その胸をよしとする 前編
「はあ……」
放課後の職員室で、夕は溜息を吐いた。
部活や職員会議が始まる前の、教師が一息吐く一時。
それには似つかわしくない、深い溜息だ。
難しい本や書類が積まれたデスクに肘を突き、遠い目をしている。
「どうしたんですか、西口先生?」
隣の席でプリンを食べている梅田が、夕に問いかける。
事件を起こして以来持ち込み禁止となった生物及び水槽の代わりに、そのデスクにはお菓子が散乱していた。
その内の一つを差し出すが、夕は見向きもしない。
最後の一口を頬張ると、梅田は夕の方に身体を向けた。
「何か良くない事でもあったんですか? そういう時は、ミジンコを観察すると良いですよ。
私も合コンは五十連敗くらいしてますけど、ミジンコが支えになってますから。
すっごく小さくて可愛くて、とっても癒されますよ!
餌の植物プランクトンは、日当たりが良ければ勝手に増えてくれますし、飼う手間も殆ど……」
「ち、小さい……!」
梅田の言葉の一部に反応する夕。
ミジンコの話に夢中になっている梅田は、それに気付かない様だ。
夕は椅子ごと梅田の方を向くと、獲物を見付けたヤゴの様に両手を伸ばす。
夕の両手は、梅田のささやかな――それでも夕よりは大きい――膨らみを鷲掴みにした。
「ひゃうッ!?」
突然過ぎる夕の行動に、梅田の身体がビクンと震える。
「に、西口先生!? 私、そういう趣味は……ひゃあぁんッ!」
「……分けて下さい」
「ま、まだ誰にも触られた事なんて……ふぇ?」
「私よりずっと背が低いのに、胸は大きいなんて非科学的です! 一センチで良いから分けて下さい!」
梅田の涙目を見据えて、夕は叫んだ。
これは好機と言わんばかりに、カメラの準備を始める男性職員達。
「だ、ダメですよ! そんな事したら、私の方が小さくなっちゃうじゃないですか!
身長と胸の大きさが正比例する訳じゃありませんし、第一分けるなんてどうやって……ひゃぁああああああああッ!?」
「はいはい、その辺にして下さい」
夕の行為がエスカレートし始めたところで、天王寺が止めに入った。
男性職員達の間から、舌打ちが聞こえる。
貧乳とロリの貴重な組んず解れつに眉一つ動かさない事から、妻帯者の余裕を感じるのだろう。
「西口先生、堂々とセクハラをするのは止めて下さい。仕事だって終わってないんですから」
「皆に『貧乳先生』って呼ばれる事が、私の仕事なんですか!?」
「そ、それは……その……は、はは……」
思わぬ反撃を受け、天王寺は言葉を濁す。
実際、生徒や教師の間では、その呼び方で通用しているのだ。
教師間では、本人には直接言わないようにしていたのだが、どこからか聞きつけたのだろう。
「胸の大きさの差が、女性の魅力の差という訳じゃないですよ」
「そんな事言って、桜さん結構あったじゃないですか」
「そりゃあ、西口先生基準なら誰でも……」
目に映りそうな程の殺気を夕から感じ、天王寺はその言葉を飲み込んだ。
とりあえず、これ以上梅田が狙われないようにしなければ。
「西口先生、この国は累進課税を採用しているんです。持つ者から持たざる者へ、が原則なんですよ。
西口先生が梅田先生からバストサイズを奪おうとするのは、無い者同士の奪い合あべしッ!?」
夕と梅田からビンタのサンドイッチを食らい、天王寺は倒れた。
所帯持ちでありながら勇敢に散った彼に、職員達は敬礼する。
彼の活躍によって、夕のセクハラで分かたれようとしていた二人の仲は守られたのだ。
共闘を経て通じた絆は、容易には絶てないだろう。
「ふふ。その理屈だと、『持つ者』は私なのかしら」
これ見よがしに胸を強調しながら、今宮が現れる。
白衣を身に纏った、明にも劣らないその身体は、まさに保健の先生を体現していた。
明のそれが母性を感じさせるのに対して、今宮のそれは情欲を煽り立てる。
「今宮先生なら判りますよね!? どうすれば胸が大きくなるんですか!?」
説得力のあるアドバイスを受けるべく、夕は今宮にすがり付いた。
「どうすれば、と訊かれても困るけど……。西口先生の歳なら、まだ充分成長の余地はあるわね。
仕事や勉強を頑張るのは結構だけど、成長を阻害しない為にも、健康は大切にしないと」
「せ、成長……ですか」
歯切れの悪い反芻をし、夕は梅田を見る。
百五十をどうにか超えた程度の身長に、気持ち程度の膨らみ。
車でも運転しようものなら、至る所で職務質問されそうだ。
「い、今、哀れみの視線を感じたんですけど!?」
察しの良い梅田が、思わず胸を隠しながら涙目になる。
胸だけでは済まないからこそ、尚哀れなのだが。
「梅田先生くらい極まれば、逆に需要がありそうじゃない。ほら、携帯電話やパソコンだって軽量化の一途を辿ってるし」
「どうせ私はコンパクトな女ですよ! うわぁああああああああんッ!」
今宮に止めを刺され、梅田は泣きながら理科室へ走っていった。
