家のどこかに踊る影 後編
手と手を取り合う様に、藤原と夕は一本の筒状の新聞紙を持っていた。
四つの目の先には、冷蔵庫に止まっている魔王。
二人の村人が、いよいよ勇者に成り代わる時が来たのだ。
「……こうしてると、本当にケーキ入刀みたいだね」
「出来れば、次はケーキ相手にしたいけどな」
「知ってる? ウエディングケーキって、ああ見えて食べられる所は少ないんだって」
「そうなのか。アリスが一回独り占めしたいって金貯めてるけど……面白そうだし黙っとくか」
「あ、でも、最近は本物のケーキを使う人も増えてるんだって。だから、大丈夫だと思うよ」
「一応訊くけど……情報源は?」
「梅田先生と今宮先生。元同級生や後輩の結婚式に参列してるんだって。
本人も適齢期なんだし、自分でも挙式すれば良いのにね。……あ、相手がいないんだっけ」
「それ、絶対に他所では言うなよ……」
話が明後日の方向へ向かおうとしているので、藤原は魔王へ向けて新聞紙を構えた。
それに合わせて、夕も逃げ腰ながらも構える。
魔王と村人の睨み合い。
魔王は、受けて立つと言わんばかりにそこから動かない。
緊張感が高まり、二人の新聞紙を握る力が強くなる。
密着しているので、夕の心臓の高鳴りが伝わってきた。
恐らく、こちらの高鳴りも伝わっているのだろう。
やがて、二人の心拍のリズムが重なり……。
「どりゃぁああああああああああああッ!」
「はぁああああああああああああああッ!」
腹の底から叫びながら、新聞紙を振り上げる。
勢いのついた二人の勇気が、鉄槌を下さんと魔王に迫った。
「いっけぇえええええええええええええええええッ!」
新聞紙が、快音を上げて冷蔵庫に叩き付けられる。
「や、やった……やったよ光……!」
「……ちょっと待て」
すっかり力が抜けている夕に対して、藤原の顔は険しいままであった。
新聞紙を退けると、そこには汚れ一つとしてなく、新聞紙も同様である。
一度は緩んだ夕の表情が、再び青ざめていく。
「そ、そんな!? どこに逃げたの!?」
思わず手を新聞紙から離し、後退る夕。
「見つけられる場所にいれば良いんだけ……ど……!?」
周囲を見回した藤原が、夕を見たまま凍りついた。
「光? どうしたの急に黙って」
「あ……あ……あ……!?」
夕の問いに、藤原は答える事が出来なかった。
自分の目に映る光景が、到底信じられるものではなかったから。
同時に、とても言葉に出来るものではなかったから。
それでもどうにか夕に告げようと試みつつ、気付いて欲しいと心の底から祈った。
そして、その祈りは通じる事になる。
夕が、自分自身で気付いてくれたのだ。
その長いサイドポニーの先に留まる、黒い影に。
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!?」
絶叫マシンでも聞けない程の悲鳴が、一帯に響き渡った。
あらゆる思考から切り離された彼女は、無我夢中で髪を振り回す。
「夕、落ち着け! そんな事して、変なとこに飛ばしたら……!」
藤原が何とか宥めようとするが、最早誰の声も夕には届かない。
よく解らない言葉を発しながら、魔王の魔手から逃れたい一心の様だ。
流石は魔王。遣り口に微塵の情けも感じられない。
振り解く事に成功したのか、魔王が夕の髪から飛び立つ。
次に魔王が着地した場所は、
「……ちょ、な、なん……え?」
藤原のズボンの裾だった。
自分でも驚く程に、夕の様な悲鳴が口から出る事はなかった。
どうやら自分は、驚くと言葉が出なくなる部類らしい。
そんな事を考えていると、魔王が上へと登り始める。
藤原は、それを見ている事しか出来なかった。
頭の中が、ひっくり返した玩具箱の様に滅茶苦茶になる。
取り留めのない頭は、刻々と顔へと迫ってくる魔王だけは明瞭に認識していた。
