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暑さも寒さも彼岸まで  作者: ミスタ〜forest
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夜にはじめて参りたるころ 後編

 ふと気付くと、アリスは昼の住宅街の最中にいた。

「あ、あれ!? ここは一体……!?」

 突然の事に、驚きを隠せないアリス。

 ついさっきまで、確かに藤原と蜜月の一夜を過ごしていた筈なのに。

 辺りを見渡したところ、どうやら家の傍の様だ。

 一体いつの間に昼になり、藤原の部屋から移動したのだろうか。

 まさか、この歳で認知症になったとでもいうのか。

 アリスが戸惑っていると、近くの家から、ドアが乱暴に開け放たれる音がした。

 その家から、一人の子供が飛び出してくる。

「ぼ……ボク!? 何で!?」

 子供の容姿は、間違いなくアリス自身であった。

 身長こそ一回り小さいが、ダークブラウンのツインテールも、付けているリボンのデザインも、自分自身のそれだ。

 何より、出てきた家が、自分の家なのだ。

 驚いているうちに、その子供が自分に向かって突っ込んでくる。

 わき目も振らずに走っている所為か、こちらには気付いていないらしい。

「ぶつかる!」

 アリスは思わず目を閉じるが、

「……あれ?」

 いつの間にか、自分に似た子供は背後を走り去っていた。

 足の速さも、自分そっくりである。

 それにしても、これは一体どういう事なのだろう。

 ここは紛れもなく明草町の自宅周辺で、彼女は昔の自分なのだ。

 あの大きさで、ここに住んでいるという事は、まさか――。

「アリスちゃん!」

 次に家から出てきたのは、血相を変えた、百四十を少し超えた程度の身長の女性。

「お母さん!?」

 その姿は、間違いなく母親であった。

 しかも、あの子供はアリスというらしい。

 到底信じられる話ではないが、最早信じる他にない。

 ――ボク、過去の世界に来ちゃったんだ……。

 走馬灯も疑ったが、ならば自分まで他人として登場する筈がない。

 何より、この若さで死ぬのは、藤原に抱かれた末の腹上死以外認めたくない。

 問題は、これがいつの世界であるか。

 まず確かなのは、過去の自分の幼さからして、一度明草町を離れる前……八年以上前である事だ。

 しかし、それ程昔の事となると、記憶に残っている事も多くはないが……。

 アリスが考えているうちに、アリスの母は深く溜息を吐き、重い足取りで家へと戻った。

 ここで、アリスは新たな事実に気付く。

 今、自分は、この世界の人には見る事も触れる事も出来ない存在である、と。

 母の視界に入ったのに、全く声を掛けられなかった事が決め手だ。

 過去のアリスが出て行った事が原因で慌てていたなら、傍にいた自分に、子供の行方を尋ねるくらいする筈だ。

 それに、過去のアリスとの衝突未遂も説明が付く。

 あれは、どちらかが避けたのではない。彼女が自分をすり抜けたのだ。

 それを証明するべく、アリスは自宅のドアに向かって走る。

 本来ならドアノブに手を伸ばすべき距離になっても構わずに、思い切って飛び込んだ。

 案の定、自分の身体はドアをすり抜け、見慣れた土間に着地する。

 これで、自分はこの世界に何一つ干渉出来ない事が判った。

「きっと、ボクがこの時代の人じゃないから……歴史を変えない為に……」

 考えを巡らせながら家に上がると、母が電話を掛けていた。

 その表情は暗く、救いを求めようと必死である。

 娘とAVの話で盛り上がれる程にオープンな性格の母が、こんな重い空気を放っているのは珍しい。

