藤原を我が物と思う望月の その五
その日の朝、藤原は自然と目が覚めた。
カーテンが閉まっているので、正確な時間は把握出来ない。
鳥のさえずりが聞こえるので、恐らく朝だろう。
豆球が照らす薄暗い部屋で、藤原はまどろむ。
起きるべき時間が来れば、明が起こしに来てくれる。
それまでは、夢現に身を委ねるとしよう。
藤原がそう考えていた時、誰かが階段を駆け上がる音が聞こえた。
明の足音にしては、余りにも軽い。
第一、明は階段を駆け上がるような事はしない。
まるで、小さな子供の様な……。
「お兄ちゃん!」
ドアが勢い良く開いたかと思うと、寝起きには聞きたくない程に元気に満ちた声。
聞こえる筈のない声に、藤原は混乱する。
そんな事は気にも留めず、その声の主はベッドに飛び込んだ。
「朝だよ、起きて!」
「あ、あり……ッは!?」
アリスの圧し掛かりをもろに受け、藤原は悶絶する。
小柄なアリスのそれとは言え、人の体重に飛び掛られては堪らない。
顔を覗き込んできたアリスが、笑顔で言う。
「おはよう、お兄ちゃん」
「永遠に寝かせようとした奴が言うか……」
朝から殺意が芽生える藤原であった。
開け放たれたドアから差し込んでくる光で、アリスが制服を着ている事が判る。
こんな朝早くから、よく準備出来たものだ。
子供は朝に強いものだが、それを押し付けるのはどうなのだろう。
「お兄ちゃん、朝から元気無いよ? 下半身もヘナヘナだし」
「こういうのは個人差があるし、毎朝そうなる訳じゃないんだよ。
それ以前に、そんなところ触るな。保健の授業でやれよ」
「お兄ちゃん一筋のボクが、お兄ちゃん以外にこんな事すると思う?」
「……取り敢えず、俺以外に被害が及ばない事を喜んでおくか」
痴女かこいつは、と思いながら、藤原は溜息を吐いた。
こんな時間にこんな仕打ちを受けて、元気でいられる方がどうかしている。
「望月さん!? 何しているんですかこんな時間に!?」
明が遅れて現れ、事態は尚更ややこしくなる。
「うむ、出だしは好調だな。幼馴染に妹となれば、朝起こしに来るのがお約束。
優しく起こす明さんに対し、アリス嬢はやや乱暴に、それでいて人懐こく起こす事で対抗する。
これで差別化を図る事が出来、藤原にとっても新鮮だ」
「先輩が羨ましいっス。私も、幼女に起こされて組んず解れつしたいっス!」
「新谷さんの場合、寧ろ幼女と寝たいんですよね」
どうにかその場を収め、藤原は今日も学校へ向かう。
傍らにアリスが居るのはいつもの事なのだが、
「えへへ……お兄ちゃん♪」
今日はやけにベタベタしていた。
二の腕にすがり、猫撫で声で甘え、やたらと目を合わせようとしてくる。
目を逸らそうがお構いなしで、目を合わせる度に笑いかけてきた。
歩幅をアリスに合わせているのは、こんな事をされる為ではない。
かといって、抜き去ってしまうのも大人気ない。
対処に悩んでいる間も、アリスは胸か腹かも判別出来ないそれを押し付けてくるのであった。
「何だよ気持ち悪い……拾い食いでもしたのか?」
流石に藤原も限界に達し、少し尖った口調で言う。
「むぅ、そんな言い方はないでしょ、お兄ちゃん。
さっきからずっと、腕にボクの胸が当たっているんだよ?
