしておく利が無い。

 そうして、切り捨てられた自分は。

 既に一度、死んでいたのだろう。

 同じだ。

 顔の無い顔たちが繰り返す。

 お前も、変わらない。

 同じだ。

 だから、

 お前だけが生き残ることを、赦さない。



 もっと深く。

 意識が届かないほどに、深い処へ。

 沈めなければ、呑み込まれる。

 眠りを、もっと。

 現は、辛いだけだから。


 だからもう、いい。

 苦しくても、同じだ。

 意識を沈め、呑み込まれるそれに身を委ねよう。

 諦観まであと僅か。

 顔の無い顔たちが、彼を呑み込む寸前。

 指先を、掠めたそれは。




 ふわり、と。

 暖かい。

 包み込まれた指先の熱に、思わず見上げた先。



 彼女がいた。






 跳ね起きた瞬間、耳元を掠めた感触と短い悲鳴。

 反射的に抱き寄せれば、流石に驚いた様子でまじまじと彼を見詰める少女がいた。

 夢では無いのかと、更に力を込めて柔らかな感触を確かめる。

 月明かりの下、寝台の上。

 その温もりが、辛うじて彼を掬い上げたらしかった。

 どうやらこれは、現実の事らしいと思考が落ち着いて来た所で溜息も出る。



「本当に………君、何なのかな」

「あ、のですね……一応自分なりに考えてみまして、悪夢の打開策を実行に移したら……どうしてかこうなりました……」



 此処でふと、気付く。

 いつになく少女の声に、落ち付かない様子が見て取れた。

 まさかね、とは思いつつも試してみようと抱き寄せたそのままで別方向へ力を加えてみた。


「………クルル? な、何だかこの体勢は落ち着かないですね……」


 何時だったか、寝台の上で少女に覆い被さられた時があった。

 今、彼が取っている体勢はその間逆。

 覆い被さった状態で覗きこめば、普段はどこかズレた反応が返って来る筈の少女から、半信半疑でも予想していた反応を引き出せた。


 それにしてもこれは、過分に目の毒だ。

 倒した拍子に寝台へ散らばった彼女の長い髪は、月明かりで艶を増している。

 困惑を深めながらも、殆ど抵抗をしない少女にむしろ殺意に似た何かを覚えつつ。

 冷静を装い、被さったままで問い掛ける。



「君、今まで何処にいたの?」

「………あの、クルル? 何時になく怖い目をしている気がするのですが……ん」



 普段通り、話を逸らされては堪らない。

 此方のペースで進めないことには、核心に至ることは難しいだろう。

 自覚した部分が、安堵だけに納まる筈も無い。

 牽制の意味を込め、顔を寄せて一時呼吸を塞いだ。


 重なった唇を、深めずにおくのにはそれなりの苦悩が付き纏う。

 やれやれ、難儀な話だと思いながら口付けから解放した。


 恐らく彼女はこう言う。

『そのまま、窒息死させて貰えると期待しました』と。

 我ながらいい読みだと感慨に浸っていたものの、一向に返答が無い。



 首を傾げて、彼女の様子を窺った時点で後悔した。

 花のような顔を真っ赤に染めたまま、拘束したままの片腕に必死に顔を隠そうと奮闘している。



 そんな姿を見せられて、理性が飛んでも。

 恐らくそれは彼の責任ではない。



「エリノア……これは君が悪い」

「クルル? ……っ、待って…」

「待たないから」



 散々君は、僕を待たせたんだ。

 だからその責任を果たすのは、君をおいて他にいない。



 耳元で囁いて、手繰り寄せた彼女はこれまで見たどんな彼女よりも美しかった。




 *




 長い夜の合間に、聞き出した話の断片を整理する。

 漠然と予感はしていたものの、当初から互いの認識は尽く食い違っていたことが判明した。

 彼は溜息を隠さない。

 まして彼女は示された熱情が原因で、思う様に身体を動かす事すら儘ならない。



「クルル………生殺しなんて、酷いです」

「物騒なこと言わないでくれる? そもそも夜半に忍び込んできたのは君だろう」



 月光の下で、耳元に囁けば。

 少女は真っ赤な顔をして、シーツの隙間にもぞもぞと潜り込んでいく。リスか。

 巣穴に籠ろうと頑張っているようで、微笑ましいのは否定しないが。

 そもそもここ、君の寝台じゃないからね。



「巣穴違いだよ、エリノア」

「………貴方は、本当に残酷です」



 耳だけを覗かせ、震える少女へ。

 シーツ越しに抱き寄せて、ようやく告げるそのことば。




「あの時の君は、まだ幼かった。………夜に逢いに来なかったのは、最後まで気付かせずに『夢』のままで終わらせるつもりだったから、だろう?」




 返答など、求めてはいなかった。

 彼が求めるのは、『夢』ではなく。



 彼が今こうして腕に留めている。

 それが全ての答えだからだ。


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