 ……否。それは今だからこそであり、この頃は――。

「――もしもし、光君? マリアだよー。元気してるかな? 主に男の子として。

……もう、そんな畏まらなくっても『マリアちゃん』で良いってば。マリアは未来の姑なんだから」

「お、お兄ちゃん!?」

 電話の相手は、藤原らしい。

 このやり取りも、今まで何度も聞いてきた。

 今は『マリアさん』と呼ぶ事で落ち着いている。

「いつもアリスちゃんと遊んでくれてありがとね。

あの娘、光君と会うまではネクラだったのに、すっかり明るくなっちゃって。

マリアとしては、光君がアリスちゃんのお婿さんに来てくれると嬉しいな」

 藤原に対して明るく振舞うマリア。

 先ほどの深い溜息や重い足取りが嘘の様だ。

 もちろん、これが虚勢である事は、ずっとマリアを見てきたアリスには手に取る様に判る。

「……それでね。そんな光君に、マリアからお願いがあるんだ。

その前に、ちょっと大事な話があるんだけど、聞いてくれる?」

 思った通り、マリアの声に影が差し始める。

「実はね、マリア達、遠い所に引っ越す事になっちゃったんだ。

……うん。ダーリンの仕事の都合で。ダーリン一人で行かせる訳にも、アリスちゃんだけ置いていく訳にもいかないし」

「!?」

 この話で、アリスはこの世界がいつの事なのかを把握した。

 ――よりによって、この日だなんて……。

「それで、その事をアリスちゃんに話したんだけど……受け入れてくれなかったの。

『お兄ちゃんと離れるのは絶対イヤ!』って言って、飛び出して行っちゃった。

……はは、マリア達とは離れ離れになっても構わないんだろうね」

 マリアの自嘲気味な切ない声が、アリスの心にグサリと刺さる。

 確かに、あの時自分はそう言った。

 吐き捨ててすぐ家を飛び出したので、マリアの心中までは知らなかったが。

 あの時の自分は、両親を恨んでさえいた。

 魔術師の血を繋ぐ為に生まれるくらいなら、生まれない方が良かった、と。

 こんな思いをするくらいなら、いっそ殺して欲しかった、と。

 だから、当時の親子仲は、決して良くなかった。

 藤原のお陰で、多少緩和されてはいたが。

 そして、藤原を失った時、あらゆる恨みを纏めてマリアにぶつけた。

 八歳の子供が思い付く限りの罵声を浴びせた。

 大好きな人と離れ離れにさせられる怒りに任せて、微塵の後ろめたさもなく。

 もちろん、今ではその事を後悔している。

 「生まなければ良かった」が子供を大きく傷付けるなら、その逆も自明の理だ。

 しかし、こうして自分のした事を結果を見せ付けられると、それは尚更大きくなった。

「それで、光君に、アリスちゃんを説得して連れ戻して欲しいの。

あの娘には、もう……マリア達の声は届かない。嫌いな人の話なんて、聞きたくないでしょ。

マリアはお母さん失格だから、もう光君だけが頼りなんだよ。光君なら、アリスちゃんもきっと……」

 泣き出しそうな声で、藤原に頼むマリア。

 母親として何も出来ない事が、余程ショックなのだろう。

 この言葉を最後に、電話は切れた様だ。

 受話器を戻すと、マリアはその場に座り込む。

「……ゴメンね、アリスちゃん。マリアなんかの子供にしちゃって。

マリアも、アリスちゃんと同じ思いに苦しんだのに、アリスちゃんまで……。

マリアなんかが、ダーリンと結ばれなければ良かった。お母さんにならなければ良かった。

でも、アリスちゃんが産まれた時、マリア達は本当に嬉しかった。心から幸せだった。

絶対この娘を幸せにしてあげようって……特殊な生い立ちでも幸せになれる事を教えてあげようって誓ったのに。

なのにマリアは、アリスちゃんに辛い思いばかりさせて……マリアだって……ダーリンと離れ離れにさせられたら……!」