もっとこう……ドキドキしたり、ムラムラしたりしないの?」
「胸? お前にそんな物があったのか?」
「ひ、ヒドいよ! いくら何でも女のコにそんな言い方……!」
少し言い過ぎたのか、アリスは今にも泣き出しそうだ。
――絡んできたのはそっちだろう。
釈然としないが、登校中に泣き出されても困る。
藤原は溜息を吐きつつ、鞄から飴玉を取り出し、アリスの口の中へ突っ込んだ。
「悪かったよ、言い過ぎた。それで許してくれ」
「むぅ……お兄ちゃんてば、こんなアメ玉にボクが釣られるとでも……」
アリスは暫く不機嫌な表情をしていたが、やがて顔を綻ばせる。
レモン味を与えるのは初めてだったが、どうやらお気に召したらしい。
舌で戯れ、口内を自在に転がし、小さくなれば歯で噛み潰す。
心底幸せそうに飴玉を堪能するアリスには、彼女が激怒しそうな比喩しか思い浮かばない。
初キスはレモンの味、などとはよく言ったものだが、アリスにはおよそ縁の無い話だろう。
結局、学校に着くまでに、持っていた三つを全て食べられてしまった。
扱いやすくて便利だが……。
「……そのうち誘拐されそうだな、真琴に」
「ふっ……アリス嬢も粋な事をする。漢は、異性に触られる事に弱い生き物。
少し触れられただけでも、あらぬ誤解を抱いてしまうものだ。
積極的なスキンシップで藤原を落とす……策としては上出来。
強いて注文をつけるなら、もう少しさりげなく攻めるべきだな。
抱き付かれるのも悪くはないが、ふと手が触れ合う瞬間に勝るものはあるまい」
「確かに、先輩ドン引きしてますからね」
「ところで、真琴嬢の姿が見えんのだが……」
「飴を買いに行きました」
体育の授業の前、藤原は準備の為に体育倉庫に来ていた。
普段、この様な役目が回ってくる事は無いのだが、先生に頼まれたのなら断れない。
特に鶴橋は、焼肉の話を交えた説教を延々と続けるので厄介だ。
開けた扉から差し込む光を頼りに、薄暗い倉庫内を物色する。
サッカーボールさえ探せば良いのだが、他の道具も所狭しと保管されており、退けるのも一苦労である。
「あ、お兄ちゃんも準備なんだ」
七面倒な時に、七面倒な少女の声が背後から聞こえた。
僅かな期待を寄せて振り返るが、そこに居るのは、やはり七面倒なアリスだ。
「アリスも、何か取りに来たのか?」
「うん。体育館のバレーボールが足りないから、こっちに予備を取りに来たんだ」
「ば、バレー!?」
アリスの言葉に、藤原は思わず声を上擦らせてしまった。
そして、まじまじとアリスを見つめる。
体操服姿のアリスを、上から下へ、下から上へ。
「お、お兄ちゃんてば、ボクのブルマニーソ姿に欲情したからって、見てるだけ……いやいや、見つめちゃ」
「先生も酷な事をさせるな……」
言葉で拒絶し、声は一切嫌がっていなかったアリスだが、藤原の一言で固まってしまう。
アリスが藤原の真意を理解するのに、この一言以外必要無かった。
やがて、嵐の前の静けさは足早に通り過ぎていく。
「ひ、ヒドいよお兄ちゃん! スパイクやブロックの時に手が届かないって思ったんでしょ!?」
「誰もそこまで言ってねえよ……」
半泣きになる百三十八センチと七ミリに、藤原は溜息を吐いた。
わざわざ自分から、恥ずかしいエピソードを告白する必要も無いであろうに。
身長にコンプレックスを抱いている所為で、この手の話に過敏になっている様だ。
「もう怒った! 今度はアメなんかじゃ許してあげないもん!」
どうやら、簡単には許して貰えないらしい。
朝の件はアリスが発端だったが、今回は自分の発言の所為。
しかも、アリスが言った通りの事を、口には出さなかったものの既に想像していた。
ここは、飴よりも誠意ある対応をするべきだろう。
「判ったよ。後でチョコレートな」
「本当!?」
一瞬で頬を綻ばせるアリスに、藤原は再び溜息を吐いた。
仮にも十六歳が、こんな思考回路で良いのだろうか。
藤原が本気で心配し始めた時、アリスはハッと我に返る。
「だ、だから! お兄ちゃんのそーゆー扱いに怒ってるの!
