藤原を我が物と思う望月の その六
「今度こそ……今度こそお兄ちゃんを振り向かせるんだから!」
昼休みになり、アリスは屋上へ続く階段を上る。
普段、藤原や秋原、真琴達と一緒に昼食を取る屋上。
しかし今日は、秋原達の計らいで、藤原と二人きりになれる。
明から藤原を奪い返す為にも、まだ諦める訳には行かない。
例え何度失敗しても、真琴の劣情に火を付けたとしても。
この言葉は、自分への戒め、不屈の表明である。
「待ちなさい」
踊り場を通り過ぎようとした時、静かな声が聞こえると共に、ツインテールの片方を引っ張られた。
頭皮に痛みを覚え、アリスは思わず一歩下がる。
引っ張られた方向を向くと、そこに居るのは細身の男性。
壁に寄りかかり、冷たい印象を与える目をこちらに向けていた。
髪を掴む、艶色の良い爪で飾った白い手も、彼の物である。
入り浸っている将棋部で、何度か会った事のある顔。
中性的な容姿と、正に体を表したその名は、一度覚えれば忘れられない。
「い、痛いよひーたん。髪は女のコの命なんだからね」
「言葉通り、後ろ髪を引いてみた丈ですよ。後、呉々も其の呼び方を人前でしない様に」
可愛らしい渾名を付けられた事が、棗広美は余程不満らしい。
棗が手を離すと、アリスは手櫛で髪を整え始める。
「もう、今からお兄ちゃんに逢うのに……」
「『逢う』……ですか。これからも然う云えれば良いですね」
「その言い方……もしかして、ひーたんも知ってるの!?」
棗の意外な一言に、アリスは髪を整えるのも止めてしまう。
この話は、秋原と真琴と堀しか知らない筈なのに。
下手に流出して、藤原の耳にでも届いたら、全て台無しだ。
そんなアリスの焦りを知ってか知らずか、棗は相変わらず悠々としていた。
「昨日から将棋部が何やら騒がしかったので、斥候を出しました。
私直属の部隊ですので、秋原さんも御存知無いでしょうね」
「お願い! 皆には内緒にして!」
アリスは、手を合わせて懇願する。
誰にも藤原を奪われたくないし、藤原が何も知らないからこそ意味があるのだ。
藤原に身構えられてはやり辛くなるし、明にでも知られれば最悪である。
「別に、貴女の恋路に抔興味は有りません。そして、貴女の恋煩いに巻き込まれるのも御免です」
「むぅ、相変わらず冷たいんだから。でも、ボクはひーたんに迷惑掛けたりしないよ?」
「貴女は兎も角、秋原さんや新谷さんが事を大きくしているのは事実です。
教師と掛け合い、体育倉庫や保健室を私的に使用。剰え、未遂とは云え情事に及ぼうと為る抔言語道断。
此以上此の様な事が続けば、秋原さん……延いては現美研の立場も危ぶまれます。
然為れば、現美研副部長である私も巻き込まれる事は、火を見るよりも明らか。
故に、私は貴女を止めなければなりません。降り掛かる火の粉を掃う為に」
「そ、そんなぁ……」
棗の答えに、アリスは何とか食い下がろうとする。
確かに、棗の話は正論だ。明らかにこちらの方が分が悪い。
しかし、正論を振りかざすだけが正解ではないだろう。
こっちは、乙女の恋路が懸かっているのだ。
「せめて、昼休みくらいは見逃してくれないかな?
もう一回アタックすれば、きっとお兄ちゃんもボクを……」
「どうやら、貴女の眼は節穴の様ですね。それとも、現実を直視出来ない丈か。
今の貴女では、藤原さんを振り向かせる事抔、百年経とうと不可能ですよ」
「そ、そんな事無いもん! ボクは、世界一お兄ちゃんを愛してるんだよ!