 呟きながら、マリアはぼろぼろと涙を零し続けた。

 アリスも、いつしか貰い泣きしていた。

 あの時、自分が辛いと思っていた裏で、こんなにもマリアは傷付いていたのだ。

 誰よりも自分を愛してくれた人を、誰よりも惨たらしく傷付けていたのだ。

 そして、そんな愚かな自分を、それでもマリアは愛し続けてくれたのだ。

 罪悪感と感謝が心の中で混ざり合い、胸を満たしていく。

 アリスは、マリアの傍で両膝を突き、ギュッと抱きついた。

 腕はマリアの身体をすり抜けたが、そんな事は関係無かった。

 マリアの思いを知った今、何もしないという事だけは出来なかったのだ。

「ゴメンね、お母さん。ボクだけが辛かった訳じゃないのに、ヒドい事言って。

もうボクは、死にたいなんて思ってないから。生まれて良かったって思ってるから。

だから……産んでくれてありがとう、お母さん。身勝手な娘だけど、これからもよろしくね」

 長い時を超えて、ようやく綴られた謝罪と感謝の言葉。

 当然、この世界のマリアには伝わる事などない。

 ――元の世界に戻ったら、ちゃんと言わなくちゃ。

 そう決意すると、アリスは立ち上がった。

 改めて、もう一度見ておきたいのだ。

 この時の自分が、もう一人の恩人……藤原に、本当に恋する瞬間を。

 『今日』は、八年前の、マリアから引っ越す事を告げられた日。

 ベッドの中で藤原と話した、絶対に忘れられない約束を交わした日だ。



 アリスが向かった場所は、近所の公園だった。

 ここは、アリスが初めて藤原と出会った場所。

 藤原に支えられながら友達を作った場所。

 そして、もう一つの大切な思い出が、これから生まれる場所でもある。

 過去のアリスは、いつぞやの様に、公園の隅にいた。

 他に誰もいない公園の隅で、踞って泣いている。

 ――そんな所で泣いてても、何も変わらないよ。

 今の自分なら、そう言えるだろう。

 しかし、この時の自分にとって、藤原は自分の全てであった。

 何度躓いても立ち上がる為の、拠り所としての『全て』ではない。

 失えば何もかもが崩れ去る、危うい均衡を保つ為の柱としての『全て』である。

 やがて、公園に二つ目の小さな影が近づいてきた。

「お兄ちゃん……こんなにちっちゃかったんだ……」

 現れた過去の藤原を見て、アリスはまず驚いた。

 あの頃は見上げていた藤原が、今の自分よりも小さいのだ。

 八年の時が、どれ程人を変えるのかを思い知る一幕である。

「アリス!」

 過去のアリスを見つけた藤原が、彼女へ走り寄っていく。

 アリスは、少し距離を置いて、二人を見守る事にした。

「お兄……ちゃん……」

 涙でグシャグシャになった顔を上げ、過去のアリスが藤原を見つめる。

 その顔は救いを求める……否、既に救われた者のそれであった。

 当時のアリスは、藤原なら必ず自分の味方になってくれると信じていたのだ。

 それは、友情や愛情によるそれを通り越し、狂信者の域に達していた。

「アリス……もう帰ろう。マリアさんも心配してるぞ」

 だからこそ、藤原のこの一言が信じられなかった。

 信じていた唯一の存在に、裏切られたとすら思った。

 あと一息のところでどん底へと突き落とされたかの様な絶望感に見舞われた。

「う、嘘……だよね。お兄ちゃんが……お兄ちゃんが、ボクのイヤな事する訳無いもん。

お兄ちゃんはボクの味方だもん。ボクに反対しないもん……お兄ちゃんは……!」

「俺は、いつでもアリスの味方だ。味方だからこそ、帰って欲しいと思っているんだ」

「でも! このまま帰ったら、ボクとお兄ちゃんは離れ離れになっちゃうんだよ!? そんなのイヤだもん!

