明なら働いてみよ光なら学んでみよ その九
藤原が訪れたのは、近所のスーパーだった。
冷房の効いた冷たい空気に包まれながら、明は頼まれた物を買っていく。
夕食の材料から、破損してしまった日用品まで。
明の買い物を手伝う事もあるので、割と楽に買い物籠はいっぱいになっていった。
「……こんなのアリかよ」
カートの下段は、箱ごと買ったティーバッグでいっぱいになってしまったが。
そろそろ、明と色々話し合う必要があるのかも知れない。
一通り買うべき物は揃えたが、あと一つ、牛肉だけが残っていた。
明のメモに、買う時間を指定されていたからだ。
一体、この時間に何が起こるのだろうか。
そんな事を考えながら適当に店内を歩いていた時、藤原は妙な人物を目にした。
二十代くらいの青年で、その手にはバックを抱えている。
監視カメラをやたらと気にしたり、明らかに店員を避けていたりと、行動も不自然だ。
――これは……まさか……。
藤原の脳裏に浮かぶ、ドキュメンタリー番組でよく見かける光景。
何もこんな時に……と、藤原は己の不運を嘆く。
だが、一度疑ってしまった以上、見届けなければ夢見が悪い。
藤原は溜息を吐き、彼を密かに見張る事にした。
彼の罪を立証する為ではなく、寧ろ無罪を確認する為に。
彼は、缶詰が置かれている棚の前で立ち止まった。
周囲を見回し始めたので、藤原は棚の陰に隠れる。
どこかの家政婦の様に、顔を少しだけ出して彼を見張る事にした。
彼は、やはり周囲を見回し、誰も居ない事を――実際はそうではないが――を確認し、そして……。
藤原は、自分の目を何度も疑った。
だが、確かに見てしまったのだ。
彼が、目にも留まらぬ早業で、魚の缶詰を二、三個バッグに入れた事を。
それが確信に変わった瞬間、藤原の中のあらゆる躊躇が消える。
この時の自分は、間違いなく、自分ではない何かが動かしていた。
彼が気が付くよりも早く、藤原は彼に彼に歩み寄る。
「……ちょっと、良いですか?」
藤原が呼ぶと、彼はビクリと身を震わせた。
「な、な……何だよ?」
少し上擦った声で、彼は尋ねる。
その表情は怯え切っていて、腰も若干引けている。
「貴方、商品をそのバッグに入れましたよね。会計も済ませていないのに……おかしいですよね?」
「い、言い掛かりは止せ!」
「でしたら、バッグの中身を見せて頂けませんか?」
藤原の問いに、彼は真っ青になった。
――この挙動、間違い無い。
言い逃れの出来ない状況に追い込み、藤原はひとまず安堵した。
だが、彼は完全には屈しない。
次に顔を顔を上げた時、彼の表情は開き直ったものになっていた。
「くっそぉおおおおおおおおおおおッ!」
自棄になったのか、彼は藤原に殴り掛かる。
藤原が驚くよりも早く、体は反射的に動いていた。
彼の拳を軽々とかわし、その手首を掴み、足を引っ掛け……。
藤原が気付いた時には、綺麗な一本背負いが決まった後だった。
放り出された彼の鞄から、ここの商品と思われる物が散乱する。
「どうしました!?」
騒ぎを聞きつけて、数人の店員が駆け付けた。
「窃盗と事後強盗の現行犯です。警察に突き出して下さい」
そう言って、明は男を店員に突き出した。
「そ、そんな……! 警察だけは勘弁してくれよ!」
「いいえ、許しません。いい歳してこんな事をすれば、どうなるかくらい判りますよね?