ズボンからシャツへと移った辺りで、夕が我に返ったらしい。
藤原に迫る惨状を知ると同時に、その場に座り込んでしまったが。
胸に差し掛かった辺りから、走馬灯らしきものが見え始め……。
真っ白に染まってゆく視界が、飛び立つ黒い羽だけを映した。
「私とした事が、財布を忘れてしまうなんて……」
忘れ物に気付いた明は、予定よりもずっと早く帰ってきた。
「ね……ね、ね、姉さぁああああああああん!」
玄関を開けた途端、夕が明に突っ込む。
突然の事に戸惑う明は、それを受け止める事しか出来なかった。
明の胸に顔を埋め、しゃくり上げる夕。
誰もが凝視し、煩悩を持て余す胸を持つ明だが、その谷間を拠所に出来るのは、妹の特権である。
「夕!? 一体何が起きたんですか!? またコーラとコーヒーを飲み間違えたんですか!?」
「ま、まま、魔王が……魔王が飛んで……私の髪と光の服に……!」
「はい?」
震える声で話す夕に、明は首を傾げた。
夕からはまともな情報が得られないと判断し、明はリビングに入る。
すると今度は、台所の入り口で、藤原が倒れていた。
「み、光様!?」
いよいよ血相を変え、明は藤原に駆け寄り、上体を起こす。
「しっかりして下さい! 一体何が起きたんですか!?」
身体を揺さぶり、声を掛ける明。
それに応えたのか、藤原がうっすらと目を開けた。
「無理です駄目です無理でした本当すみません出来る限り頑張ったんですけど俺なんて所詮俺なんて……」
「光様! お気を確かに!」
うわ言の様に呟き続ける藤原。
顔は青ざめており、目は焦点が合っていない。
ただならぬ事態だと判断した明は、あらゆる感覚を研ぎ澄ました。
有事であれば、命に代えてでもこの二人を守らなければ。
そして、明は台所の方から気配を察知する。
息を殺し、気配の元へと向かった明は、
「…………」
その正体――黒い体を不気味に光らせており、『魔王』も言い得て妙である――を見て、しばらく固まった。
やがて、脱力とも安堵ともとれる溜息を吐く。
廊下から、ドアを少し開けて覗いていた夕に、明は指示を出した。
「掃除機を持ってきて下さい」
明の介抱によって、藤原は意識を取り戻した。
「あ、明さん……俺……」
「話は後です。先にするべき事がありますから」
やがて、夕が掃除機を持って現れる。
明はそれを受け取ると、床に掛ける為の先端部位を外し、管のみにした。
普段なら、部屋の隅の掃除に使うであろうが……。
「これで吸い込んでしまいましょう」
てきぱきとコンセントを差し込む明。
情けないと思いつつも、藤原は明を頼りにしていた。
掃除機を持つ様は、さながら剣を携える勇者である。
「では、お願いしますね、光様。夕、貴方もですよ」
「……え?」
明に掃除機を手渡され、藤原は訳も解らぬまま受け取った。
「あ、明さん……これは……?」
「私がいない時に、為す術が無いのは困ると思いますよ。私が付いていますから、練習だと思って下さい」
「マジかよ……」
逃げ出そうとした夕も明に捕まえられ、二人で掃除機を持つ。
藤原も出来る事なら逃げ出したかったが、これ以上長引くと、夕が壊れてしまいかねない。
夕が逃げないように、片手は夕の手を押さえ、もう片方の手で掃除機の電源を点ける。
ここで夕を庇う事が出来れば格好も付くのであろうが、道連れが欲しいのが人の性である。
唸りを上げる掃除機を、それにも劣らない程の悲鳴を上げる夕と共に、魔王に向けて振るう。
流石の魔王も、文明の利器には敵わず、奈落の底へと封じられていった。
掃除機の電源を切ると共に、夕はその場に崩れ落ちる。
藤原も、緊張が解けて力が入らず、倒れそうになるのを明に支えられた。
「す……吸い込んだ時……手応えが……手に変な手応えが……!
