夜にはじめて参りたるころ 前編
自室で宿題を終えた藤原は、達成感と共に大きく伸びをした。
時刻は、金曜日から土曜日に変わったばかり。
これで、月曜日までの二日間、自分を縛る物は何も無い。
別段予定がある訳でもないが、休日を迎える前に、すべき事はやっておくに越した事はない。
今日は夕は家におらず、明も寝ている頃だろう。
――する事無いし、もう寝るかな。
少し早い気もしたが、藤原は電灯のリモコンに手を伸ばす。
その時、窓の方からノックの様な音がし、藤原は驚いて振り向いた。
この部屋は二階で、ベランダも無いのだ。
頭の良い猫か、行儀の良い泥棒か、それとも――。
藤原が恐る恐るカーテンを開けると、窓の向こうにいたのは、ツインテールの少女。
ワイシャツ一枚を身に纏い、箒に乗って宙に浮いている。
「お兄ちゃん、夜這いに来たよー」
放課後に遊びに来た小学生の様なノリで、アリスは笑顔で手を振った。
藤原はしばらくその場で固まり、やがて、何事も無かったかの様にカーテンを閉じる。
「えぇ!? 何で何で何で――!?」
結局、藤原はアリスを自室に入れた。
こんな深夜に外で騒がれては、堪ったものではない。
「まったく……こんな事に魔法を使うなよ」
「だって、こんな時間にインターホン鳴らせないもん」
軽率なアリスに、藤原は溜息を吐く。
深夜とは言え、誰かに目撃される可能性を考慮しなかったのだろうか。
とりあえず、今は事情を聞く事にしよう。
「一体、こんな時間に何しに来たんだ? 子供はもう寝る時間だぞ。
本気で夜這いに来たって言うなら、警察を呼ぶつもりだけど」
「そ、それは……その……」
アリスは言い淀むが、藤原が携帯電話を手に取ると同時に、少しずつ話し始めた。
「今日……もう昨日だけど、怖い特番やってたよね」
「……ああ、あれか」
藤原は、ゴールデンタイムに放送されていたホラー番組を思い出した。
『本当にあった』などと仰々しい煽り文句が、新聞のテレビ欄に載っていた事を覚えている。
明が見るからに嫌そうな顔をするので、五秒しか見ていないが。
「で、それを見たんだよね。お母さんも、キャアキャア言いながらお父さんに抱きついたりして」
「お前の家の夫婦仲はどうでも良い」
明らかに無駄な情報に、藤原は軽くツッコむ。
妙齢の娘がいるというのに、新婚の様な夫婦である。
「それで……えっと……何て言ったら良いのかな……」
「怖くて眠れないから、一緒に寝て欲しいんだろ?」
「うぅ、子供みたいって思ったでしょ」
「当たり前だ」
小学生の様な事を言い出すアリスに、藤原は再び溜息を吐いた。
眠れなくなる程怖いのなら、見なければ良いものを。
それでも見てしまうのが、怖いもの見たさというものなのだろうか。
「親と寝たら良いんじゃないか?」
「金曜日の夜だし、多分ボクとは違う意味で『眠れない』夜を楽しんでいるよ」
「誰が上手い事言えと言った」
いっそ張り倒したくなってくるが、夫婦円満である事には文句も言えない。
「別に、一晩くらい寝なくても大丈夫だろ。自分の部屋で本でも読んでろよ」
「全然解ってない! 静かな部屋に一人でいるのが、どれだけ怖いと思ってるの!?」
「だったら、テレビでも付けたら良いだろ」
「見てる隙に、後ろから襲われるかも……」
「背中を壁にくっつけたら良いんじゃないか」
「テレビから、突然人が這い出てくるかも知れないでしょ。第一、放送終了後はどうするの?」
代案を繰り出すものの、悉く拒否されてしまった。
恐怖心に支配された人は、何もかもが疑わしくなるものだが……。
――それでも、俺だけは信じてくれているんだな。
ここまで頑なにされると、気持ちも揺らいでしまうものだ。
雷が苦手な女性とは一緒に寝たのだし、幽霊が苦手な少女に同じ事をするのも悪くはない。
「ったく……今晩だけだからな」
アリスが涙目になり始めたので、やむを得ず藤原は要求を呑む事にした。
「じゃあ、お前のその格好は、寝る時の姿だと解釈して良いんだな?」
「そうだよ。どう、興奮するでしょ? Yシャツ一枚だよ。パンツ穿いてるかは、見てのお楽しみ♪」
「誰が見るかよ」
途端に元気になったアリスを、藤原は軽くあしらっていた。
