家のどこかに踊る影 前編
「では、留守をお願いしますね」
とある休日の午後。
明は、買い物の為に藤原宅を後にした。
残されたのは、藤原と夕の二人。
この日も、二人はごく普通に過ごしていた。
二人とも各々の部屋で、藤原は詰め将棋をし、夕は難しい論文を読みふける。
何も変わらない一時、の筈であった。
夕が、喉を潤そうと台所を訪れる。
「何か無いかなーっと。……ん?」
ふと、夕は台所に何かが存在する事に気付いた。
フローリングの床に、明らかにそれの色とは似つかない何か。
落し物か何かだろうか。
夕はその場にしゃがみ、目を凝らしてみる。
「いやぁあああああああああああああああああああああああああああああッ!」
夕の断末魔にすら似た悲鳴を聞き、藤原が台所に現れた。
「一体どうしたんだ……また麦茶とコーヒーを間違えて飲ん」
尋ねる間も無く、夕が体当たりの様に飛び込んでくる。
アリス程に軽くはないので、藤原は思わず一歩下がった。
「み、みみみみ光! あ、あ、あああ、あああああそこに! あの、ああああアレが……!」
「やる気の無いRPGの勇者か」
やたら『あ』を連呼する夕に溜息を吐きつつ、藤原は指された方を見る。
そこは、台所の床の上。
目を凝らすと、黒い何かがそこにあった。
心なしか、油でも塗ったかの様にてかてかしている。
更に目を凝らしてみると……。
「さて、詰め将棋の続き、と……」
「待って! 私を置いて行かないで! 見捨てないで!」
部屋から逃げ出そうとする藤原を、夕は必死に引き止めた。
「夕が見付けたんだし、お前が何とかするのが筋だろ」
「無理無理無理無理無理無理! 絶対無理!」
首をブンブンと左右に振る夕。
その目は、早くも半泣きであった。
「ほら、珍しいカブト虫の雌だと思えば」
「思える訳無いでしょ! あんなカサカサ動くカブト虫見た事無いよ!」
「でも、俺は詰め将棋の続きが……」
「先にあっちの王を詰めて! 台所の魔王を詰めて! 将棋部部長でしょ!」
「それを言ったら、お前は将棋部顧問だろう」
「わ、私は無理だもん! 将棋とチェスをごっちゃにしていて、まともに指す事すら出来ないんだから!」
「開き直って言う事かよ……。だったら、キングを詰めたら良いだろ。得意なんだろ?」
「あんなのキングじゃないもん! クイーンだもん! それとも何!? ポーン一個でクイーン取れって言うの!?」
「だったら、歩一枚で竜王取るのも無理だな」
「うぅ……うううううぅ……」
論破された夕は、今にも泣き出しそうな顔で俯く。
逃げ出したい一心の藤原も、流石に良心の呵責に苛まれた。
それに、たとえ今逃げても、この家の現在の主として、無干渉でいられる訳が無い。
――第一、この事を明さんに知られたら……。
「大丈夫ですよ、光様。たとえ、貴方が夕を見捨てる様な蚤以下のゴミだとしても、私は貴方のメイドですから」
「!?」
とんでもない想像をしてしまい、藤原は背筋が凍り付いた。
彼女の逆鱗にだけは、絶対に触れてはならない。本能がそう告げている。
「……判ったよ。俺も手伝ってやるから泣くな」
止む無く、藤原は魔王討伐軍に加わったのであった。
「……で、どうするんだ?」
「ち、ちょっと待ってね。今考えるから……」
台所の前で、逃げ腰の二人が策を練り始める。
こちらには、天下の天才貧乳教師がいるのだ。
虫一匹如き、簡単に蹴散らしてくれる。
藤原は、そう信じていた。
「とりあえず、アレの呼び方決めない?」
「駄目だこいつ……早く何とかしないと」
どうやら、完全に平静を失っている様だ。
もちろん、自分も人の事を言えた義理ではないが。
「もう『妖精』とかで良いだろ」
「止めて! 童話とか読めなくなっちゃう! 色んな所から苦情が来ちゃう!」
投げ遣りな藤原の言葉を、夕は耳を塞いで拒んだ。
「じゃあ何か良いんだよ?」
「うーん……『台所の黒い悪魔』は?」
「どこの魔砲使いだ。しかも長いし」
すっかり秋原に染められてしまった夕に、藤原は溜息を吐く。
これ以上を悪化するなら、将棋部顧問を止めさせた方が良いかも知れない。
すでに手遅れの真琴や、元から秋原と違う意味で変態だったアリスは、もう諦めているが。
「だったら、『黒い彗星』は?」
「三倍なのか三連星なのかはっきりしろ」
律儀にツッコむ藤原。
この手のネタに的確にツッコめる様になってしまったのは、果たして成長なのだろうか。
「我侭ばっかり……もう光が考えてよ」
「いや、俺は別にアレ呼ばわりで構わないと思うけど」
「思春期の娘にアレ扱いされるお父さんみたいで可哀相でしょ」