うわぁあああああああああああああ! 夢に出る! 絶対夢に出る! 夢の中で報復されるよぉ!」
戦いが終わって尚、夕は戦慄いていた。
「大丈夫ですよ、夕。今日は一緒に寝ましょうね。夢の中でも傍にいますから」
そんな夕を優しく抱きしめ、そっと囁く明。
そして、そのまま藤原の方を向く。
――もう、何とでも言ってくれ。
藤原は、最早あらゆる罵倒を覚悟していた。
自分が不甲斐無いばかりに、夕にこんな思いをさせてしまったのだ。
豚野郎とでも無個性とでも、好きな様に罵るが良い。
「……済みませんでした」
「え?」
意外な言葉を投げかけられ、藤原は肩透かしを食らってしまった。
いつの間にか出来上がっていたサディズムな明像が、みるみる壊れていく。
「私の衛生管理が行き届かないばかりに、こんな事になってしまいました。
家事を任された者として、今回の責任の所在は私にあります」
「い、いや、別に、明さんが謝る事じゃ……」
ここまで縮こまられると、却って困ってしまう。
「明さんの指示のお陰で魔王を倒せたんだから、責任はちゃんと果たしただろ?
今回は明さんが頼りになった様に、雷の時は明さんが俺達を頼る訳だし。
持ちつ持たれつって事で良いんじゃないか。俺達は『家族』なんだろ?」
「……こんな私でも、ですか?」
「もちろん。だろ、夕?」
卑屈になってしまった明の為に、夕に同意を求める。
夕の言葉なら、明も納得するだろう。
明の妹にこの問いなのだから、かなり力技だが。
震えが収まってきた夕が、たどたどしく言う。
「姉さん……何でさっきから震えてるの?」
「え……えぇえええええええええええッ!?」
しかし、それは藤原が求めているものとは違った。
夕の問いに、明は珍しくうろたえ、思わず夕から離れる。
このリアクションからして、図星なのは間違いない。
「ち、違います! 決して本当は怖かったなんて事は……!」
その上わざわざ自爆してくれるのだから、分かり易い事この上ない。
いい歳なのに、どこまで嘘を吐くのが下手なのだろう。
その辺りが、明が好かれる所以なのも確かだが。
ともあれ、今の藤原と夕が抱く思いは、ただ一つ。
「まさか明さん、自分も怖いからって俺達に押し付けたんじゃ……」
「はぅ!? い、いえ、私は……その……まさかの時に逃げ……ち、違……備えて……」
喋っても喋らなくても、意に反して本心を撒き散らしてしまう明。
そんな彼女に、夕が最後の罰を下す。
「姉さん……私がこんな思いをしたのに、離れて見てただけなんて……卑怯だよ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?」
最愛の妹に、涙目でこんな事を言われては、明も言葉が出ない。
「わ、私! 買い物がまだ! い、行ってきます!」
とうとう、明は逃げ出してしまった。
一旦帰ってきた目的を果たしていないが、明を含め誰も知る由が無い。
「やれやれ、俺も含めて全員これかよ」
藤原は、一連の騒動を、溜息で締めくくった。
「み、光……」
倒れたまま、夕が呼びかけてくる。
「大丈夫か、夕? 立てるか?」
「もうちょっと休ませて。……光、今日はありがとうね。
私一人じゃ、姉さんが帰ってくるまで持たなかったと思う」
「礼を言う事じゃないだろ。自分の家の事だからな。
それに、夕が散々騒いだから、逆に俺は少しは落ち着けたんだと思うし」
明さんに怒られたくないしな、と続けようとしたが、藤原はその言葉を飲み込んだ。
掃除機のコードを片付け、それを運ぼうと持ち上げる。
「私、姉さんを支えてあげたい筈なのに……情けないよね。
魔王一匹何とかするのも、光に頼ったり姉さんに任せようとしたり……」
どうやら、かなり落ち込んでいるらしい。
藤原は軽くため息を吐き、掃除機を一旦下ろした。
