明なら働いてみよ光なら学んでみよ その十
「……という訳で、『I love you even if hundred million two thousand years pass』は、
『一億と二千年経っても愛してる』と訳します。
ちなみに、『Even if hundred million two thousand years pass,I love you』でも意味は同じです」
メイド服の件を除けば、夕の授業は滞りなく進んでいた。
明は、優しい瞳でそれを見守る。
大勢の生徒の前でも、臆せず授業をする夕。
実家に居た頃の、人付き合いが苦手な彼女を知る明は、様々な思いを抱いていた。
彼女の成長を喜ぶ心。
自分も頑張らねばと思う心。
彼女が飛び立っていく事を寂しく思う心。
それらが複雑に絡まり合い、今の明の心情を形作っていた。
まだまだ甘えたがりだと思っていた夕が、職場ではこんなにも凛としている。
生徒の人生を左右する職である事を重く受け止め、それでも押し潰されていない。
教育への情熱と、勉学で培われた冷静さ。
それらがあるから、同い年を相手に教師でいられるのだろう。
そう思うと、妹ながらも誇らしく思ってしまう。
恐らく、次に夕が藤原宅に来る時も、何だかんだで甘やかしてしまうだろう。
彼女は既に社会人で、住み込みとは言え、あそこは藤原の家なのに。
でも、それでも、夕には甘く接してしまう。
彼女の事が、可愛くて仕方ないからだ。
弟や妹が居るならば、誰しも大なり小なりそういう思いがある筈だ、と明は思う。
今は、週の半分程を夕と過ごす事が出来る。
しかし、それも永遠ではないだろう。
藤原の両親が戻れば、自分は次の勤め先を探さなければならない。
転勤になれば、アパート暮らしの夕は引っ越してしまうかも知れない。
いつまでも、このままではいられない。
だからこそ、今のうちに可愛がっておきたいのだ。
「では、藤原君。『You are not a peony but a pig!』を訳して下さい」
「……は、はい!」
突然夕に当てられ、明は少し驚きながら返事をする。
――今は集中しないと。
物思いに耽っていた自分を責め、明は即答した。
「『あなたは牡丹じゃなくて豚よ!』」
「よく出来ました。『not A but B』はテストに出すので、憶えて下さいね」
無事に乗り切ることが出来、明は小さく息を吐いた。
同時に、夕に褒められるという珍しい経験に、不思議とくすぐったい気分になる。
一方、明の前の席の秋原は、
「明さんが……明さんが言った事に意味があるのだ……!」
一人何やら興奮していた。
その時、明の目に時計が映り、ある事を思い出す。
――もうすぐ、ですね……。
もう一分も経たぬ後に、『戦』が始まるのだ。
家計と食卓を担う者の、全てを賭した戦が。
明は、今更ながら少し後悔する。
特売品を求める屈強な主婦達の最中に、何も知らない藤原を放り込んでしまった事を。
だが、あれをこなさなければ、自分の代わりは務まらない。
あれが、いつも自分がしている事なのだから。
今までは、はしたない姿を見られたくないので、藤原が付き合ってくれる日は断念していた。
しかし、これで彼も解ってくれるだろう。
何かを安く求めるという事が、どういう事なのかを。
自分も『洗礼』を受けた時には、衝撃を受けた。
犯罪集団と戦った事もある自分が、手も足も出なかったのだ。
藤原も、恐らく無事では済まないだろう。
それでも、主婦の群に揉まれる事は、人生に於いて有益な筈だ。
人間、いずれは社会の荒波に揉まれなければならないのだから。
いよいよ、『戦』が始まるまであと数秒。
四……三……二……一……
「うわぁあああああああああああああああああああああああああああああっ!」
「……はい、今日の予定が終わったので、授業はここまでです」
夕の授業は、休憩のチャイムよりも早く終わった。
生徒達の緊張が解け、思い思いにくつろぐ。
明も、授業直後の解放感を、久しぶりに味わっていた。