「どんだけ想像力豊かなんだよ。てか、情があるのか無いのかはっきりしろよ」
話が明々後日の方向へ跳んでいき始めた頃。
まるで、それを戒めるかの様に、黒いそれは数センチ動く。
「きゃあああああああああああッ!」
「うわぁああああああああああッ!」
どんなに話に熱中していても、それの動きには敏感であった。
さながら雪山で遭難したかの様に、二人は震える身体で抱きしめ合っていた。
「……判り易く『魔王』で良いだろ、な?」
「う、うん。これっぽっちも全く意義無し!」
「という訳で、名前は『魔王』に決まったんだけど……」
どうにか落ち着いた夕が、恐る恐る魔王の動向を見守る。
こちらを警戒しているのか、或いは挑発しているのか、再び動く気配は無い。
少なくとも確かなのは、風林火山の旗の如く、動かぬ魔王が威圧感を放ち続けている事である。
山の様に動かぬ彼は、林の様に静かに居座り、風の様に疾く動き、辺りを火の海にするのだ。
「良い? 絶対刺激しちゃダメだからね」
「何か、飼い主みたいだなお前……」
あくまで真面目に混乱している夕に、藤原は呆れながらツッコむ。
呼び方を考えたり安静にさせたりと、夕はどうしたいのだろう。
「このままじゃ埒が明かないぞ。さっさと何とかしよう」
「判ってるってば。だから案を考えてるんだけど……」
藤原に煽られ、夕は頭を抱えた。
十七歳の貧乳教師は、次にどんな『名案』を思い付くのだろうか。
「そうだ! 誰か助けを呼べば良いんだ!」
「他力本願かよ……」
「別に良いでしょ。『三振すればもんじゃ焼き』って言うし」
「何でバッターに余計なプレッシャーかけるんだよ」
恐らく、『三人寄れば文殊の知恵』と言いたいのだろう。
こんな事を言い出す辺り、相当参っているのだろう。
魔王が台所にさえいなければ、紅茶でも飲ませてやれるのだが。
「姉さんなら……姉さんなら何とかしてくれる!」
ポケットから携帯電話を取り出し、震える手でボタンを押す夕。
確かに、明ならば充分戦力になるだろう。
メイドという、家事のエキスパートなのだから。
しかし、明にこの事を知られれば……。
「お兄ちゃんって、魔王も倒せない根性無しだったんだ……ボク、失望したよ」
「先輩、嘘ですよね!? 将棋部部長が、そんな醜態を晒す訳無いですよね!?」
「魔王に屈する玉無しに、正義と幼女は任せられないっスね。次の校内新聞、楽しみにしておくっス」
「まさか貴様が、魔王一匹始末出来ぬとは……今日から渾名は決まったな」
「夕が困っているのに、虫一匹どうにも出来ないのですね。……失礼ですが、光様は、何の為に生きているのですか?」
「う……うわぁああああああああああ!?」
再び恐ろしい幻聴が、それも袋叩きで襲い掛かり、藤原は慌てて夕の携帯電話を取り上げた。
「ちょ!? 何するの光!?」
「落ち着いて考えろ、夕! 十七歳が二人も揃って、魔王一匹にこの様だぞ!
これ以上関係者を増やして、余計な所にこの事が漏れたらどうなる!? 俺達は町中の笑いものだぞ!」
夕の両肩を掴み、前後に揺らしながら叫ぶ藤原。
落ち着けと言いつつ、その様は到底落ち着いているとは言えない。
しかし、混乱している夕を説得するには、これで充分の様だ。
「あっ……そ、そうだよね。私は教師だもん。こんな事、もし生徒達に知られたら……!」
「……俺、一応生徒なんだけど」
何とか最悪の事態を回避出来、藤原は胸を撫で下ろすのだった。
それから暫くの間、二人と一匹の膠着状態は続いた。
魔王は動く事無く、藤原と夕は動ける筈も無く。
まさに、冷戦状態であった。
そして、その緊張感は、確実に二人の気力と体力を削いでいく。
「わ、私……もう……」
夕の限界が近いらしく、その場に座り込んだ。
わざわざ気遣える程の余裕は、藤原にも残されていなかった。
どうやら、もう貧乳の策には期待出来そうにない。
とにかく、魔王をどうにかしない事には、安息は訪れない。
しかし、魔王に立ち向かう勇者は、ここにはいない。
無力な村人が、二人いるだけだ。
その上、勇者がこの村に来る事は無い。
明をそれに当てはめても良いのだが、藤原としては、彼女に知られる前に始末したい。
この極限の状態を、打破する手段はあるのだろうか。
――いや、違うな。
すっかり弱りきっていた自分自身を、藤原は奮い立たせた。
手段があるか否かなど、大した問題ではない。
現実には、正義の勇者などいなければ、伝説の剣も存在しないのだ。
ならば、村人が戦う他あるまい。
追い詰められてからこそが本番。
将棋という勝負の世界に身を置く藤原は、それを身を以て知っていた。