ボクはもう十六歳なんだから、いつまでも子供扱いしないでよ!」
「飴玉に釣られた奴が言うかよ……」
流石に、毛の生えた程度の手段は通用しない様だ。
――毛も生えていないくせに……。
「じゃあ、どうしたら許してくれるんだ?」
「う〜ん……それじゃあ……」
藤原の問いを受け、アリスは倉庫のドアを閉めた。
僅かに漏れる光のみが頼りとなった倉庫内で、アリスは藤原に寄り掛かる。
ありもしない胸を押し付け、上目遣いで藤原と目線を合わせ、指で藤原の体をなぞる。
「あ、アリス……?」
「ボクはもう大人だって事を、身体で覚えて貰おうかな。
お兄ちゃんが……悪いんだからね。ボクの事、いつまでも子供扱いするから。
場所が場所だし、初めてだけど、お兄ちゃんとなら……きっと……」
囁く様に言い、しな垂れるアリス。
目を瞑って背伸びをし、その顔は明らかに口付けを求めていた。
三十センチ以上の身長差は、アリスの努力だけでは埋まらない。
爪先立ちが辛いからか、小さな身体は震え、更に身体を預けてくる。
アリスの心臓の高鳴りが、紙の様に薄い胸を通じて如実に感じられた。
藤原は三度溜息を吐き、紅潮している頬に手を添えた。
小さな身体がビクリと震え、そのまま石の様に固まる。
そして藤原は、
「ひ、ひたひひたひひたひ!」
熱を帯びた頬を摘み、左右に引っ張った。
思う様に口を動かせないアリスが、大半をハ行にして叫ぶ。
「あのな。そんな事するだけで大人だと認めて貰えるなら、誰も苦労しないんだよ。
俺の知っている『大人』は、少なくとも、もう少し慎みがある筈なんだけどな」
「ほ、ほへんなはひ……」
手短に説教を済ませると、藤原は手を離した。
ヒリヒリする頬を押さえて呻くアリスを余所に、サッカーボールを数個抱え、体育倉庫を後にする。
「ううむ……鶴橋先生の助力を得て、このシチュエーションを用意したというに……。
二人きりの体育倉庫で、それもブルマ姿で誘惑されて尚、藤原の牙城は崩れんのか」
「信じられない理性っスね。私なら、体育倉庫で二人きりって時点で襲ってしまうっス」
「新谷さん、いい加減捕まりますよ」
「しかし、幼女のブルマ姿は実に良いものだな。か細い脚が劣情を駆り立てて止まぬ」
「全くその通りっス。でも、望月さんは、いつも体操服の裾をブルマの中に入れるっスよね。
偶には外に出して、裸Tシャツっぽくして欲しいっス」
「ふむ、一理あるな。差分CGで補完しよう」
「それは嬉しいっスけど、二周しないとCGコンプ出来なくなるっスよ」
「案ずるな。選択肢直前でセーブデータを二つ作れば良いのだ」
「なるほど。流石は先輩! 私とは年季が違うっス!」
「ふっ……この程度は常識。回想モードの無いゲームでも役立つ故、憶えておくが良い」
「……さっきから、話についていけないんですけど」
「秋原め……絶対にわざとやりやがった」
体育の授業中。
秋原の強烈なオウンゴールを鳩尾に食らった藤原は、よろめきながらも保健室に到着した。
自分の見える範囲に秋原が居る時点で警戒するべきだった、と藤原は悔やむ。
せめて、秋原の発した
「ここから居なくなれぇッ!」
が、自分に向けられたものだと気付くべきだった。
朦朧とした意識の中で聞こえた、
「正気でオウンゴールが出来るか!」
は、暫く忘れられそうにない。
今度から、軽い気持ちでキーパーを引き受けるのは止めよう。
保健室のドアを開けると、白衣を着たこの部屋の主、今宮が居た。
新聞と数枚の紙切れを見比べており、藤原には気付いていない様だ。
「失礼します」
藤原がそう言って数秒後、ようやく今宮は顔を上げた。
「あら、いらっしゃい。休憩? それとも宿泊?」
「せめて、二人連れに言って下さい」
早速学生相手に際どい事を言う今宮に、藤原は遠慮無くツッコんだ。
先生相手だからと躊躇していては、この学校ではやっていけない。
ここは、違う意味の猛者が集う、いわば梁山泊なのだ。
「鳩尾にオウンゴールを食らったので、暫く休ませて下さい」
「ふーん……味方のシュートが『当たった』のね。そのツキ、羨ましいわ。
こっちは、宝くじ全部外したのに……あ、下二桁は当たったわよ」
「こっちは、当たりたくて当たった訳じゃないですけどね」
生徒の事などどこ吹く風で、今宮は宝くじの当選番号を見ていたのであった。
仕事中にどうかとは思うが、藤原は既に諦めている。
体育のテストで牛の部位の名称を答えさせられ、教師の結婚記念日を理由に社会の授業が潰れる。
そんな学校で、勤務中の教師が宝くじに一喜一憂していても、殊更に驚く必要は無いだろう。