生徒として妹の授業を受けた感想は、流石は夕、といったところであろうか。
教えるべき点を効率良く教え、無駄が無いので早く終わる。
だれる前に終わるので、最後まで集中して授業に取り組めた。
これも、授業内容を綿密に計画しているからだろう。
色々と心配していたが、教師としてしっかりとやっている様だ。
「あと、私からの連絡。来週の水曜日の放課後に補講を行います。
希望者は、職員室前の名簿にチェックを入れておいて下さい。
では、特に質問が無ければ、残りは自習にしようと思うのですが……」
「先生! 姉について詳しく!」
「ですよね……」
違う意味の質問がきたので、夕は溜息を吐く。
明は苦笑する一方、これはチャンスだと思った。
夕が自分の事を本当はどう思っているのかを、直接聞く事が出来る。
嫌われてなければ良いのだが……。
観念したのか、夕は話をする体勢に戻った。
「さっき言った通り、姉さんはメイドの仕事をしています。
姉さんは中学を卒業してすぐに実家を出たので、そこに至るまでの経緯は知りません。
ただ、姉さんは、昔からメイドという仕事に憧れていたんだと思います。
……いえ、正確には、憧れていた人がメイドだった、と言うべきでしょうか。
いずれにせよ、久しぶりに会えた姉さんが自分の夢を叶えていた時は、自分の事の様に喜びました」
明は、ひとまず安堵した。
勝手に家を飛び出した事を、夕は本当に気にしていない事を確認出来たからだ。
そして、あの頃の夕も、幼いながらに自分の事をちゃんと見ていたのだと思い知らされる。
自分がこうありたいと願っていた人を、知っていたのだから。
「小さい頃から、私は姉さんに憧れていました。
社交的で、家事が得意で、運動も出来て、何よりも研鑽を怠らない人でしたから。
知識ばかりで知恵が無い私なんて、全然敵いませんでした。……今でも敵いませんけど。
甘える私に姉さんは優しく接してくれて、私はそれに気を良くして更に甘えて……そんな関係でしたね。
お洒落に無頓着だった私の髪を初めて結ったのも、姉さんでした」
そう言って、夕は自分のサイドポニーに触れる。
ずっと昔の事を思い出して、明は思わず頬が緩んだ。
胸ではなく、髪が運動の邪魔になっていた頃。
髪の結い方を教わり、リボンをたくさん貰った自分は、勉強の最中だった夕を襲撃したのだ。
ボサボサに伸びた髪を纏め、色々な結び方を試した。
まるで、着せ替え人形で遊んでいるかの様に。
その時に一番しっくりきたのが、今の髪型である。
蝶々結びが上手く出来ない彼女に手取り足取り教えるのは、とても楽しかった。
今でも、彼女が遅刻間際の時には、朝食を食べさせている間に結ってあげているのだが。
「そんな姉さんでも、流石に苦手なものはありました。
雷を尋常じゃないくらい怖がったり、ドアノブの静電気で気絶したり……。
雷雨の夜には、一晩中私に抱き付いて離れませんでした。
私は、そんな姉さんを可笑しく思う反面、今だけは姉さんの為になれているかな、と思ったりもしていました」
緩んでいた明の頬が、そのまま固まる。
前の席の秋原が、凄まじい勢いで何かをメモしていた。
――夕の口止めを忘れていました……。
明は、迂闊だった自分を責める。
藤原は口止めしていたが、夕は盲点だった。
お互いの事を良く知っているから、改めて口止めする事が無かったのだ。
この事がアリスや真琴に知られたら、恥の上塗りになってしまう。
果たして、夕や秋原をどうするか。
話さない様に頼むか、万が一拒否されたら、話せない身体にしてしまうか……。
「本当に姉さんは憧れの人です。優しいし、紅茶を淹れるのが上手いし……」
そこで、夕は少し言葉を詰まらせる。
両手を両胸に添え、自嘲気味に溜息を吐いた。
「……胸も大きいし」
――やはり、そうなりますか……。
ある程度予想していたものの、明は羞恥心を覚える。
大勢の前で、余り自分の胸の話はしないで欲しい。
「だって、身長も他のサイズも、私とそんなに変わらないんですよ!?