……そうだ! お母さんとお父さんだけ引っ越しちゃえば良いんだ。

ボクはお兄ちゃんの家の子になって、本当の妹になっちゃえば良いんだ。どう、お兄ちゃん?」

 過去のアリスの言葉の節々から、如何に当時のアリスが両親を嫌っていたかが伺える。

 その分、異常とも言える程に藤原に心酔している事も。

「……それは、困る」

 少し言い難そうに答える藤原。

 過去のアリスは、いよいよ血相を変えて詰め寄った。

「どうして!? ボクと暮らすのがどうしてイヤなの!?」

「本当に困るのは俺じゃない。……お前だよ」

「ボクが!? 全然解んない! ボクはちっとも困らないもん! お兄ちゃんと一緒だし、お母さんやお父さんから離れられるし」

「だから困るって言ってるんだよ。お前のとこの親は、お前を本当に思ってくれているんだ。

いつまでもそれに気付かずに嫌っていたら、いつか絶対後悔する。その為にも、一度向き合って」

「五月蝿い五月蝿い! お母さんもお父さんも、ボクの事なんてどうでも良いんだ!

どうして解ってくれないの!? ボクは、普通の女のコになりたいだけなのに!」

 藤原の言葉を遮って、ヒステリックな声を上げる過去のアリス。

 そして、そのまま藤原の胸倉を両手で掴む。

 縋る様な瞳から一転、攻撃的な目で睨み付けた。

「キミ、お兄ちゃんじゃないよね!? 一体誰なの!?」

「誰って……俺は」

「嘘吐いたって判るもん! お兄ちゃんはボクのイヤな事なんてしない! ボクのイヤな事なんて絶対言わない!

