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暑さも寒さも彼岸まで  作者: ミスタ〜forest
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その胸をよしとする 後編

 その日の夜、夕は藤原宅に帰宅した。

 心の整理はまだ済んでいないが、今日行く事は既に伝えている。

 三人分の食事を用意してくれているだろうから、勝手な事は出来ない。

「お帰りなさい、夕」

「ただいま、姉さん」

 メイド姿の明が、笑顔で出迎えてくれる。

 ――姉さんみたいな人が、男の人の理想なんだろうな。

 そんな考えが、夕の頭を過ぎった。

 誰もが和やかになる、柔らかな物腰。

 自分の損得を二の次にする、献身的な性格。

 花に似た香りがする、絹の様なロングヘア。

 そして、控えめな彼女の性格とは対照的な、二つの膨らみ。

 それすらも、身勝手な自己主張はせず、母性のみを感じさせる。

「今、夕食を作っているところなんですけど……。先にお風呂にします? 夕食まで待ちます?」

「私も手伝うよ。お風呂は、後で一緒に入ろ」

「わかりました。手洗いうがいは、ちゃんとして下さいね」

「はーい」

 いつものやり取りを済ませて一旦部屋に戻り、着替えてから洗面所へ行く。

 どうやら藤原は、自室で将棋の本を読んでいるらしい。

 一応、手伝いは自分がするから、と伝えておいた。

 これで、邪魔が入る事はない。

 一人きりの洗面所で、夕はぼんやりと考えていた。

 出したままの水が、手を伝って落ち、排水溝へ流れていく。

「恋……か」

 誰にでもなく呟く夕。

 あれからというもの、それ以外の事を考えられなかった。

 恐らく病気ではないであろうが、何となく額が熱い。

 試しに顔を洗ってみても、冷めてくれない。

 どことなく夢心地で、地に足が着かない様な感覚を覚える。

 難しく考え過ぎてしまい、知恵熱でも出したのだろうか。

「何で、女性の胸は大きくならないといけないんだろ……」

 そもそもの原因を責める様に、夕は呟いた。

 もちろん、仮に答えが返って来たところで、どうする事も出来ないのだが。

 学術的な答えならば、自分でもある程度出す事が出来る。

 乳腺の保護だとか、猿だった頃の尻に代わる性的アピールだとか。

 そんな答えが欲しくて、こんな事を考えたのではない。

 哺乳類の中でも特に胸が大きくなる人類に生まれた事が、そして自分がそうならない事が、恨めしいだけ。

 結局、『何故胸が大きくならないのか』を、遠まわしに嘆いただけだ。

 より厳密に言えば、自分でない誰かの所為にしたいだけ、とも言う。

 自分の胸が、他の女性と同じ様に……せめて、この身長に吊り合うだけでも大きくなれば、こんな事で悩まなかった。

 だからこそ、明に頼まなければならない。

 今宮の話を信じる事が、自分の胸を大きくする為に残された、数少ない手段なのだ。

 胸さえ大きくなれば、コンプレックスは解消出来る。

 明に『あんな事』を頼むのも、所詮それまでの間の事。

 この動悸も、時間が解決してくれるだろう。

 タオルで手と顔を拭き、夕は台所へ向かった。



 台所では、明が料理の最中であった。

 鼻歌交じりに、てきぱきと野菜を切り分けている。

「今日は掻き揚げと……お肉も揚げてしまいましょうか。

夕は牛蒡を笹がきにして下さい。水を張ったボールの上でやると、灰汁抜きも……」

「姉さん」

「はい?」

 夕が声をかけると、明は手を止めて振り向いた。

 ――ちゃんと、頼まないと。

 そう思って自分を奮い立たせようとするが、ここにきて覚悟が定まらない。

 迷えば迷う程、更に迷いが生じる。さながら蟻地獄だ。

 よくよく考えてみれば、何も今すぐ頼む必要はなかった。

 わざわざ、夕食の準備で忙しい今を選んでしまうなんて。

 一緒に風呂に入ったり、適当に理由を付けて一緒に寝たりと、二人きりになる手段はいくらでもあったのに。

 次の言葉が出ない所為で、明は怪訝な表情を浮かべる。