なのに、トップバストだけは雲泥の差が……姉妹なのに……。
このメイド服も、胸の部分だけサイズが全然合わない……」
夕の語気が、見る見る衰えていく。
明には、夕がそこまで思い詰める理由が、今一つ解らなかった。
胸が膨らみ始めた頃は、大人に近付きつつあるという期待と不安が入り混じって、少しくすぐったかった。
しかし、ある程度大きくなってくると、寧ろ邪魔に思えてくる。
肩は凝るし、動く度に揺れて気になるし、男性の目線を集めてしまう。
慣れる頃にはブラを買い換えなければならず、就寝時にも装着するので束縛感すら覚える。
中学生の頃から、それらにずっと悩まされているのだ。
叶うのなら、一日だけでも夕くらいの大きさに戻りたい。
その為には、十年くらい若返らなければならないが。
「……そんな訳で、色々な意味で凄い姉さんですけど、やっぱり弱い面もあります」
ふと、夕の声のトーンが落ちる。
どうやら、雷の事ではないらしい。
「姉さんは、いつも頑張り過ぎてしまうんです。
優しくて真面目な性格だから、自分の事を顧みずに、他人の事ばかり考えて……。
誰の目から見ても充分頑張っているのに、姉さん自身だけが最後まで認めないんです。
早朝から夜まで働いて、今も研鑽の為に勉強を欠かさないで……。
憧れていた人に追い付こうと、そんな生活を毎日続けているんです。
だから姉さんには、頑張れ、じゃなくて、頑張ってるね、って言ってあげる人が必要なんだと思います。
でないと、姉さんはいつか壊れてしまいそうな気がするから」
夕は、心配そうな表情で話す。
それを見て、明は胸の奥が痛んだ。
自分は、憧れていた人に追い付く事だけを、ずっと考えていた。
それこそが自分の人生に安寧を与える唯一の術だと、信じて疑わなかった。
それが、夕の目にはそう映っていたとは。
確かに、自分は人生の視野が狭まっていたのかも知れない。
心のどこかで自覚していた事だが、妹にまで心配させていた事が、明にはショックだった。
少しだけ間を置き、夕は続ける。
「……だって、もうこの世に居ない人に追い付くなんて、出来る訳無いじゃないですか。
残された人は、先に逝った人を、どうしても美化してしまうんですから」
夕の言葉が、明の胸に突き刺さった。
自分が我武者羅に頑張っている理由を、まさに正確に言い当てていたからだ。
自分の中の師匠は、きっと際限無く美化されている。
それに追い付こうと思えば、一生走り続けなければならないだろう。
その途中で事切れるのも、或いは悪くないかも知れないと思っていた。
前だけを見て、その他のものには目もくれない人生。
それならば、幼い自分に付きまとっていた不安を、全て拭い去る事が出来る筈だ。
正確には、目を背けているだけなのかも知れないが。
でも――――
「私は、姉さんにもう少し楽になって欲しいんです。
真面目過ぎる姉さんの人生に、もっと彩りをあげたいんです。
かつて勉強しか頭に無かった私に、姉さんがしてくれた様に」
――夕は、私の横に居る。
それを無視してまで走り抜けた人生を、師匠は褒めてくれるだろうか。
自分を大事にしなければ、心配してしまう人が居る。
自分の身体は、自分一人のものではないのだ。
「実は、私が今宮先生と賭けを続けるのは、姉さんの為なんです。
今宮先生は、エステや温泉の券を駆けて下さるので。
今はイカサマを見破れなくて勝てませんけど、いつかきっと勝ちます!
そして、姉さんに休みの日をあげるんです! 一日中羽を伸ばせる様な!