真琴じゃあるまいし、こんな子供体型相手に興奮も何もあったものではない。
それにしても、自分が着古したシャツをあげたと明が言うから、何に使われているのかと思ったが……。
「これを着て寝ると、お兄ちゃんの匂いがするんだよ。
目を閉じると、段々体が熱くなって、エッチな気分になって、それで……」
「続きの内容如何では、この場で剥ぎ取ってやる」
幽霊が怖くて眠れない子供が、下ネタ連発とは滑稽な話だ。
いつまでも相手していられないので、藤原は押入れを開けた。
ここには、明が避難してきた際に使用する寝具が仕舞われている。
眠れない程苦手なものがある者同士、同じ物を使って貰おう。
自分のベッドの隣に敷く為に、布団を抱えて振り向くと、
「お兄ちゃん、こっちこっちー」
既にアリスがベッドに潜り込んでいた。
ご丁寧に、もう一人寝転がる事が出来る程度に寄っている。
「……お前、何しに来たんだっけ?」
「夜に見た番組が怖くて眠れないから、一緒に寝て欲しくて」
「この後、お前は何をするつもりなんだ?」
「初めてだから……優しくして欲しいな……」
「良く出来ました。これでも食らえ」
アリスに被せる様に、藤原は布団を放り投げた。
子供には持ち上げるのも一苦労であろう重量が、アリスに圧し掛かる。
「うわーん! 暗いよー! 重いよー!」
「世の中には、もっと暗くて重い物抱えてる奴もいるんだぞ」
――こんな時間に、俺は何やってんだ……。
アリスに振り回されている自分自身に、自嘲を込めて溜息を吐いた。
静かにして欲しいから中に入れたのが、完全に裏目に出てしまった様だ。
「……そうだ。寝る前に、ちょっと用足ししてくる」
「え!?」
藤原の一言を聞き、アリスが這い出てきた。
部屋を出ようとする藤原を、縋り付いて引き止める。
「心配しなくても、すぐ戻るって」
「イヤ! 部屋に一人きりなんて、一秒も耐えられない!」
――何か、最近似たような台詞を聞いたな……。
既視感を覚えつつも、藤原はこの場を切り抜ける方法を考えていた。
アリスを連れて行くくらいなら、鳴物を抱えた方がまだ静かだ。
万が一明と鉢合わせしたら、説明するのも面倒である。
それだけは、何としても避けなければ。
色々と考えた末、藤原はアリスと向き合い、姿勢を低くして目線を合わせ、頭を撫でた。
「俺が、お前を放っておく訳無いだろ。それとも、俺が信じられないのか?」
「う、うん……」
心なしかアリスの体温が上がり、目がとろんと夢現になる。
その隙に、藤原は部屋を後にした。
一度開いたドアが閉まって数秒後、アリスはその場に座り込み、撫でられた頭に両手で触れる。
「お兄ちゃん……ナデナデはズルいよ」
藤原が部屋に戻ると、アリスが本棚を眺めていた。
「何探してるんだ? 将棋の本だと答えたら、うちの公認マネージャーにしてやるけど」
「お兄ちゃんが、どこにエッチな本隠してるかなーって思って」
「……お前、もうしばらくは『自称マネージャー』な」
無意味に正直なアリスに、藤原は頭を抱えた。
こんな時くらい、嘘の一つでも吐けないものか。
「ベッドの下も、机の中も、本棚の裏も探したけど見付からないんだよ」
「まだまだ探す気なら、一人で踊って貰うからな」
アリスの頭には、プライバシーも何も無いらしい。
付いて来させる訳にもいかないし、残しても行けないとは……。
これ以上我侭を言われては堪らないので、藤原はさっさと寝る事にした。
アリスを押し潰した布団を除け、ベッドに横たわる。
「ほら、もう寝るぞ」
「え!? い、良いの!?」
毛布を捲ってアリスを招くと、真っ赤になって声を上擦らせる。
「これ以上好き勝手されて堪るか。さっさと寝ろ」
「はわわわわわわ……」
湯気でも出てきそうな顔を、両手で覆うアリス。
そのまま数秒固まり、次にアリスが発した言葉は、
「で、電気は点いてる方が良いかな!?」
「いや、消せよ」
藤原にとってちぐはぐであった。
電気を消し、アリスがそろそろとベッドに潜り込んでくる。
さっきまであれだけ姦しかった癖に、借りてきた猫の様になってしまった。
「……言っとくけど、お前が期待している展開は無いからな」
「だよね」
落胆より、安堵の方が大きいリアクションが返ってきた。