だから、お兄ちゃんだって絶対解ってくれるもん!」
「ふん、莫迦莫迦しい。此だから物の哀れも解せぬ浅学の輩は」
頬を膨らませるアリスに、棗はやれやれと首を振る。
そして、嘲笑の眼差しをアリスに向けた。
「世界一藤原さんを愛している……だから何だと云うのですか?
貴女が愛せば、同じ様に藤原さんも愛して呉れるとでも?
そんな押し付けがましい愛、迷惑も甚だしい。藤原さんも、嘸かし御困りでしょうね」
「そ、そんな……事……ボクは……」
棗の歯に衣着せぬ物言いに、アリスは反撃の言葉も出て来ない。
かつて、藤原は棗を指してこう言った。
棗は、言葉を武器に人を自在に操る、と。
愛用のエアガンは、話し合いの席に無理矢理着かせる為の道具に過ぎない、と。
そして今、アリスは棗の言葉に為されるがままだ。
言い返す事が出来ないのが、とても悔しい。
だが、棗の言葉には隙が無い。
言葉に詰まるアリスを、棗は冷たい眼差しで見下ろす。
「……ま、彼の迷惑抔、私には関係有りませんね。質問を変えます。
慥かに、今現在、藤原さんは貴女を異性として意識していないでしょう。
精々、妹分程度が関の山。……然し、其れが何故不満なのですか?
彼の貴女に対する遠慮無いツッコミは、気が置けない仲の証明だと思うのですが。
貴女の望む仲とは違うでしょうけど、充分幸せな部類だと思いますよ」
「ひーたんの言った事は、ボクもその通りだと思う。
お兄ちゃんは、何だかんだ言って、ボクの事を大切に思ってくれてる。
初めて会った時から、その事は解ってるつもりだよ。
もし、お兄ちゃんがアカリンと結ばれたとしても、それは変わらないと思うんだ。
だって、お兄ちゃんにとって、ボクは『妹』だもん。
恋人は二人居ちゃいけないけど、妹ならそんなの関係無いもんね。
でも、お兄ちゃんがボクを大切にしてくれる理由は、ボクが『妹』だからに過ぎない……。
だからボクは、女のコとして……『望月アリス』として見て欲しいんだ。
お兄ちゃんに大切に思われる事が、ボクの存在意義だと思うから」
棗の問いに、アリスはありのままの気持ちを話した。
『魔法使い』という影を抱く自分に、手を差し伸べてくれた藤原。
どんな時でも、自分の為に行動してくれた藤原。
そんな彼への想いは、『妹』などという枠に収まるものではない。
「……詰り、今、藤原さんが貴女を大切にしているのは、貴女が『妹』だから。
『妹』を大切にするのは当然で、『妹』という関係が無くなれば、今の関係は瓦解為る。
故に、『妹』ではなく、一人の女性として見て欲しい、恋人として扱って欲しい……。
其れが、貴女が藤原さんの『妹』という立場に甘んじる事を潔しとしない理由ですか」
「う、うん……そんな感じだと思う」
棗が短く、しかし少し難しい言い回しで纏め、アリスは頷いた。
その瞬間、アリスの眼前に黒い物体が現れる。
それは、棗が突きつけたエアガンだった。
突然の事に動揺するアリス。
棗が撃つ相手を決して選ばない事は、藤原や秋原から聞き及んでいる。
老若男女の分け隔てなく、自分にとって都合の悪い人物を平等に穿つ、と。
「でしたら、今直ぐ其の考えと言葉を改めて頂きましょう。
身内ならば大切にされて当然……其の言葉は、私達に対する挑戦と受け取ります」
「そ、それってどーゆー……」
冷や汗をかきながら、アリスは棗の顔を見る。
その目は、さながら青い炎の様に、静かな怒気を放っていた。
「貴女の様に、真っ当な愛を受けて育った人には解らないのかもね。
でも、歪んだ愛を押し付けられたり、愛すら貰えなかったり、憎しみを向けられて育った人も居るのよ。
私達から見れば、貴女の願いは唯の贅沢……子供の我侭にしか聞こえないの!