その為なら、私は何度でも挑戦しますよ。
コスプレさせられても、撮影されても、学校のHPに載せられても!」
「…………!?」
夕のその言葉が、明の中に引っかかっていた疑問を解いた。
何度負けても夕が賭けを繰り返す動機が、どうしても判らなかったのだ。
まさか、それすらも自分の為だったなんて。
幼い頃は、ずっと自分が夕の面倒を見てあげていた。
そんな夕が、いつの間にか、こんなに姉の事を気遣うようになっていたとは。
自分の中では、夕はまだ子供だと思っていた。
その認識が、間違いだったと思い知る。
やはり、社会人としての経験が大きいのだろうか。
いずれにせよ、夕は、もう立派な大人だ。
そう明が思った時に、終わりを告げるチャイムが鳴った。
「では、今日はここまでです。Stand up!」
『戦』を終えた藤原は、ふらふらの足取りで帰路に着いていた。
「な、何とか牛肉を買えて良かった……」
すっかり草臥れた声で、藤原は呟く。
揉みくちゃにされながらも何とか手に入れた牛肉は、今までに得たどんなトロフィーよりも眩しい気がした。
安い物を、命を賭けて……そんな主婦達の熱い生き様を、今日は誰よりも至近距離で体感出来た。
明は、こんなに大変な事を、毎日こなしているのだろうか。
……否。本当はこれ以上に大変なのだろう。
明の性格から考えて、いつもと全く同じ量の仕事を任せるとは思えない。
学校から帰ってから出来る事や、彼女にしか出来ない事は、彼女がやるのだろう。
そうだとすれば、つくづく頭が上がらない。
朝早く起きて朝食を作り、炊事洗濯をこなし、スーパーという名の戦に挑み……。
何よりも大変なのは、家事に休日が無い事だろう。
これからは、もっと明の労を労う事にしよう。
手伝いも積極的にして、少しでも明の負担を減らさなければ。
彼女の仕事とは言え、このままでは彼女が持たない。
そんな事を考えていた時、藤原は鼻の頭に冷たい感触を覚える。
「……やばい!」
雨を予感し、藤原は早足になった。
天気は、見る見るうちに崩れていく。
「……さて、感想を聞かせて貰おうか」
夕が教室から出ると同時に、秋原は明に尋ねる。
「とても有意義な時間でした」
明は、簡潔に一言で纏めた。
その表情は笑顔だが、目尻には滴が溜まっている。
それだけで、秋原が全てを察するには充分だった。
「色々と気になる事も話しておったが……ふっ、訊くだけ野暮というものだ」
「ありがとうございます」
秋原の気遣いに、明は頭を下げた。
今はまだ、無闇に触れて欲しくない事もある。
でも、周りの人達がこれならば、きっといつか話せる時が来るだろう。
「ところで……今日の天気を知っておるか?」
「いえ、朝はバタバタしていたので……下り坂だとは聞いているのですが」
「……昼過ぎから、雷を伴う雨だそうだ」
「…………」
秋原の言葉に、明はすっかり固まってしまった。
同時に、狙い澄ましたかの様に雨が降り出す。
始めは小雨だったが、あっという間に本降りに変わった。
弾丸の様な雨が、大地に降り注ぐ音がする。
少し風が吹くだけでも吹き込んでくるので、生徒達は慌てて窓を閉めた。
「……今すぐ早退して良いですか?」
「案ずるな。俺が上手く言っておく」
「ありがとうございます、秋原さん」
「ふっ……美少女の感謝こそ、俺の原動力だからな」
明は荷物を纏めると、教室を飛び出していった。
『藤原』として悲鳴を上げる姿を見られる前に、何としても家に辿り着かなければ。
「……それにしても、この西口姉妹……相思相愛ではないか。
真琴嬢の言う通り、大輪の百合を咲かせても不思議ではあるまい。
俺は寧ろ大歓迎だが、ギャルゲー的には……そうか、その為の姉妹丼か」
「うわー……ドボドボじゃねえか」
藤原宅の玄関。
何とか家に着いた藤原は、何とか守り抜いた買い物袋を、ひとまず置いた。
問題は、何よりも自分自身。
突然の豪雨で全身水浸しになってしまい、上がるに上がれない。