それに、一度にこんなに大量に盗む人が、初犯とは考えられません」
容赦無い言葉を浴びせている事に、藤原自身が驚いていた。
自分では思ってもいない事を、口が次々と喋るのだ。
確かに、自分も彼を許そうとは思っていない。
それでも、自分はここまで言わないだろう。
彼の万引きを確認してからというもの、この体は思い通りに動いてくれない。
その上、自分には出来る筈の無い、一本背負いまでやってのけた。
まるで、自分ではない誰かがこの体を動かしているかの様だ。
となると、今、この体を動かしているのは、恐らく本来の持ち主の……。
「ま、まあ、お客様のお陰で盗まれずに済んだ訳ですし、ここは大目に……」
店員が、二人の間に割って入る。
だが、『明』の怒りは収まらない。
「つまり、事を荒立てたくないからこの人を見逃したいと?」
「そ、それは……」
「彼は初犯ではないんですよ!? 今見逃せば、確実に繰り返します。
ここが万引きに甘い店だと思われれば、他の常習犯にも狙われるかも知れません。
それとも、ちゃんとお金を払っている人を馬鹿にしているんですか?」
「そ、そんなつもりでは……」
『明』の言葉に、店員はたじたじだった。
普段は見られない明の怒る姿に、藤原も戸惑い気味である。
だが、理は明にあるだろう。
万引き犯を見逃しては、客に余りにも失礼だ。
金を支払うつもりが無い時点で、客とは違う対応をしなければ。
「……それに、これが彼の為でもあるんです。
ここで逮捕されておけば、もう罪の上塗りはしないでしょう。
誰かに怪我を負わせる前で、本当に良かった。
下手に誰かを傷付けてからでは、取り返しがつきませんから」
「…………!」
『明』が覗かせた優しさに、男は感極まった。
零れる涙を気付かれないように、少し俯く。
『明』は男の前で屈み、顔を見上げた。
「ちゃんと償って、もう同じ事はしないで下さいね。
ルールを守る人を、ルールは必ず守ってくれますから」
「はい……すみませんでした……!」
男が反省した事を確認すると、『明』は何食わぬ顔で買い物に戻っていった。
教室に戻った明は、もう気が気ではなかった。
もうすぐ、夕の英語の授業が始まるのだ。
姉として、とても冷静ではいられない。
ちゃんと授業出来ているだろうか。
虐められていないだろうか。
変なコスプレをさせられていないだろうか。
心配し始めたら限が無い。
「もうじき、夕先生の授業だな」
「はい」
「今度は如何なコスプレをさせられておるか……実に楽しみだ」
「はい」
「…………」
秋原への返事がおざなりになってしまうのも、仕方の無い事だろう。
「……こう見えて、結構腹黒い」
「はい」
「自分より胸の小さい女性を見下している」
「はい」
「実はむっつりスケベだ」
「はい」
「他に巨乳キャラが出たら、全力で潰すつもりだ」
「はい」
「正義キャラの真琴嬢がロリコンなのは、矛盾していると思う」
「はい」
「親の金をすくねた事がある」
「はい」
「後付けの妹なんて要らない」
「はい」
「堀って誰?」
「はい」
こうして、五限目が刻一刻と近付いてくる。
明が秋原の問いに一通り頷いた頃、五限目のチャイムが鳴った。
ドアが開き、明の緊張はピークに達する。
それと同時に、生徒達がカメラを取り出した。
デジカメだったり、携帯電話のカメラ機能だったりと、人それぞれだ。
秋原の構えたデジカメが、恐らく一番高価だろう。
異様な光景に、明は面食らった。
そして、ドアの向こうから教師が現れる。
サイドポニーの胸が薄い少女……夕だ。
生徒達のカメラが、一斉に彼女を写す。
秋原に至っては、席を立ってポジションを変える程だ。
「あ……あの、そろそろ止めて貰えませんか……?」
夕が控えめに拒むが、生徒達が冷静でいられる筈が無かった。
明も、逆に身動き一つとれない。
何故なら……。
「西口先生、また今宮先生の賭けに負けたんですか?」
「はい……ジェンガでイカサマされました」
罰ゲームで着せられている衣装が、明のメイド服だったからだ。
割と速やかに撮影会も終わり、生徒達は授業の体勢が整う。
夕は軽く溜息を吐き、教卓に荷物を置いた。
明は、まだ驚きを拭う事が出来ない。
何故、いつの間に、自分のメイド服を持ち出されていたのだろうか。
「先生、今日も今宮先生が用意した服なんですか?」
「ううん。メイド服を着せられる事になったから、自分で持ち込んだんです」
生徒の問いに答える夕。
やはり、あの服は自分のメイド服の様だ。
「自分で用意したんですか?」
「はい。姉さんの仕事がメイドだから、姉さんの服を着てみたいな、って思って」
夕の発言の後、一瞬の沈黙。
その後、反動の様に一気に湧き上がった。
「え!? メイドって日本じゃ普通じゃないの!?