だから、キミなんかお兄ちゃんじゃない! お兄ちゃんのフリなんかしてどうする気!?」

 返答すら聞かずに叫ぶと、今度は藤原を突き放した。

 予想外の力で押し出され、藤原は驚いた事だろう。

 未熟故に魔力のコントロールが感情に左右され、細い腕からは想像もつかない力が込められていた筈だ。

 空気が震え、周囲の若草が波打つ様に揺れる。

 魔力の暴走が本格化し始めた証拠だ。

 ――正直、今でも見るのは辛いな……。

 痛々しい姿を晒す過去の自分に、アリスは胸が痛んだ。

 これは、怒りと絶望に打ち拉がれ、周囲を見失ったが故の過ちの記憶。

 こうなる事は承知の上で見に来た筈なのに、目を背けたくなる。

 だが、恐らく二度と無いであろう機会に、目に焼き付けなければ。

 何故、今の自分が在るかを忘れない為に。

「帰って! ボクは、一生お兄ちゃんの傍にいるんだ! これ以上、ボクの幸せを奪わないでよ! 帰ってってば!」

 過去のアリスが声を振り絞ると同時に、凄まじい突風が藤原を襲った。

 子供とは言え、人の体重を吹き飛ばす程の強風だ。

 地面に叩き付けられた藤原は、砂埃から身を守るだけで精一杯だった。

 同じ時系列に存在しないからか、アリスは一切被害を被る事はなかった。

 風と砂埃が収まり、肩で呼吸をする過去のアリスの姿が見える。

 そよ風の囁く声が聞こえる程に、二人の間に長い沈黙が走った。

 やがて、呼吸が落ち着いた過去のアリスから、血の気が引いていく。

「しまった……ボク……ボク……!」

「アリス……これが、お前の『秘密』なのか?」

「ち、違う! ボクは……ボクはこんなの……!」

 藤原の問いを否定するが、最早誤魔化す術など無かった。

 何もかも終わったと思った。一番大切な人に嫌われたと思った。

 ショックにショックが重なり、頭の中が真っ白になり、ただ声を上げて泣く事しか出来なかった。

 カラーコンタクトが吹き飛んだ事にも気付かず、マリアをどれ程傷つけたなど知る由も無く。

 藤原は痛みを堪えて立ち上がり、砂埃を払い落とすと、過去のアリスに歩み寄る。

 そして、それにすら気付かず泣き続ける彼女を、そっと抱きしめた。

 藤原の思わぬ行動に、過去のアリスの涙が止まる。

「俺が、こんな事でアリスを遠ざける訳無いだろ。

俺は、二年もお前と一緒にいたんだ。お前が普通の女の子だって事は、ちゃんと判ってる」

「でもっ……普通の女のコは魔術なんて……!」

「確かにそうだな。でも、他の人には出来ない事が出来るっていうのは、凄い事なんだぞ。

皆が喉から手が出る程欲しがる物を持っているんだ。誇っても良いくらいだぞ」

 頭を撫でながら、優しく説く藤原。

 この時のアリスには、藤原の言葉の意味が良く解らなかった。

 肯定されている事だけは、何となく理解していたが。

 今、改めて聞くと、心にじんわりと染み入ってくる。

 何だかんだ言っても、藤原も内心では驚いていたに違いない。

 それでも、それを押し留めて、自分を落ち着かせる事に終始してくれた。

 その優しさが、何よりも嬉しい。

 八年の時を超えて、もう一度口説かれてしまいそうだ。

「そんな事より、もう帰ろう。このまま逃げる事だけは、許す訳にはいかない」

「お兄ちゃん……本当に意味解ってて言ってるの!?