髪もジーンズも水を吸って重たくなり、ブラウスは透けてしまっている。
床が濡れてしまうのは諦めて、まずは風呂にでも入ってしまおうかと藤原は思ったが……
「……うわわわわ!? じ、冗談じゃない!」
一瞬でもそんな事を考えた自分を恨んだ。
まずは、身体を拭く事を考えよう。
靴下を脱いだ方が、床を濡らさないで済むだろうか。
そんな事を考えていた時、ドアが乱暴に開かれる音が背中から聞こえ、藤原は驚いて振り向く。
そこには、同じく水浸しになっている『藤原』……もとい明が居た。
ここまでずっと走ってきたらしく、すっかり息が上がっている。
「あ、明さん!? 学校は……?」
その瞬間、開いたドアから飛び込む閃光。
それと同時に、明は藤原に抱き付いた。
轟音と共に、悲鳴が轟く。
「……そっか。俺に恥をかかさない為に帰ってきたのか」
明が少し落ち着いた頃に、藤原は事情を察した。
彼女自身の為でもあるだろうが、自分の為にしてくれた事ならば、咎める理由も無いだろう。
秋原ならば、恐らく上手くフォローしてくれる筈だ。
抱き締めた腕を離さない明を、藤原はそっと抱き返す。
「今日、明さんとして生活して……色々と勉強になった。
家事が大変だって事が、身に染みて解ったよ。痛いくらいに」
「済みませんでした……私、光様を……」
「だから、『痛いくらいに』解ったって」
謝る明に、藤原は苦笑しながら言う。
随分な目に遭ってしまったが、明にとっては日常なのだ。
強いとは言え、まだ若くて綺麗な女性なのに……。
「私も、光様として学校に通って……光様の事を、少しは理解出来たと思います。
尊敬出来る先生方や、お互いに高め合う御学友が居るからこそ、今の光様が在るのですね」
「……そんな人居たっけ?」
明の言葉に、若干戸惑う藤原。
彼女が言う程高尚な人物が、あの学校に居ただろうか。
「はい。好きなものを好きと言える、我が道を行く鶴橋先生。
結婚しても愛が冷めず、常に妻の事を想う、愛妻家の天王寺先生。
子供の純真さを失わず、小さな命をも尊ぶ梅田先生。
勉強面だけでなく、人間としても教わる事が多い方ばかりです」
「何というか……物は言い様だな」
あくまでもプラスに捉える明に、藤原は言及を諦める。
彼女が尊敬しているのなら、わざわざ口を出す理由も無いだろう。
確かに彼らは、ある意味で、明には絶対に無いものを持っている。
そういう意味では、明にとって尊敬出来る人達なのかも知れない。
「あ、あと、その……寺町先生も……同じ女として……」
「え? 何て?」
「い、いえ、何でもないです」
明が小さく何かを言い加えた気がしたが、藤原には良く聞こえなかった。
「で、本命の夕はどうだった?」
「そうですね……とても立派に職務を全うしていたと思います。
姉として、鼻が高い様な、少し寂しい様な……複雑ですね。
単に、私が夕を溺愛しているだけなのかも知れませんけど」
藤原の問いに、明は少し照れくさそうに答えた。
明の場合、溺愛という言葉が大袈裟ではないので、少しリアクションに困る。
「……まあ、明さんは満足したみたいだし、入れ替わった甲斐があったな」
「はい。無理を言って、済みませんでした」
「こういう時は、『ありがとう』って言う方が良いと思うよ」
「そうですね……では、ありがとうございました」
藤原の言葉に、明は小さく笑って言い直した。
「礼を言われる程でもないんだけどな。俺も、色々と気付けた事があるし」
「と、言いますと?」
「その前に……そろそろ離れないか?」
「そ、そうですよね。私とした事がいつまでもはしたない……」
藤原に言われ、明は恥ずかしそうに身体を離した。
近過ぎて逆に見えなかった明の身体が、ようやく目の前に現れる。
雨に濡れた長い髪は、彼女の性格と同じくしっとりとしている。
ブラウスが肌に張り付いているので、綺麗な身体のラインがそのまま再現されていた。
張りのある若い肌の上で、雨粒は玉の様に光っている。
「……あれ?」
