家政婦を見られた その一
「光様、起きて下さい。朝ですよ」
「ん……ん〜……」
明の声が聞こえ、藤原は目を覚ました。
重たい瞼を開くと、覗き込んでいる明の顔が見える。
「おはようございます、光様♪」
明が笑顔で言い、
「お……おはよう……」
藤原が覇気の無い声で答えた。
それを確認すると、明はカーテンを開ける。
朝の日差しが、部屋の中へと差し込んだ。
「朝食が出来上がりましたので、早く下りてきて下さいね」
「あ、あぁ……」
そう言うと、明は部屋を出て行った。
暫くして、藤原がリビングに現れる。
どうやら、まだ半分は眠っている様だ。
椅子に座ると、力無くテーブルに突っ伏した。
「大丈夫ですか、光様?」
「……休みがあった気がしない……」
土曜日にアリスが来襲し、その後始末だけで休日が終わってしまったのだ。
休みなど、有って無いようなものだった。
「新しい食器で、気分も新しくなりますよ♪」
藤原とは対照的な声で言うと、明は朝食を持って来る。
昨日買ってきたばかりの食器やコップが並んだ。
「物は言い様……って事か」
そう呟いて、藤原は朝食を食べ始める。
少し経って、チャイムが部屋に鳴り響いた。
「こんな時間に……誰でしょう?」
「俺が出るよ」
立ち上がると、藤原は玄関へと向かった。
「お兄ちゃん、おはよう!」
ドアを開けると同時に、背の低いツインテールの少女が飛び付く。
「な!? あ、アリス!?」
突然の事に、藤原の目は一気に覚めてしまった。
そんな事は意に介さず、アリスは元気な笑顔で藤原を見上げる。
「朝のご奉仕に参りました♪」
「まったく……一昨日一緒に後始末したのに、何でお前はそんなに元気なんだ……?」
朝一番から誤解を招く発言をするアリスに、藤原は素っ気無く返した。
「だって、お兄ちゃんとの共同作業なら、どんな事でも出来るんだもん♪
何だったら、今、この場でケーキ入刀、そして誓いのキスだって……♪」
アリスは一人で勝手に話を派生させ、妄想の世界へと旅立った。
ふと、藤原がアリスの着ている服を見て気付く。
「あれ……アリス……その制服……」
「……あ、気付いた? お兄ちゃんの高校の制服だよ」
現実の世界へと戻って来ると、アリスはその場で一回転した。
制服のスカートが、ふわりと翻る。
「……何故?」
「ボク、お兄ちゃんと同じ高校に通うんだ♪」
事も無げに言ってのけたアリスに、
「…………」
藤原は暫し沈黙する。
「お兄ちゃんとの学園生活、楽しみだなぁ♪
放課後の教室とか、保健室とか、屋上とか♪」
その間にも、アリスは偏った期待を馳せていた。
「まさか、またアリスと同じ通学路を歩くとはな……」
通学路を歩きながら、藤原は呟いた。
「小学生以来だね♪」
アリスが隣で楽しそうに答えて、藤原に抱き付こうとする。
藤原がそれをかわすと、アリスはそのまま前のめりになって倒れた。
「…………痛い」
「やれやれ……急に抱き付こうとするからだぞ」
呆れながらそう言うと、藤原は手を差し出す。
アリスがその手を握ったのを確認すると、上に引っ張って立ち上がらせた。
「……ゴメンね、お兄ちゃん」
立ち上がると同時に、アリスが囁く様言う。
「……? 別に、これくらいでそんな……」
「ううん、そうじゃなくて、その……一昨日の事……」
どうやら、一昨日起こした事件の話らしい。
「もう良いよ。誰も怪我しなかったし、後始末は手伝ってくれたし、
窓や食器も弁償して貰ったし……今更怒る理由も無いだろ?