ボク、引っ越さなくちゃいけないんだよ!? お兄ちゃんと離れ離れになっちゃうんだよ!?」

「判ってるよ。……でも、親と離れ離れになるよりはマシだ」

「どうして!? ボクとお兄ちゃんを引き離そうとする人なんかと、どうして一緒にいなくちゃいけないの!?」

 魔術は受け入れた藤原も、マリアから逃げる事だけは許してくれなかった。

 藤原だけが全てであった過去のアリスは、それが信じられないといった形相だ。

「俺は、マリアさんに頼まれてお前を探しに来たんだ。マリアさん、お前を本当に心配してた。

気付いてないだろうけど、お前の両親は、誰よりもお前を大切に思っているんだ。俺なんて、足元にも及ばないくらいにな」

 藤原は過去のアリスの両肩に手を置き、真っ直ぐ目を合わせた。

「お前は、親に愛されているんだ。世の中には、親に愛されずに育つ奴だっているのに。

それに気付かないまま、向き合う事から逃げて恨み続けるなんて、絶対に許さない。

俺だって、お前と離れたい訳じゃない。けど、お前には幸せになって欲しいって願っている。

そして、その為には、俺から離れる事になっても、親と向き合うべきだと思った。

だから、たとえ引っ張ってでもお前を連れて帰る。その所為で恨まれても、嫌われても構わない。

これが、一番大切なお前を幸せにする一番の方法だって、信じているから」

 藤原の言葉が、思いが、過去のアリスに確かにとどいた。

 それは今も、アリスの胸の奥に大切に仕舞われている。

 世界中を敵に回してでも、と己の愛を形容する人ならば、どこにでもいるだろう。

 しかし、愛する相手を、恨まれてでも幸せにしたいと言う人は、そうはいない。

「……お兄ちゃんが、ボクを本当に思ってくれている事は解ったよ。

でも、どうしてもお母さんやお父さんと仲良くなれなかったら、ボクは誰を頼れば良いの?」

「そうだな。まずそんな事はないと思うけど……」

 少し考えてから、藤原は過去のアリスの頭に手を添える。

「頼れる人がいないなら、頼ってくれる人を作るんだ」

「…………? どーゆー事?」

「頼ってくれる人がいる人は、頼れる人がいる人と同じくらい強くなれる。

喩えるなら、中身のある器と、器のある中身ってところかな」

「それって、一緒なんじゃないの?」

「そうだ。それさえ解ってくれたなら、俺も安心だな」

 頭を撫でながら、藤原は優しく笑った。

 この言葉もまた、当時は余り理解出来ていなかった。

 藤原の様に、誰かに頼られる人にならなければ、真意は解らないのかも知れない。

 ――お兄ちゃんって、昔から大人っぽかったんだなぁ。

 当時の事を思い出しながら、ふと、アリスはそんな事を思った。

 言葉の一つ一つが、九歳のそれとは思えない。

 彼の家庭環境を考えれば、早く『大人』にならねばならなかったとしても不思議ではないが。

 そんな彼だからこそ、こんな言葉が言えるのだろう。

「お兄ちゃん、ゴメンね。ボクの所為で、痛い思いしちゃって」

「別に良いよ、これくらい。それより、他に謝るべき人がいるだろ?」

 別段責める事もなく藤原は問い、過去のアリスは小さく頷いた。

 こうして、過去のアリスの小さな家出は終わりを告げる。

 安心して帰ろうとする藤原を、過去のアリスが手を引いて止めた。

「……お兄ちゃん。帰る前に、一つだけ約束してくれないかな?