いつも通り、ミジンコに愚痴るか、人体模型に泣きつくのだろう。
「医食同源という言葉もある。健康も成長も、食事を見直す事が第一だ」
梅田と入れ替わる様に、鶴橋が現れた。
筋骨隆々なその肉体が、言葉に圧倒的な説得力を付与している。
今宮と同じく、判り易過ぎる程の体育教師だ。
「今時の女は、体重ばかり気にかける。もっと肉を食え!」
「そんな事言って、次のコンパを焼肉屋にしたいだけじゃひでぶッ!?」
鶴橋の本心を見抜いた天王寺は、鶴橋の踏み台になった。
そのまま倒れていれば良かったのに、と誰もが思う。
「その台詞、娘にも言ってあげたらどう? 見ているこっちがいたたまれないじゃない」
「あいつは別だ。体質的に、無理に食べさせられん」
「それだけの問題じゃないから、こっちは尚更手を焼いてるのよね……」
鶴橋の答えに、今宮は溜息を吐いた。
「まあ、確かに肉類の摂取は必要ね。胸は脂肪で出来てる訳だし」
「私、食事はちゃんと取っている筈なんですよ。時々、作るのが面倒になって、簡単に済ませる事もありますけど」
「そういえば、お昼も自分で作って来てたわね。若いのに偉いわ」
梅田の昼食――チョコとクッキー――を見ているだけに、今宮は感心しきりだった。
夕は、週の半分は明と過ごしているが、残りの半分はアパートで一人暮らしである。
明の料理を手伝う一時の為に、一人の時にも練習を欠かさない。
明に褒めて貰う事が、現在の夕の原動力である。
「高い肉と安い肉の違いは、運動させるか否かにある。
安い肉は、餌代を切り詰める為に、運動出来ない狭い場所で育てるからな。
人も、運動せずに健康を保つ事は出来ん。食事と運動のバランスだ」
「う、運動……ですか」
またも歯切れの悪い反芻をする夕。
今度は、梅田に対するばつの悪さではない。
「私、運動は苦手なんですよ」
「その歳で運動不足は良くないわね。ジョギングでも始めてみたら?」
「今宮先生……私の百メートル走のタイム、知ってますか?」
「知らないけど、ギャンブラーとして、山勘で答えてみるわ。そうね……苦手だって言うなら、二十秒くらいかしら」
少し考えて今宮が出した答えは、中学生女子の平均より三秒程遅い。
「この前、賭けに負けた私に、体操着で授業させましたよね。
あの後、流れで体育の授業に参加させられて、タイム計ったんですよ。
その時のタイム、鶴橋先生が計って下さったんですけど……」
「五十メートル辺りでリタイア。記録なしだ」
「運動する体力すら無いって事? 面倒ね」
予想の斜め上を行く答えに、今宮の予想は見事に外れた。
百メートルを完走出来ない十代など、誰も想定出来ないだろうが。
「西口先生も今宮先生も、ひど過ぎると思わない、マッケンジー?
私だって、こんなちんちくりんに生まれたくなかったのに……。
この前の合コンなんて、相手の第一声が『どちらのお子様ですか?』だって。
その前も『最近は規制が厳しいから』って……私は小学生じゃないもん! 付き合っても犯罪じゃないもん!
はぁ……マッケンジーだけだよね、私に何もかも曝け出してくれる男性って……結婚出来たら良いのに……」
「お兄ちゃん、梅ちゃんが人体模型相手に何かしてるよ?」
「いつもの事だ。放っておいてやれ」
「あらあら、何の話かしら?」
部活の準備を始めた鶴橋と入れ替わるように、職員室に戻ったばかりの寺町が加わった。
締まったウエストに、少し控えめな胸。
長い髪とスカートを靡かせる美術教師と聞いて、誰が男性だと思うだろうか。
『偽りの熾天使』とは、よく言ったものだ。
「寺町先生! どうして男性なのに胸が大きいんですか!?」
早速寺町に泣きつく夕。
このまま、自分より胸の大きい人全てに訊いて回るつもりなのだろうか。
寺町は少し戸惑うが、事情を察したのか、柔らかく微笑む。
「ふふ……体の性別は問題じゃないのよ。大切なのは、その人の心。
西口先生が乙女の心を忘れなければ、いつかきっと、体も乙女になるわ」
「お、乙女の心、ですか。私、心理学には疎くて……」
「心配しなくても、ここにあるわよ」
そう言って、寺町は夕の胸に手を添える。
平たいとは言え、女性の胸を触ってもセクハラにならない男性は、寺町くらいだろう。
その優しい振る舞いが明を髣髴とさせ、夕の顔が上気する。
「あの、心は脳ですから、頭だと思うんですけど」
「西口先生は、ちょっと真面目過ぎるわね。そういうところも可愛いけど」
そう言って、寺町は上品に笑った。
「例えば、そうね。西口先生は、誰かの事を考えるだけで、胸がキュンってなったりしない?」
「は、はあ……」
寺町の問いに、夕は首を傾げた。
寺町が問うているのは、心因性の動悸の事だろうか。
別に、体調が崩れる程ストレスを感じる相手はいないが……。
とりあえず、知っている人の事を順繰りに考えていく。
同僚にしろ生徒にしろ、全員が親切にしてくれるので、寺町が言う様な感覚は覚えない……筈だった。
――あれ?