「ちょっと用事があって部屋を出るから、適当に休んでおいて良いわよ。
……そうそう、小学生みたいな娘がベッドで寝てるから、起こさないでね」
「小学生……アリス!?」
今度ばかりは、藤原も驚いてしまった。
保健室から一番遠い場所に居そうなアリスが、まさかベッドで寝ているなんて。
先程までは、様々な意味で元気そうだったというのに。
「まあ、大した事ないから、ちょっと寝てれば良くなるわ。
女の子が寝てるからって、くれぐれも襲わないようにね」
「いや、それはないですから」
警告よりは期待を込めて言う今宮に、藤原はキッパリと否定した。
楽しげに笑みを浮かべつつ、今宮は保健室を出て行く。
「やれやれ……うちの学校に、常識人は居ないのか」
溜息混じりに愚痴りながら、藤原はソファに腰を掛ける。
背もたれに身を預け、身体の力を抜くと、自然と大きく息を吐いてしまう。
朝から今までの疲れが抜けていく様な、重りを外した様な脱力感。
今宮さえ居なければ、保健室はさながら夏の木陰であった。
もっとも、それは虎の居ない虎穴の様なものだが。
「襲うなよ? 絶対に襲うなよ?」
「やるとは思ってましたけどね」
再び扉を開ける『虎』に、藤原は冷静に接した。
面白くなさそうな表情をして、今度こそ今宮は保健室を去る。
藤原は再び溜息をつき、軽く伸びをし、靴を脱いでソファに寝転がった。
鳩尾の痛みも、ここに来るまでに多少は和らいでいたので、気を抜くと寝入ってしまいそうだ。
――それにしても……。
寝る間際に限って、どうでも良い事を考えてしまうものだ。
「アリス……大丈夫なんだろうな」
どうしても気がかりなので、藤原は上体を起こし、靴を履いてソファから降りる。
ベッドは複数あるが、周囲をカーテンで囲われているのは一台のみ。
アリスを起こさないように、藤原はそっとカーテンを開いた。
余り大きくないパイプのベッドに、小さな少女が一人眠っている。
普段の彼女からは想像出来ない程に、その寝姿は静かだった。
流石のアリスも、寝ている時は一端の女の子に過ぎないという事だろうか。
布団は少しはだけており、先程の体操服姿である事が判った。
体育の授業中に、体調を崩したといったところなのだろう。
前髪を払い、藤原はアリスの額に手を添える。
どうやら、熱は無さそうだ。今宮の言った通り、大した事は無いらしい。
藤原は胸を撫で下ろし、安堵と脱力の入り混じった息を吐く。
「まったく、変な心配掛けさせやがって……まあ、ともかく良かった。
お前は元気が取り柄なんだし、今のうちに、しっかり充電しておけよ」
聞こえていないのは承知で、藤原は優しく語り掛けた。
髪の流れに沿って、そっと頭を撫でながら。
藤原の心配を余所に、アリスは寝息を立てたままだ。
何となく寝顔を見ているうちに、自然と欠伸をしてしまう。
目の前で、さも心地良さそうに人が寝ているからだろうか。
休むだけのつもりであったが、やはり少し寝ていく事にした。
アリスの隣のベッドで、彼女を見守る様に。
「……妙だな。アリス嬢は寝た振りをしている筈なのだが」
「先輩が恥ずかしい台詞を言った瞬間に目を覚まして、甘ったるい流れに任せて……ってパターンっスよね。
そうっスね……この場合……あ、待ち惚けているうちに、本当に寝てしまったんスよ!」
「だ……駄目だ、まだ笑うな……堪えるんだ……し……しかし……」
「失敗の中身が、望月さんらしくて微笑ましいっス。目覚めた時のリアクションも見たいっスね」
「確かにその通りだが、これで四連敗か……。
仮に寝てしまったとて、無防備な寝顔に襲わざるを得なくなると思ったのだが。
おのれ藤原……主人公は鈍感なものとは言え、度が過ぎると嫌がられることを知らんのか」
「クレーマーが怖いっスし、『後でスタッフが美味しく頂きました』のテロップが要るっス。
……ところで、さっきから誰か居ない気がするんスけど……気の所為っスか?」
「世界は交換で成り立っておってな。今宮先生の助力を頂くにも、何かしらの対価が必要であったのだ」
「もしかして、さっき今宮先生が出て行ったのは……」
「またの名を『生贄』と言う」
ものの見事に夏休みを外した……そう思っている方もいるでしょう。
しかし、忘れてはいけない。大学生はまだ夏休みである事を。
……まあ、単なる言い訳ですが。
大学の夏休みはとても長いのですが、長ければ良いというものではない事を痛感しています。
いい加減、サークルの人達が恋しくなってきた……。