この前やってたテレビの話なんだけど、瀕死から奇跡の生還を果たした人は、何か約束してた人が多いんだって。

三途の川からだって帰って来れるんだから、ここで約束すれば、ボクもきっと……」

 過去のアリスが、不思議そうに振り返った藤原を見上げて懇願する。

 藤原が頷くと、過去のアリスは小指だけを立てた手を出した。

 藤原も同じ様に手を出し、小指を絡ませる。

 アリスは、それをドキドキしながら見ていた。

「もし、ボクとお兄ちゃんがまた会えたら、ボクをお兄ちゃんの――」



「……うわぁ!?」

 身体に強烈な衝撃が走り、アリスは目を覚ました。

 数秒の間、目の前が真っ黒に、頭の中は真っ白になる。

 ぐるぐると回る視界が定まるにつれて、記憶が少しずつ戻ってきた。

 それでも、自分が自分でない様な、頭と体が別々になった様な感覚は消えない。

「ボクは望月アリス。年は十六歳。左利き。趣味はAV鑑賞とお兄ちゃんと遊ぶ事で……」

 何か洩れていないか確かめるべく、覚えている事を片っ端から述べるアリス。

 学校で習った公式や英単語、最近見たAVのタイトル等を口にしているうちに、体と頭が一つになった。

 どうやら、ベッドから落ちてしまったらしい。

 ――せっかくの腕枕が……勿体無いなぁ。

 毛布を纏いながら落ちたので、痛みはそれ程無い。

 目も夜闇に慣れ、起き上がると、藤原がベッドの上で寝ていた。

 枕元の時計は、六時前を指している。

「……えへへ」

 時計の音と小鳥のさえずりしか聞こえない部屋で、アリスは一人にやけていた。

 藤原と一夜を共にした――そう思っているのはアリスだけであろうが――事を思うと、とても冷静ではいられない。

 他の誰にも言えないからこそ、二人だけの秘密に酔いしれていた。

 ――今から、どうしよっかな。

 もう少しだけ二人きりの時間を楽しみたいが、二度寝するには中途半端な時間である。

 第一、先程の衝撃で、すっかり目が覚めてしまった。

 かといって、このまま何もしないのは流石に暇だ。

 特別早い時間でもないし、藤原にも起きて貰うべきだろうか。

 せっかく一緒に寝たのだから、朝の甘い一時も味わいたい。

 そう思うや否や、アリスはベッドに飛び乗り、藤原の上に馬乗りになる。

 アリスの体重が軽い所為か、藤原はまだ夢の中だ。

 揺さぶり起こして、朝の情事と洒落込もうと思ったアリスであったが……。

「起こしちゃうのも悪いよね、うん」

 藤原の寝顔を見ているうちに、アリスは思い直した。

 休日に早起きさせられれば、誰でも不機嫌になる。

 この場合、藤原が自然に目覚めるまで寝顔を見ておく方が、後々有利に進められるだろう。

 それに、こうして藤原を眺めていると、先程の夢を思い出してしまう。

 過去の世界へ飛ばされた様な、思い出を思い返すのとは少し違う夢を。

 普通、夢の記憶はちょっとした事で吹き飛んでしまうものだ。

 ベッドから落ちても忘れていないのだから、余程記憶に刻まれたのだろう。

 それにしても、不思議な夢であった。

 昔の夢を見るのならば、過去の自分の視点になる筈である。

 過去の自分を他人として見る事が出来、過去の世界を自由に移動する事が出来……。

 ――本当にタイムスリップしたみたいだったなぁ。

 不思議な点は多々あるが、考えても仕方のない事だろう。

 一端の魔術師が、超常現象を疑うのも滑稽な話だ。

 あの夢は、全て実際に起きた事だと思って間違いない。

 藤原だけが全てであった自分の幼さも、マリアの思いも、藤原の優しさも。

 マリアの事まで夢に見る筈が無い事は、この際置いておくとして。

 少なくとも、自分と藤原のやり取りは、事実であったと自分自身が証明出来る。

 幼い頃の、かけがえの無い約束を、忘れる筈がない。

 夢は指切りの途中で覚めてしまったが、胸の奥には確かに残っている。

 今、藤原がそれを思い出したとしたら、子供の約束だと笑い飛ばしてしまうだろうか。

 それでも、この約束が二人の再会を実現してくれたと信じている。

 約束自体の実現は、いつになるのか見当もつかないが。

「そうだ。どうせすぐには叶わないんだったら……」

 ふと思い付き、アリスは自分のリボンを手に取った。

 その両端を、自分と藤原の左薬指にそれぞれ結び付ける。

 長さが足りなかったので、二本のリボンを一本に繋いで事なきを得た。

「今のところは、これで勘弁しといてあげるよ」

 ワイシャツのウェディングドレスに、パジャマのモーニングコート。

 即席のエンゲージリングで藤原と繋がり、アリスは満足げに笑った。

 いつかは、見えない糸で繋がる事を祈りながら。



「……もうちょっとくらい、欲張っても良いよね」

 誰かの声と何かが圧し掛かる様な感覚で、藤原は目を覚ました。

 夢から引きずり出されてすぐの頭では、何が起きているのか把握する事も出来ない。

 取り合えず、目を閉じたまま意識がはっきりするのを待つ。

 やがて、昨晩アリスを泊めた事を思い出した。

 身体に乗っているこの重さは、恐らくアリスのもの。

 彼女の事だから、何かはた迷惑な事を考えているに違いない。

 ――朝っぱらからこいつは……。

 呆れつつも、少し驚かせてやろうという悪戯心も少し働き、藤原はパッと目を開く。

 しかし、驚いたのは藤原の方であった。

 目に映ったのは、暗がりの中、覆い被さる様に上体を倒してくるアリス。

 傍から見れば、押し倒されている様にしか見えないだろう。

 藤原が声を上げる間もなく、アリスの顔は藤原の視界の上へ向かい……。

「大好きだよ、お兄ちゃん」

 しっとりと柔らかく、それでいて熱っぽい感触を、額に感じた。

 事態の整理が出来ず、出掛かった声も詰まってしまう。

「光様、ベッドから落ちた様な音がしましたけど、大丈」

 扉の方から光が差し、明の声が聞こえてくる。

 そして、それは中途半端なところで途切れてしまった。

 頭の中が真っ白になり、ようやく藤原が理解出来たただ一つの事。

 ――終わった。

前半は「幼女と添い寝ってロマンだよね」、後半は「ヤンデレな幼女って良いよね」と思いながら書き上げました。

連載を始めた頃から考えていた話を消化出来たので、ひとまず安心です。

これを書かないと書けない話も少なくないので。

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