 とにかく、このまま料理に戻られては、意気地の無い自分では、もう頼めまい。

「一つだけ、お願いしたい事があるの。こんな事、姉さんにしか頼めないから……」

 もしかしたら、明に嫌われるかも知れない。

 そうでなくとも、今のままではいられないかも知れない。

 今宮に提案された時、自分は『この人は何を言っているんだろう』と思った。

 明も、そう思うに違いない。

 自分は、まだまだ教師としての自覚が足りない。

 例えどんなに生徒に慕われようとも、明一人を失うだけで、立っていられなくなりそうだからだ。

 そして、その明を失いかねない行動を取ろうとしている。

 この胸を、せめて人並み程度に大きくしたいからだ。

 自分が人と違う事に、耐える事が出来なかったからだ。

 そんな弱さを明に晒け出す行為を、自分はしようとしている。

 そう思えば、肌を晒す事など、大した問題ではなかった。

「夕!? 一体何を……!?」

 驚き、戸惑う明。

 耳まで赤くなっている事を自覚しつつも、夕は服を脱ぎ捨て、ブラも外した。

 腰から上を覆う物が無くなり、辛うじて女性である事が判る胸が露わになる。

「私の胸を……姉さんの手で……揉んで……大きくして下さい……!」

 ついに、言ってしまった。しかも、何故か敬語で。

 達成感の数十倍に及ぶ後悔が、夕を襲う。

 恥ずかし過ぎて、明の顔を見る事が出来ない。

 これで断られたら、自分は何もかも終わりだ。

 もう二度と、この家の敷居を跨ぐ事など出来ない。

 しかし、もしも引き受けられたら……。

 そうなった時の自分と明を想像するのも、同じ位に耐えられない。

 何で、こんな馬鹿な事を頼んでしまったのだろう。

「し、正気ですか、夕!? 一体何があったんです!?」

 表情は見ていないが、驚いている事は容易に判る。

 明の質問は、至極真っ当だ。

 自分が明の立場でも、同じ事を尋ねるだろう。

「職場で教えて貰ったの。好きな人に胸を揉んで貰うと、大きくなるって。

好きな人って、私にはまだ解らないけど……姉さん以外に、こんな事頼めないし」

「そう言われましても、私は按摩師ではありませんし、女性同士、それも姉妹でそんな事……。

そんな事をして胸が大きくなって、夕は満足なんですか? 誰も、胸の大きさなんかで夕を蔑んだりは」

「姉さんには解んないよ!」

 思わず、夕は明の言葉を遮ってしまった。

 それと同時に顔を上げ、明の驚いた顔が目に映る。

 ――こういうのを、日本では『逆ギレ』って言うんだっけ?

 自分でも理不尽な行為である事は理解しているが、溢れ出す感情を止める事は出来なかった。

「姉さんはすぐに大きくなったから、どうせ私の気持ちなんて解らないよ。

私は思い知ったよ。人と違う事が、どれだけ世間に受け入れて貰えないか。

この歳で教壇に立つ為に、必死に戦ったから。

懇意にしている教授は、もうしばらく研究室に居ないかって声をかけてくれたけど……。

年齢の所為で、能力も、志も評価して貰えないなんて、悔しいじゃない。

でも、本当に心細かった。味方なんて居なかったもの。

私は世間と違う。普通じゃない。そんな葛藤が、ずっと纏わり付いてた。

何度も諦めそうになったけど、最後まで戦って、こうして教壇に立っているの」

 話しているうちに、教師になる前の自分が、脳裏に浮かんだ。

 実力だけで評価してくれた大学と、世間のギャップ。

 その溝を埋めるには、当時の自分は若過ぎた。

 誰かに頼りたいと願うも、それを叶えてくれる人はいなかった。

 毎晩の様に枕を濡らし、朝が来れば再び戦う。そんな毎日だった。

 将来、明草高校の教壇に立てる事など、当時の自分は決して信じないだろう。

「今は、職場の人達は良い人ばかりだし、仕事も本当に楽しいと思ってるよ。

……でも、私には、もう一つ、普通じゃない箇所があった。それが、この胸。

身長が高いからこそ、胸が小さい事が尚更目立つの。望月さんとは訳が違うの。

確かに、姉さんくらい胸が大きくなれば、それはそれで悩みもあると思うよ。

でも、胸が小さいのはもっと深刻なの。女性としては死活問題なの。

だって、男女を区別する一番簡単な方法って、間違いなく胸でしょ?