ここで、藤原は何か違和感を覚えた。
おかしい事は無いと思うのだが、間違い無く何かが変だ。
どうやら、明も同じ様な事を考えているらしい。
そして、二人同時に、もやもやとした感覚の輪郭が見えてくる。
「――――!」
何もかもに気付いたのも、二人同時だった。
「戻った!?」
「やれやれ……この前のアリスの件でびしょ濡れになったばかりなのに」
明に先にシャワーを浴びて貰い、藤原も冷えた身体を温めた。
新しい服に着替え、リビングに入ると、いつものメイド服に着替えた明がテーブルを囲む椅子の一つに座り、紅茶を飲んでいた。
明の向かいの席に座り、藤原は溜息を吐く。
「いざ戻って振り返ると……俺達、とんでもない事してたんだな」
「お互い、労を労いましょうか。……光様の分も、用意しておきましたよ」
そう言って、明はアイスミルクティーをキッチンから持ってくる。
溶けたそれで薄まらないように、氷もミルクティーを凍らせたものだった。
ありがとう、と一言言って、藤原は冷たい一口を口にする。
風呂上り――と言うには少し御幣があるが――の冷たい一杯は、何物にも代え難かった。
「それにしても、何で元に戻れたんだろうな?」
軽く一息吐き、藤原は筆頭の疑問を口にする。
「判りません……そもそも、入れ替わっていた事が既におかしい訳ですし」
「……それもそうだな」
明に正論を言われ、藤原はそれ以上何も言えなかった。
起きた原因が判らない以上、終わった原因も判らない。
結局、何もかも判らないままオチを迎えてしまいそうだ。
「ところで光様。先程仰っていた『気付けた事』とは一体……?」
「ああ、あの話か」
戻った時のゴタゴタで、危うく忘れてしまうところだった。
しかし、間を置いて考えてみると、これはかなり恥ずかしい気がする。
その場でなら勢いで言える事も、時が経つと言えなくなるものだ。
言葉は生物、とはよく言ったものである。少し意味は違うが。
だが、返答を待っている明を見るに、今更誤魔化しは効きそうにない。
止むを得ず、藤原は話す事にした。
「明さんとして生活してる時に気が付いたんだけどさ。
何て言うか……俺達って、同じ家に住んでるのに、変な壁を作ってた気がするんだよな。
俺は明さんの事を良く知ってるとは言えないし、俺の事も、明さんにあんまり話してないし。
理由はどうあれ、今はこれが現実なんだし、そろそろ認めないといけないな、って。
……要するに、もっとお互いに色々な事を知り合っても良いんじゃないか、と思う訳で。
何せ、今の俺達は、もう殆ど……その……か、家族……みたいなもんだろ?」
恥ずかしさの余り、一気に言い切ってしまった。
我ながら、よくもこんな歯が浮く様な話が出来るものだ。
――でも、これが本音だしな。
これ程にプライベートの時間を共有する人を、他人と区切る訳にもいかないだろう。
その上、仕事とは言え、身の回りの面倒を見て貰っているのだ。
『家族』という言葉を使っても、語弊は無い筈である。
夕が家に来る事をすんなりと受け入れられたのも、『明』がこの家に溶け込んでいる証拠だ。
そして、家族の事を何も知らないなんて、余りにも寂しい。
「……そうですね。私達は、もう家族と同じですよね」
藤原の言葉に、明は笑顔で同意した。
この瞬間、新しい何かが始まった事を、藤原は感じていた。
「それにしても、驚きました。望月さんの説が、ここまで真実味を帯びるなんて」
「……? あいつが何か言ったのか?」
「ええ。実は、昼休みの事なんですけど……」
「ただいまー」
すっかり日が落ちた頃、夕が藤原宅に帰ってきた。
キッチンに居た明は、火を止めて夕を迎える。
「お帰りなさい、夕」
「ただいま、姉さん」
夕は改めてただいまを言い、靴を脱いだ。
「今日、光が早退しちゃったんだよね。
秋原君に訊いても、『オヤシロ様の祟りだ』の一点張りだし。
姉さん、何か知らない? というより、ちゃんと帰ってきたの?」