「あ、あの、寺町先生」
「どうかしたの?」
「一人だけ……一人だけですけど、考えると胸が苦しくなるんです。
嫌いじゃないのに、寧ろ大切な人なのに、どうして……!?
それに、私、まだ動悸や息切れに悩まされる様な歳じゃ」
「そう。それは良かったわ」
体調が不安になる夕とは対照的に、寺町は安心した様だった。
「若い身空で教師になって、ちょっと心配してたんだけど、杞憂だったみたいね。
大丈夫よ、西口先生。貴女はもう立派な乙女。だって、貴女は今、恋をしてるんだもの」
「……はい?」
「だから、こ・い。大切な人の事を考えて胸が苦しくなるなら、それは恋よ」
「こ、ここここ恋!?」
思わぬ言葉に、夕は面食らってしまった。
そんな事、一度も考えた事などなかった。
夕の顔には、そう書いてある。
「そういえば、この前食べた鯉の子造りは美味しかったわ……安い専門店知ってるから、次のコンパはそこにしない?」
「そっちのコイじゃありませんって」
むず痒くなりそうな展開に聞いていられなくなったのか、今宮は無関係な話を天王寺に振っていた。
男性職員達は、夕の恋人疑惑にどよめいている。
「恋と言われましても、私はまだ未熟で、誰かの伴侶だなんてとても……」
「あら、今のは流石に聞き捨てならないわ」
あたふたと答える夕の両肩に、今宮が手を置く。
夕は思わずびくりと身体を震わせ、そのまま固まった。
「果実を青いうちにもぎ取って、自分の手で熟れさせたいのが、男って生き物なの。
十代の恋は十代の特権! 二十代、三十代になってからやっても、見ててイタいだけよ」
「は、はあ……」
とりあえず頷いたが、夕には意味が良く解らなかった。
今宮の目はあくまでも真剣なので、体験談も込みなのだろう。
後で、藤原にでも訊いてみるとしよう。
「それに、こんな話を聞いた事あるかしら?」
そう前置きして、今宮は夕に耳打ちする。
始めは意味が解らないといった様子だったが、見る見るうちに顔が紅潮する。
「えぇえええええええええッ!? そ、そんなまさか……」
「これでも、医学的根拠はあるのよ。試してみる価値くらいはあるんじゃない?」
「そ、そう言われましても……」
言葉を詰まらせる夕。
とてもじゃないが、まだ心の整理が追い付かない。
この気持ちが本当に恋なのか、それすらも解らない。
教師としての使命感と、姉への憧れ、追い付きたいという思い。
それが、それだけが、今の自分を動かしていると思っていたのに。
「恋は乙女を綺麗にするのよ。西口先生の胸だって、きっと大きくなるわ。
思い出すなぁ……修学旅行の夜に、憧れの男子に一服盛って、人目の付かない場所で……」
夕の初心な反応に、寺町は過去の自分を重ねているようだ。
何やら、色々と物騒な台詞が混じっていた気がするが。
「結局、寺町先生みたいに胸に詰め物をたわばッ!?」
禁句に触れてしまった天王寺が、開いている窓へと放り投げられ、見えなくなった。
廊下側へ飛んでいったので、死んではいないだろう。
「思い切って告白してみたら良いんじゃない? 彼氏が出来れば、運動不足も解決するわよ」
「もう、今宮先生! あんまり乙女をからかっちゃダメですよ」
「あら、失礼。さて、そろそろ仕事ね」
今宮達が仕事に戻った後も、夕はずっと考えていた。
思えば思う程に、胸は締め付けられる様に苦しくなる。
この気持ちが本当に恋ならば、自分はどうなってしまうのだろう。
こんな事が、世間で認められるのだろうか。
恋した相手が……今宮から聞いた『あんな事』を頼む相手が、自分の姉だなんて。
生徒の出番が少ない代わりに、久しぶりに教師陣が総登場しました。
しかも、教師同士の絡みは今回が初。
生徒の前では各々が傍若無人な授業を行っていますが、教師間での力関係が、ある程度見えてきたのではないでしょうか。
ところで、生真面目な娘が恋に目覚める瞬間って萌えません?