こちらから攻めると逃げてくれるのが、アリスを扱う上での唯一の救いだ。
「あ、忘れるところだった」
ふと思い出したアリスが、上体を起こし、ツインテールを解く。
ダークブラウンの髪がさらさらと流れ、いつぞやに見たロングヘアになった。
「お兄ちゃん、この前髪解いた時に気に入ってくれてたよね。
えへへ……お兄ちゃんにカワイイって思われるのは、女のコとしてスゴく嬉しいよ」
「そうだな。お前が姪だったら、可愛いって思ってやれたかもな」
「い、妹どころか子供扱い……」
青菜に塩を掛けた様に、しゅんとなるアリス。
喜んだり落ち込んだりと、忙しい奴である。
「あと、これもね」
そう言って、アリスは片目のカラーコンタクトを外す。
久しぶりに見る、アリスの碧眼。
あどけない幼女で通っている彼女が、魔術師の一面を覗かせる瞬間である。
胸ポケットから小さな容器を取り出し、コンタクトを仕舞った。
「除菌とか出来ないけど、良いのか?」
「これはハードだから、そんなに繊細じゃないよ。運動する時だけ、使い捨てのソフトにするんだ。
どっちみち、起きたらすぐに帰るし……アカリンとドロドロの三角関係がしたいなら、話が変わってくるかな」
「その三角、点だけで辺が無いと思うけど」
一言余計なアリスに、藤原は呟く様にツッコむ。
「にしても、意外と気を回してるんだな。目の色を変えるだけなのに」
「髪や爪や肌みたいに、気軽に色塗ったり出来ないからね。
多分、コンタクトとはお兄ちゃんと同じ位長い付き合いになるから、ちゃんと工夫しないと」
やはり一言多いアリス。
しかも、コンタクトと同列に扱われた気がする。
このまま黙っているのも面白くないので、
「俺、あと三日くらいで絶縁したいんだけど」
「え!?」
「お、目の色が変わった」
少し洒落た返しを浴びせる事にした。
肝心のアリスには意味が伝わらなかったらしく、首を傾げているが。
「……ねえ、お兄ちゃん」
掛け合いも一段落つき、藤原も少しうとうとし始めた頃。
隣で横になっているアリスが、腕に縋りながら呼び掛けてきた。
「どうした?」
「ボク、今日眠れるかな?」
今日聞いた中で、最も不安げな声。
暗い所で横になっていると、自然と後ろ向きな発想ばかりしてしまうものだ。
死後の事だとか、世界破滅の予言だとか、どうしようもない事も、夜闇は囁き不安を煽る。
かつて自分がそうだった様に、アリスも今そうなのだろう。
昼には見えない星の様に、夜にこそ辿り着く答えもある。
それを理解するには、アリスはまだ幼いだろうか。
このまま先に眠ってしまえば、アリスは夜に一人きり。
同室に寝ている人がいる状況下で眠れない苦痛は、一人きりのそれを遥かに凌駕する。
――まだまだ、俺がいないと駄目って事か。
親離れ出来ない子供を抱えた気分で、藤原は軽く溜息を吐く。
そして、首から上だけをアリスの方に向けた。
「怖い夢見たら、俺の夢に逃げ込んで来いよ。甘い物用意して待っといてやるから」
そう言って少し後、自分はかなり恥ずかしい事を言ったのではと思う藤原。
この事が世に広まらない事を、願うばかりである。
一方アリスは、豆球だけでも判るくらいに頬を染め、ふいと背中を向けた。
「ますます眠れなくなっちゃったよ……」
何か呟いてから、再びこちらの方に身体ごと向ける。
「そうだ! お兄ちゃん、腕枕してよ」
「寝言は寝て言え。同じベッドで眠れるからって調子に乗るな」
パラサイトシングルが住み着いた様な思いで、アリスの願いを一蹴する藤原。
流石に、少し甘やかし過ぎたのであろうか。
明ならば、謙虚さ故に増長する事はないのだろうが……。
「むぅ。新婚初夜に倦怠期に突入した気分だよ」
更に勝手な事を言い出すアリス。
我が子をあやすつもりでした事なのに、とんだ物言いである。
「お兄ちゃん、知ってる? セックスレスって離婚事由になっちゃうんだよ。不貞行為も疑われちゃうし」
「あーもう五月蝿い! 腕一本如きでグダグダ言いやがって……」
同じくグダグダ言いながら、藤原は腕をアリスの枕元に置いた。
アリスが、嬉しそうに頭をその上に置く。
一体、自分はどこまで脛を齧られるのだろうか。
部屋に入る事を許可し、同じ部屋で寝る事を許可し、同じベッドで寝る事を許可し、腕枕を許可し……。