信頼出来る身内が居て、帰りたい家が在る事がどんなに仕合せか、貴女に解る!?
身内が誰よりも憎い、誰よりも怖い、其れがどれ程私達を苛むか解る!?
両親に『性別を奪われた』なんて、貴女にはどうせ理解出来ないんでしょう!?」
「あっ……!」
その言葉で、アリスは棗の憤る理由を理解する。
棗は、娘を欲しがった両親によって、女性の様な名前を付けられた。
それだけでなく、言葉遣いから立ち振る舞いまで、全て女性である事を求められた。
幼稚園や保育所にも通わせない箱入りだった為、小学校に通うまで、本人は自分を女だと思っていたらしい。
だから、今でも女性らしさが抜け切らないという。
感情が大きく揺れた時に口調が女性のそれになるのは、その片鱗だ。
女として生まれず、男として育てられる事も無く。
正に、身内によって性別を奪われたのだ。
そんな彼の前で、身内には大切にされて当然などと言ってしまった。
それは、飢えている人の前で残飯を捨てる行為に等しい。
「ゴメンねひーたん……ボク、スゴく無神経な事を……」
軽はずみな言葉を後悔するしかないアリスは、俯いて謝る。
棗は、暫く銃口をアリスに向けたままであったが、やがてそれを懐にしまった。
「……失礼。つい熱くなってしまいました。後々面倒ですから、此の事は内密にお願いします。
御詫びと云う訳ではありませんが、昼休みの間丈、何が起きたとしても、見なかった事にしましょう」
「え……良いの?」
棗の意外な提案に、アリスは目を白黒させる。
彼の逆鱗に触れたというのに、事態は寧ろ好転したのだ。
エアガンを向ける事の是非はともかく、どういう風の吹き回しなのだろうか。
そんなアリスとは対照的に、棗はすっかり熱が冷めていた。
「私が頑なに拒んだ所で、貴女が意思を変えるとは思えませんから。違いますか?」
「う、うん……。ひーたんに迷惑掛けちゃうのは悪いけど、これだけは譲れないんだ。
お兄ちゃんがボクを大切にしてくれたのは、単に『妹』だからじゃない事も、ちゃんと解ったよ。
でも、だったら尚更、ボクは『妹』に甘んじていたくないんだ」
棗の問いに、アリスは躊躇いつつも頷いた。
棗の言葉には、確かに反論する事が出来ない。
自分が我侭である事も、自覚しているつもりだ。
それでも、自分の気持ちに嘘を吐く事は出来なかった。
どんなに責められても、藤原が好きである事に変わりはない。
このまま、明に取られるのを黙って見ていられない事も。
「でしょうね。戀に取り憑かれた人は、凡そ常人には理解出来ない思考回路をしていますから。
理性を奪い、非効率的な選択を強いる……全く以て、戀は罪悪ですよ。
ま、屋上には貴女達以外行かないでしょうし、生徒会の連中も口出し出来ないでしょう。
私が不利益を蒙らないのであれば、貴女達が何をしようと、知った事ではありません」
「ありがと、ひーたん。今度、秘蔵の無修正を見せてあげるよ」
「要りません」
棗との会話を終え、屋上へ向かおうとするアリス。
「……少し、待ちなさい」
「あれ? まだ何かあるの?」
しかし、すぐに再び棗に呼び止められ、アリスは再び棗の方を向く。
やはり、無修正が見たくなったのだろうか。
「何処かで誰かが、こんな事を云った気がしましてね」
そう言うや否や、棗はアリスのツインテールに手を伸ばす。
先程『後ろ髪を引かれた』事を思い出し、アリスは思わず身構えた。
だが、棗の両手は、ツインテールの根元、髪を結ぶリボンへ向かい――。
「……女の子は、エレガントに」
藤原は、今日も普段通り屋上へ来ていた。