「い、いえ、その……体調を崩されたらしくて。今は何ともないそうなのですが」
夕に問われ、明はどぎまぎしながら答える。
流石に、本当の事は言えないだろう。
それ以前に、秋原が上手く言ってくれるのではなかったのか。
「そう、良かった」
藤原の安否だけが気掛かりだったらしく、夕は何の疑いも無く安堵した。
教師として、純粋に生徒が心配だったのだろう。
「……安心したら、お腹空いたな。私も手伝うから、早く夕食にしよ!」
「ふふ……判りました。光様も手伝って下さっているので、早く出来ると思いますよ」
子供っぽく振舞う夕に、明は小さく笑った。
でも、明は知っている。
あどけなさの裏に隠れた、真面目な面。
教鞭を振るう凛とした横顔。
そして、誰よりも自分の事を心配してくれる、姉思いな優しさ。
それらを隠す為に、夕は甘えてくるのだろうか。
それとも、本当は自分の方が甘えているのだろうか。
色々な事を考えて、結局答えは出なかったので、
「ね、姉さん!? まだお茶の間の時間帯なのにこんな……」
自分が求めるままに、夕を抱きしめた。
自分の感情をぶつける様であり、自分の感情で包み込む様でもある抱擁だった。
自分とよく似た匂いのする彼女は、不思議な温かさを帯びている。
それは、冬の暖炉の様に、来る者を優しく迎え入れる優しさだった。
考えてみれば、今日、こうして誰かに抱きつくのは、もう二回目だ。
自分は、なんて幸せなのだろう。
恐怖心を委ねられる人が居て、離れたくないと願える人も居るなんて。
叶うなら、この幸せが少しでも長く続いて欲しい。
雨水がやがて雲に還る様に、見送った人が帰ってくる生活が、ずっと続けば良いのに。
だが、それは決して実現する願いではない事は、一番辛い形で思い知らされている。
だからこそ、願わずにはいられないのかも知れない。
腕に力がこもり、抱擁から束縛に変わる一歩手前まで抱き寄せる。
愛慕と欲望の間の、危うい均衡を保った力加減だった。
「夕……私は、貴女の事を、世界中の誰よりも愛していますからね……!」
胸を詰まらせて、明は言う。
これが、自分の夕に対する気持ちの全てだ。
夕は始め、少し驚いていたが、やがて、優しさと嬉しさが混ざった表情になる。
そして、そっと明を抱き返した。
「……私もだよ、姉さん」
「……秋原先輩」
「どうした、堀?」
「青春って、どうしてしょっぱいんでしょうか?」
「未熟な果実……即ち坊やだからさ。
美少女のそれは言うまでもなく、若人の涙は美しい。
歳を食った時に、きっとそれは価値ある物になっているであろう」
「じゃあ、僕の涙も、いつか価値がある物になるんですね」
「まあ、八セントくらいにはなるであろうな」
「……何で日本円じゃないんですか?」
「しかも、貨幣だから換金出来んしな」
関係ない話を挟みつつ、一年以上引っ張った働学編も、どうにか終わりを迎えました。
もう、これで最終話にしてしまっても良いんじゃないかとすら思ってしまいますが、まだまだこの作品のキャラ達を愛し足りないので、もう暫くはお付き合い下さいませ。
お遊び気分で書き始めた働学編ですが、色々な要素を詰め込みましたね。
藤原と明の一日を書けたのも大きいですが、藤原と明の気持ちの変化を書けたのが一番大きかったと思います。
この話を転機に、様々な話を展開していく予定ですので、見守っていてくださいね。
では、いつぞやに話した、明草高校教師陣の名前の元ネタについて。
鶴橋:焼肉で有名らしい
天王寺:大阪市の南玄関。ちなみに、妻の桜は『桜ノ宮』、息子の正は『大正』
梅田:この縛りの場合『大阪』なのですが、多分こっちでも通じる
寺町:『寺田町』。下の名前は大して意味ありませんが、某Fateのタイガーは若干意識していたり(ぁ
今宮:新今宮は、色々とヤバい場所らしい
西口夕:連呼しているうちに、『西九条』に変わってきませんか?
……という訳で、大阪環状線の駅名でした。西九条は無理矢理ですけどね(汗