「明さんは、夕が来てくれるだけでも充分支えられてるんじゃないか?」
「そう……かな?」
「じゃあ、夕は、明さんが支えになってないのか?」
「そんな事ないよ。姉さんに会いに行くのが楽しみだから、一層仕事に力が……あ!」
「要するに、そういう事だ。……ところで、夕」
納得した様なので、さっき思い出した事を、ついでに尋ねてみる事にした。
「髪、そのままで良いのか?」
藤原の言葉に、夕はしばらく首を傾げた。
しかし、数秒でその言葉の意味を理解する。
顔を真っ青に染め、全速力で浴室へと這って行った。
「俺も、着替えとかないとな……」
「藤原、貴様は実に残念だ。ここは、頼もしい一面を見せてフラグを立てるべきであろうに。
今回は丸く収まったから良いものの、次回もこれでは顰蹙を買うやも知れぬ。
主人公たるもの、何時如何なる時であろうと、フラグを立てる為の努力を怠っては」
「有難い話の最中で悪いけど、何でお前が俺の家で起きた事を知っているんだ?」
着替えを済ませると同時に、秋原から電話が掛かってきた。
開口一番でこれなのだから、盗撮を疑わざるを得ないだろう。
もっとも、結局は迷宮入りになる事は明白だから、諦めているが。
「しかし、解り易く怯える夕嬢に、気丈に振舞いつつも震えを抑えられぬ明さん……実に良い姉妹だ。
次は、肝試し編に期待したいものだな。恋人以上に甘い画になるに違いあるまい。
問題は、作者の肝試しに対する知識であろうな……お化け屋敷で、目も耳も塞いでいたとは情けない」
「急に楽屋ネタするな。人の小学生時代を勝手に暴くな」
電話越しでも好き勝手話す秋原に、藤原はやはり電話越しにツッコむのであった。
「時に藤原。こんな話を知っているか?」
「何だよ?」
「魔王を一匹見つけたら、その家には四十匹いる」
その瞬間、藤原から血の気が引く。
何か言おうとしたが、その時には電話が切れていた。
つくづく、勝手な男である。
「ま、まさか、な……」
藤原は、頭の中で秋原の言葉を必死に否定した。
あれだけ苦労して、ようやく魔王を倒す事が出来たのだ。
そんな魔王が、四十匹もいる訳がない。
もしもそれが実現すれば、まるで少年漫画のパワーインフレではないか。
自分で自分に説得を続けるが、
「……あ、あれ!?」
体は正直だった様だ。
いつの間にか、先程の戦場まで足を運んでいる。
一見、何の変哲も無い台所。
ここが嘗て魔王の降り立った場所だとは、誰も信じないだろう。
「一応、一応、な。絶対いないと思うけど、一応確認だけ……」
誰にでもなく弁解しつつ、藤原の視線は冷蔵庫の裏側に向く。
冷蔵庫と壁の間の、ほんの僅かな隙間。
魔王が潜んでいるとすれば、恐らくこの辺り。
藤原は息を飲み、冷蔵庫の側面からそこを覗き込む。
「何してるの?」
「うわぁあああああああああああああああああああッ!?」
背後からの不意打ちに、藤原は思い切り叫んでしまった。
「ご、ごめん。驚かせちゃって……」
振り向くと、そこにいたのは夕だった。
何度も髪を洗ったのか、いつも以上に爽やかな匂いがする。
だからという訳ではないが、藤原はすっかり力が抜けてしまった。
「で、何でタオル一枚なんだ?」
「髪洗う事に夢中だったから、着替え忘れちゃって。あんな事の後だから、さっきの服も着たくないし」
はしたない姿を見て呆れる藤原に、夕は誤魔化す様に笑った。
――まあ、体型男と大差ないし、何とも思わないけど。
かなり失礼な事を考えたが、もちろん口にはしない。
「それで、何してるの?」
「いや、もしかして魔王がまだ隠れてるかな、って思って。まあ、流石にもう」
夕に説明しながら、藤原はふと彼女の足元に目を落とした。
白くて細い足の先に、黒光りする何かが一つ。
それは、
久しぶりに、話を短めに纏められた気がします。
この作品の方向的に、一本がこれくらいで終われば良いんですけどね……。