昼休みになると、秋原やアリス、真琴が昼食を食べに来る。
もちろん、藤原もその一人なのだが……。
「……誰も居ないな」
秋原ともいつの間にか逸れてしまい、屋上は静まり返っていた。
真っ青な空を白い雲が泳ぐ、平和な一時。
藤原の勘が正しければ、こういう時は大抵、
「あ、お兄ちゃん、もう来てたんだ」
嵐の前の静けさに過ぎない。
背後から迫る小さな大嵐に、藤原は溜息を吐いた。
こうなる事が判っていたのなら、保健室で止めを刺していたのに。
普段のアリスが相手ならば、流石にここまでは考えない。
しかし、今日のアリスは、何かがおかしい。
具体的に何がとは言えないが、男の勘がそう告げているのだ。
「えへへ、二人っきりだね」
「何を今更。これで今日何回目だと思……」
適当にあしらおうとした時、藤原はある事に気付いた。
「アリス……お前、髪型……」
「あ、気付いた? イメチェンしてみたんだけど……どうかな?」
藤原の反応が余程嬉しかったのか、アリスは頬を染めて尋ねた。
ダークブラウンのロングヘアが、そよ風に誘われて靡いている。
アリス自身も、返答次第で舞い上がってしまうだろう。
いつものツインテールとは打って変わって、少し大人びた髪を下ろした姿。
真琴が見たら、鼻血を出して倒れてしまいそうだ。
馬子にも衣装を、身を以て体現しているといえる。
もちろん、そんな事を正直に言えば、
「むぅ、どーゆー意味!?」
と頬を膨らませるか、
「むぅ、子供の次は孫扱い!?」
と少し勘違いして結局頬を膨らませるかのどちらかなのだろうが。
どうせ、誰かの差し金なのだろう。
アリスは、思春期の小学生レベルで心身共に成長が止まっているのだ。
そんな彼女が、髪形を変えて相手の気を惹こうなどと考える訳が無い。
自分で思いついた訳でもないのに、べた褒めするのも気に入らない。
とは言え、多少なりとも可愛いと思ったのは事実なので、
「まあ、年に二回くらいは、悪くないかもしれないな」
「むぅ、全然褒められた気がしないんだけど」
程々に褒めておく事にした。
「ふむ……ロングヘア仕様のアリス嬢も乙だな。
髪型的に淑やかな印象を受けるが、その実そんな物とは無縁なのも良い。
しかし、これでは明さんと被りかねんな。その他のスペックの差で誤魔化せれば良いのだが。
否、逆に考えるのだ。これから新キャラが増え続ければ、多少の被りは致し方ないと。
いっそ三十一人くらいまで増やせば、被りがネタになるやも知れん」
「あの、先輩。新谷さんが鼻血を……」
「ふっ、案ずる事はない。鼻血は変態の勲章だ。
……しかし妙だな。我々はこんな事教えておらんぞ。
之ほどに乙女チックな入れ知恵をする輩……さては棗か。
さすれば、生徒会の連中も……早速嗅ぎ付けてきおるとは。
棗はともかく、生真面目な連中だ。風紀は乱してこそ価値があるというに。
興を醒まされては厄介だ。尺の問題も鑑みると、この昼休みが勝負だな」
「この小説、いつから楽屋ネタに寛容になったんですかね……」
という訳で、まだこの話は終わらなさそうです。
久しぶり過ぎる出番の棗が、かなり出張ってくれましてね……。
あじきない話で下積みを積んだからか、以前よりキャラは確立してます。
恐らく替えが利かないであろう『男の娘』なので、もっと出したいですね。
というより、最近は棗の話ばかり頭に浮かんでます。
自覚はあんまりないのですが、私、男の娘萌え……なのかも知れません。
思えば、小学館の雑誌でやぶうち優先生がやってた少女少年が私の(以下略)