それに、あいつらならお前の秘密を口外する事も無いだろうし」
そう言って、藤原はアリスの頭を撫で付けた。
アリスは、嬉しさと恥ずかしさが混じった様な声で、
「うん……ありがと……」
漏らす様に呟いた。
「はぁ〜……今から緊張するよ〜……」
後者が見えてきた頃、アリスは溜め息混じりに言った。
「でも、一回は経験してるだろ?」
「八年も前の事だし、回数で慣れる事じゃないよ」
「いつもみたいに、片っ端から飛び付いてやれば良いだろ」
「むぅ〜、他人事だと思って……」
藤原の対応に、アリスは不満げに頬を膨らませる。
しかし、すぐに何かを思い付いた様だった。
「そうだお兄ちゃん、一昨日みたいに抱いて♪」
「…………何故?」
アリスの突拍子も無い発言に、藤原は半ば呆れながら尋ねた。
「えっとね……お兄ちゃんに、勇気を分けて欲しいんだよ」
おちゃらけた感じで言ったが、これがアリスの本心なのだろう。
そうでなくても、転校初日は緊張するのだ。
魔法使いの血が流れていて、特殊な事情を抱えているアリスなら尚更だろう。
「……やれやれ、今回だけだからな」
藤原は止むを得ず了承すると、周囲に誰も居ない事を確認し、アリスを抱き寄せた。
「えへへ……八年経っても、ボクの居場所はずっと……」
アリスは、とても幸せそうに呟く。
そんな台詞とは裏腹に、小さな身体は震えていた。
「……もう良いだろ?」
アリスの震えが収まり、藤原はアリスに尋ねる。
「うん、ありがと♪ ……よ〜し、頑張るよ〜!」
自らを激励する様な声を上げて、アリスは駆け足になった。
「お、おい、先行って大丈夫なのか!? 道判るか!?」
「もう見えてるから、平気平気〜!」
藤原の制止の声も、殆ど聞き流している様だ。
アリスの声は、見る見る小さくなっていく。
「……やれやれ、忙しくなりそうだ……」
半ば呆れながら呟く藤原。
しかし、その表情は、若干微笑んでいる様にも見えた。
「じゃあ、呼んだら入って来て下さい」
「は、はい……」
担任に促されるままに、アリスは廊下で待つ事にした。
「ここが……ボクの新しいクラス……」
これから自分が通う教室をドア越しに見ながら、アリスは呟く。
ドア越しに、生徒達の喧騒が聞こえた。
心臓の鼓動が高鳴り、息が少し苦しくなる。
気付いた時には、掌が汗を握っていた。
廊下特有の冷たい空気と相俟って、ヒヤリとした感覚を覚える。
「ゴメン、お兄ちゃん……もう勇気使い切っちゃった……」
アリスが自嘲気味に、誰にでもなく囁いた。
「はい静かに! 携帯や漫画は仕舞う!」
教室から鶴の一声が聞こえ、喧騒が水を打った様に静まった。
「今日の朝のHRは、転入生を紹介する」
が、すぐに響動めきが聞こえる。
「ちなみに、女の子だ」
更に、男子の歓声が上がった。
「はい、はい! 野郎は騒がない!」
それをどうにか沈めるが、余波が収まる気配は無い。
「も、もうすぐだ……」
アリスは右の掌を開き、左の人差し指を宛う。
「……え〜と……何だったっけ……?」
暫く考えた後、掌に『犬』と書いた。
「じゃあ、入って来て下さい」
担任が言ってから少しの間の後、ゆっくりとドアが開く。
そろそろと入って来た転入生を見て、生徒達は皆響動めいた。
彼女は、どう見ても高校生とは思えないのだ。
百四十センチ有るか無いかの身長。
地毛と思われる、ブラウンのツインテール。
全く膨らんでいない、本来女性の象徴であって然るべき胸。
――もっと、もっと下の学校の生徒ではないのか。
そんな思いが、生徒達の頭の中を過ぎっていた。
彼女は、どうにか教卓の前まで辿り着くと、生徒達の方を向く。
明らかに緊張している様子で、顔は紅潮していて、青ざめてもいた。
「では、自己紹介をお願いします」
担任に促されると、彼女は大きく息を吸って、吐いた。
それでも言葉が出ないらしく、暫く生徒達を見渡す。
「…………ア…………です。よ…………お…………す」
最前列で耳を澄ませてもまともに聞こえない声で、彼女は言った。
それでも彼女にとっては必死の叫びだったらしく、
何かをやり遂げたかの様に深呼吸を繰り返す。
「……黒板に書いて下さい」
担任は賢明な判断をした、筈だった。
言われるままにチョークを手に取り、彼女は黒板に手を伸ばしたが、
「…………」
上の方まで届かない。
背伸びしてみたが、
「…………!」
届かない。
とうとうジャンプまで始めるが、
「…………! …………!」
やはり届く事は無かった。
見かねた担任が、台をそっと足下に置く。
彼女はそれに乗ると、ようやく名前を書く事が出来た。
少し小さめの文字で、『望月アリス』と書かれている。
「……まぁ、そう言う訳だ。仲良くしてやってくれ」
担任は、半ば強引に纏め、教室を出ていった。
同時に、教室は再び響動めきや歓声で満たされる。
アリスは、とても気が気ではなかった。
自分を欲望の眼差しで見つめる、二つの瞳に気が付かないくらいに。