どこかで見切りを付けなければ、齧らせる脛すらなくなりそうだ。
「……お兄ちゃん」
「駄目だ」
「むぅ、まだ何も言ってないのに」
フライング気味の拒絶に、アリスは頬を膨らませる。
「じゃあ何なんだ? もう齧らせる脛は残って……」
「ありがとう、お兄ちゃん」
軽くあしらおうとした藤原は、アリスの思いもよらぬ言葉に驚かされた。
アリスにしては珍しく、従順な瞳でこちらを見ている。
「ボクが突然押し掛けたのに、こんなに良くしてくれて……。
嫌がる素振りをしても、結局ボクの言う事は殆ど聞いてくれるんだね」
「聞かなかったら愚図るからだ」
「時々本当に拒む事もあるけど……それは、全部ボクの為だし。あの時の言葉、今でも覚えてるよ」
「あの時って、どの時だ?」
「え!? 覚えてないの!?」
どうやら、相当ショックな様だ。
「ほら、八年前の……覚えてるでしょ?」
「……ああ、あの時の」
八年前の、アリスがここを離れる少し前の事らしい。
――出来れば、忘れたままでいたかった。
そして、思い出してしまった事を後悔する藤原。
子供の時の話だけあって、今思い返すと相当恥ずかしい。
「あの時のお兄ちゃん、カッコ良かったなー。皆にも自慢したいくらいだよ」
「頼むから勘弁してくれ」
アリスの中では、相当美化されている様だ。
それとも、思い出を美しく感じない自分が荒んでいるのだろうか。
「だからボクは、いつだってお兄ちゃんを信じてるよ。信じているからこそ、ずっと遠距離恋愛出来たんだし」
「記憶を改ざんするな。恋愛を撤回しろ」
美化どころか、勝手に偽造されていた。
信じるのは勝手だが、目の届かない所で勝手な感情を抱くのは止めて欲しい。
枕にされた腕では抵抗出来ない事を良い事に、抱き付いてくるアリス。
「これで服着てなかったら、正真正銘の事後なのになぁ」
「心配するな。まだ煙草が残ってる」
どこからでも下ネタを放ってくるアリスに、もうツッコむ気力さえ失せてしまいそうだ。
その気になれば、首を絞めることも可能なのだが。
「お兄ちゃんてば、素直じゃないんだから。契りで結ばれた仲なのに」
「……何言ってんだ、お前?」
さも当然の如く話すアリスに、藤原は呆然として尋ねた。
「ふぇ? だって、あの時の事を思い出したんじゃ……」
「いや、契りなんて覚えてないぞ。連れ戻したのは覚えてるけど」
しばしの間、信じられないといった表情でアリスが固まる。
沸々と何かが湧き上がり、一気に爆発した。
「お兄ちゃん! 一番肝心なところを覚えてないってどーゆー……」
途中まで言いかけたが、突然失速し、迫力も失ってしまった。
代わりに割り込んだのは、大きな欠伸である。
「ほら、もう眠いんだろ?」
「眠くなんてないもん。お兄ちゃんにはしなくちゃいけない話がいっぱい……ふわぁ……」
反論すらも欠伸で締めてしまった。
「どうやら、体の方は正直みたいだな」
「むぅ、もっとやらしい雰囲気で言って欲しかったよ」
この期に及んで、まだ下ネタが尽きないらしい。
とは言え、目は虚ろで、瞼が重たくなっている事が見て取れる。
抱き付く力も、段々緩くなってきた。
「絶対思い出して……貰うんだから……ボクとの……やく……そ……」
最後の方は蚊の鳴く様な声で、よく聞き取れない。
声が聞こえなくなったと思った時には、既に寝息を立てていた。
――結局、寝そびれたのは俺の方か。
眠れないと泣きついてきたのが、随分と呆気無いものだ。
散々騒いでいたのに、眠る姿はさながら人形である。
騒がしかったこの部屋も、アリスの寝息と、時を刻む音だけになってしまった。
枕役を免れた方の腕で、そっとアリスの頭を撫でる。
怖い夢に苛まれないようにと願いながら。
「我侭な姫に侍らされるのは楽じゃないな……」
誰にでもなく呟く藤原。
その表情は、子と添い寝する親のそれに心なしか似ていた。
やがて、藤原も意識が遠のいていく。
けいおん! を観て左利き用ベース買った右利きがいるそうな。
スイーツ(笑)だろうがヲタだろうが、馬鹿は救えない程馬鹿なんだなぁ、と思います。
ここは、敢えて木琴を始めるべきでしょうか。これでもガボット弾けたんですよ。