人類が二足歩行を始める過程で、性的アピールの方法を尻から胸に変えた事は、かなり有力な説なの。

だからこそ、男性は女性と会った時、真っ先に胸を見るんだと私は思うの」

 自分の悩みを理解して貰う為に、出来る限り丁寧に説明する。

 人間の女性は、他の動物と比べて胸が大きくなる事を。

 胸が大きくなる事による悩みは、人間として普通の成長を遂げた証拠である事を。

 その胸が膨らまないという事は、人間である事すら否定されている様に感じる事を。

「その点私は、背は職場の女性の中でもかなり高い方なのに、胸はAになったばっかりで……一番小さいの。

その所為で、皆は陰で私の事を『貧乳先生』とか『洗濯板』とか『バキュラ』とか呼んでて……。

今はその程度で済んでいるけど、いつか、私は排除されるかも知れない。

私は、普通じゃないもの。普通じゃない人は排除されるのが、この国のルールだもの。

年齢は時が経つのを待てば良いけど、この胸は、恐らくそうはいかない。

私と同世代で私より胸が小さい人なんて、校内には望月さんくらいしかいないもの。成長は絶望的だわ。

だから、普通じゃない私は、例え普通じゃない手段だろうと、それにすがる他に無いの!

私を『普通』に……『女』にして、姉さん! お願いだから……!」

 夕は両膝を突いて、明にすがり付く。

 ――何やってるんだろうな、私。

 自身の体たらくに、夕はそう思わずにいられなかった。

 明が家を出てから、自分なりに努力し、進路を選び、仕事に就き、大人になったつもりでいた。

 明と再会し、これからは対等な大人同士として、彼女を支えていこうと思っていた。

 明が普段誰にも見せない、脆い一面を知っているから。そんな明の妹だから。

 だが、結局はこの様だ。

 自分が普通でありたい為に、明に普通ではない事をさせようとしている。

 自分の胸が普通でないばかりに、明まで普通ではない人間に堕するかも知れないのだ。

 並外れた……普通ではない頭脳で、数多の賞賛を浴びた報いが、この胸なのだろうか。

 思えば、この頭脳があったばかりに、普通ではない経歴を抱える事になってしまった。

 全ての始まりは、この頭なのかもしれない。

 だとすれば、この上ない程に皮肉な話だ。

「夕……ごめんなさい。貴女がそこまで深刻に悩んでいる事に、気付いてあげられなくて」

 最初は驚いていた明だが、やがて、優しく声をかけた。

 夕と同じ体勢になり、目線を合わせて、両肩に手を置く。

 明の優しい目が痛くて、夕は明の胸に顔を埋めた。

 疎ましい筈の大きな胸だが、今は不思議と安心感を覚える。

 母に抱かれていた頃の記憶が、心の片隅にでも残っているのだろうか。

「ですけど、夕。貴女が心配する事は、何も無いんですよ。

貴女の悩みは、要するに、仲間はずれにされるのが怖いという事。

だから、他の人と違うその胸が嫌で、皆と同じになりたいんですよね?」

 明の胸の中で、夕は小さく頷く。

「貴女は、胸が小さい人の悩みを、大きくなるのが普通だから、胸が大きい人の悩みよりも深刻だと言いました。

ですが、胸が大きい人の悩みも、やはり深刻だと思いますよ。

確かに、人は成長して、背が伸びたり、女性なら胸が大きくなるのが普通です。

でも、極端に背が低い人が注目される様に、極端に背が高い人も、やはり注目されますよね?