たとえ王一枚しか残っていなくても、入玉すれば……敵陣に飛び込めば、まだ粘れる。
援軍の望めない篭城に、未来は無い。守れないのならば、突貫あるのみだ。
「……新聞紙取ってくる」
「み、光……それって……!」
未だ闘志を失わない藤原を、夕は驚きながら見上げる。
藤原は何も答えず、リビングから出て行こうとした。
「ま、ままま待って!」
が、脚を夕に縋り付かれる。
「な、何だよ!? 階段の下のクロゼットに、古新聞を取りに行くだけだぞ!?」
「その間、この部屋に私一人って事だよね?」
「まあ、三十秒かかるかどうかだけど」
「嫌! 嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌! 絶対嫌! 魔王と二人きりなんて、一秒も耐えられない!」
今にも泣き出しそうな顔を、夕は左右に振り回した。
――人がせっかくやる気になったのに……。
藤原は溜息を吐くが、夕の気持ちも解らなくはないので、責める事は出来ない。
せめて、もう少し夕に余裕がある内に動いていれば良かった。
ヒステリックになってしまって、到底説得出来そうにない。
「じゃあどうするんだ? スリッパは使いたくないだろ?」
「そこの新聞使ったら良いでしょ!」
そう言って夕が指したのは、リビングのテーブルに置いてある新聞だった。
「ちょっと待てよ……あれ今日のだぞ。俺まだ読んでないんだけど」
「新聞くらい後で買うから! 私がコンビニで買ってくるから!」
乗り気ではなかったが、夕に押され、やむを得ず今日の新聞を手に取った。
丸めて棒状にすると、ちゃんばらで遊んだ幼い頃を思い出す。
力で勝てないからと、アリスが金的ばかりしていた事も。
しかし、今回ばかりはごっこ遊びではない。
真剣ではないが、『真剣』だ。
息を殺し、唾を飲み、狙いを定め、腕を振り上げたその時。
「うわ!? 動いた!? 動いた! うわぁああああああああッ!」
「こ、来ないでッ! 嫌! 嫌ぁああああああああああああッ!」
再び魔王が動き出し、二人は悲鳴を上げながら後退する。
魔王は冷蔵庫を登り、真ん中辺りで止まった。
二人は腰が抜けてしまい、怯えた目でそれを見る事しか出来ない。
「ど、どうする夕? このままだと、下手すると逃げられるぞ」
「えぇ!? そ、そんなの嫌だよ! どこに魔王がいるかも判らない家なんて!」
最悪の事態を想定する藤原に、夕は青ざめる。
人の家に上がりこんでおいて言うか、と藤原は思ったが、面倒なのでスルーする事にした。
「まあ、家中でバルサン焚いてやるって手もあるけど」
「そんなんじゃダメなの! 今、目の前にいる魔王を倒せるとは限らないでしょ!
どうせやるなら、せめて土地もろとも三日三晩焼き払うくらいしないと」
「出来るか!」
滅茶苦茶な事を言い出す夕に、藤原は思わず叫ぶ。
これで『せめて』ならば、理想は町一つ吹き飛ばすくらいだろうか。
結局、今ここで何とかする以外になさそうだ。
藤原は立ち上がり、再び新聞紙を手に取る。
明に軽蔑される訳にも、夕に家を燃やされる訳にもいかない。
魔王を見据える藤原。誘っているかの様に動かない魔王。
暫しの間、両者の睨み合いが続いた。
「……なあ、夕」
やがて、藤原が夕に声をかける。
「な、何? 死亡フラグでも立てるの?」
「この新聞紙、二人で持たないか? ウエディングケーキ入刀みたいに」
「え……えぇえええええええッ!?」
共闘の申し込みに、夕は明らかに否定的だった。
無論、こうなる事は、藤原も承知している。
「夕……お前、初めて会った日に言ったよな。明さんを支えてあげたいって。
だったら、今は戦う時じゃないのか? 大好きな姉さんの為なら、魔王くらい踏み越えて行けるよな?」
「ね、姉さんの為なら……私は……!」
怯えていた夕の瞳に、闘志の炎が芽生えた。
藤原の隣に立ち、藤原と同じ新聞紙を手にする。
「頑張ろう、光! 魔王に入刀してやるんだから!」
こうして、藤原は言葉巧みに道連れを手に入れたのであった。
たまにバイトで体を動かす度に、翌日筋肉痛に苛まれるミスタ〜です。
この虚弱体質……ヒロインの素質でもあるのでしょうか。
プププランド並に平和な明草町(の藤原宅)に、黒い影現る!
……と書けば波乱の予感っぽいですが、相変わらず平和な明草町でしたとさ。終わってどうする。
今回は久しぶりに夕がメインです。それもプライベートスタイルで。
教師も姉も無い夕なんて、ただの貧乳じゃん! ……と思った人は、膨らむまで彼女の胸を揉んできなさい。