どちらも、普通ではないという点では同じなんです。もちろん、胸だって同じですよ。

重くて大きくて、その癖異性の目を引く程度にしか使えないのですから、実生活での悩みは、大きい方が多いかもしれません。

これは、あくまで私の……胸が大きい人一人の感覚に過ぎませんけど」

 やんわりと、それでいて的確に反論され、夕は何も言えなかった。

 明の言う通り、胸が小さい事で、実生活で困る事は無い。

 男性が、胸が膨らまないばかりに生活で支障をきたした、などという話も聞かない。

 乳腺の保護も性的アピールも、結婚や育児といった、限られた状況でしか意味を持たない。

 その時以外は錘でしかないのだから、普段は邪魔なのだろう。

 その上で、胸が大きい事も、胸が小さい事と同じくらい普通ではないと言われては、返す言葉も無い。

「普通でありたい、皆と同じでありたい、仲間はずれにされたくない……。

人間ならば、誰もが心のどこかでそう思っています。一人で生きる事が出来る人間なんて、存在しません。

ですが、生まれも育ちも異なる以上、誰もが何かしら普通ではない一面を持っています。

貴女と同じ悩みを抱えた人は、星の数程いるんです。貴女は……貴女の悩みは『普通』なんですよ」

 思わぬ切り口での反論であった。

 普通になりたいという悩みに、その悩みこそが普通であると返されるとは。

「誰一人として普通ではない……いえ、『全ての人に個性がある』から、世の中は回っているんです。

貴女は教育者として、『普通ではない』生徒達を尊重し、導く義務があります。

一刻も早く、『普通ではない』を、『個性がある』に置き換えなければなりませんね」

 更に、教師としての未熟さまで指摘されてしまった。

 人に教える立場の人間が、形無しである。

 勉強がどれだけ出来ても、年の功には敵わない、という事か。

 顔を上げると、明は慈しむ様な笑みを浮かべる。

「もしも、その胸だけを理由に貴女を蔑む人がいるなら、その人とは縁が無かったんです。

頭が良くて、教師として一生懸命だけど、胸が小さい事で悩んでしまう、一介の少女に過ぎない貴女を慕ってくれる人は、きっとたくさんいますよ。

少なくとも、ここに一人。私は、世界に一人だけの貴女の姉として、貴女の全てを愛していますよ」

「あ、あい……ッ!?」

 最後の十文字程度が、夕の薄い胸を貫いた。

 頭から爪先に至るまで、電流が走ったかの様な感覚に陥る。

 ――そんな……こんな、こんなにあっさり……!?

 強烈なフレーズが、何度も頭の中で再生される。

 一体、自分は何をあんなに悩んでいたのだろうか。

 こうも堂々と言われては、先程の自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。

「胸こそ控えめな方なのでしょうけど、身体のラインは綺麗ですし、和服なら夕の方が間違いなく似合うでしょうね」

 当の明は、先程の言葉を何とも思っていないらしい。

 この温度差は何なのだろうか。

 自分も、『世界に一人だけの貴女の妹として、貴女の全てを愛して』いるのだが。

 恐らく、昨日までならば、臆面も無くそう言えただろう。

 だが、今は言えない。考えるだけで心臓がパンクしそうだ。

 そんな事を考えているうちに、明が頭を撫で始める。

 幸せな筈なのに、胸がどぎまぎして、息が苦しくなってくる。

 ――そうか。だから『心』は胸にあるんだ。

 数時間を経て、ようやく寺町の言葉を少しだけ理解した夕であった。

 明の一言で、普通になりたいと悩んでいた事は、すっかり吹き飛んでしまった様だ。



「……ところで、夕」

「はいッ!」

 膝の上の猫の様な、ぽやぽやとした気分に浸ったまま、どのくらい経ったのか、夕には判らない。

 数秒の事だったのかも知れないし、数分に及んだのかも知れない。

 明に名前を呼ばれ、夕は脊髄反射的に返事をする。

「ずっと違和感を感じていて、ようやく気付いたんですけど……」

「な、何!?」

 また殺し文句を言われたら、今度こそ冷静ではいられない。

 心臓の高鳴りを抑えられないまま、夕は心の中で身構える。

「胸を揉んで欲しいだけなら、わざわざ裸になる必要は無かったのでは?」

「…………あ」

 最初の数秒、夕は明の言葉の意味が解らなかった。

 そして、ようやく理解する。

 自分が如何に恥ずかしくて、尚且つ無駄な事をしてしまったか。

 これ以上無いと思っていたにも拘らず、更に顔に血液が集まるのが判る。

「あぁああああああああああああああああああああああッ!」

 顔の熱量を発散するかの様に、夕は叫んだ。

 羞恥と後悔を、まとめて吹き飛ばすくらいの勢いで。

「な、何だ!? 夕、大丈」

 その声を聞いた藤原が、すぐさま二階から駆けつける。

 上半身裸の夕と、彼女と対峙している明を目の当たりにした瞬間、藤原の動きが止まった。

 夕は、最早声を出すことすらままならない。

 そのまま数秒が過ぎて……。

「まあ、その……TPOを考えて、な」

 そう言い残して、藤原はリビングを去っていった。

 声、表情、足音、そのどれをとっても、非常にくたびれた様子であった。

青春だの恋愛だのジャンプ三大原則だのとは無縁なコント小説を書いてきたつもりでしたが……。

いつの間にやら、夕がちゃっかり青春してますね。教師なのに。貧乳なのに。

教師総出でコントした前半、夕と明の百合(?)がメインの後半、どちらも楽しく書けました。

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