日本は空前のメイドブームだって、アメリカに居た時確かに……」
予想外の反応に、夕は狼狽する。
どうやら、国を隔てて情報が歪んでしまったらしい。
どうにか生徒達を静め、再び溜息を吐いた。
「……とにかく、今日は姉さんの服を着てきました。
その所為か、何だか気分が落ち着くんです。多分、姉さんの匂いがするからかな?
姉さんが傍に居る様な……抱きしめられている様な感じがして……」
そう言う夕の表情には、早くも笑顔が戻っていた。
明は、赤面しそうになるのを必死に抑えて、やはり抑え切れていない。
「では、雑談はこの辺りにして……授業を始めます。Stand up!」
騒動がひとまず落ち着き、藤原はようやく体の自由が利くようになった。
自分がした事を思い出すと、今でも冷や汗が出る。
万引き犯相手に、あそこまで躊躇い無く出て行くなんて。
あの時、自分の体を動かしていたのは、明らかに自分ではない何かだった。
だとすれば、この体の本来の持ち主である明を想像するのが自然だ。
そもそも、明の体を自分が動かしていることが、既におかしいのだ。
今更、この程度の事で驚く方がどうかしている。
――それにしても……。
明さんは本当に凄い人だな、と藤原は思う。
あの状況で、あんなに毅然とした行動が出来るだろうか。
その上、桜の話通り、男性一人くらいなら息すら乱さず制してしまうくらい強い。
普段からは想像出来ない怒の感情は、深い博愛の裏返しなのだろう。
何をしても怒らないという事は、優しさではなく無関心の証なのだから。
自分の周りのお転婆達は、四年後に明の様になれるだろうか。
――ガキとロリコンだからなぁ……。
そんな事を考えていた時、藤原は、スーパーの人口密度が急上昇している事に気付いた。
同時に、明が牛肉を買うのに指定した時間も迫ってきている。
もしかして、何かしらの関係があるのだろうか。
「あら、西口さん!」
「えっ……は、はい」
突然声を掛けられ、藤原は少し戸惑いながら応えた。
声の主は、見るからに中年の専業主婦だった。
明の人柄なら、買い物先で知り合いが出来ても不思議ではないだろう。
今度こそ本当に知らない人なので、藤原は主語回避を心がける。
受身の会話に徹すれば、どうにかなる筈だ。
「聞いたわよ〜。今度は万引き犯をしょっ引いたんですってね」
「ええ。見てしまったからには、放っておけませんから」
明っぽく振舞いながら、藤原は情報の広まる速さに驚いていた。
主婦の情報網は、光ファイバーよりも速い。
情報力に長けた秋原が、よく話す事だ。
「やっぱり若さよね〜。二十歳前後なんて、怖いものなしでしょ?」
「あはは……そうかも知れませんね」
明に限ってはそんな問題ではない気もするが、藤原は相槌を打つ。
彼女の方が三つも年上なのだし、自分も三年の間にあんな風になるかも知れない。
「私も昔はそうだったんだけどね……五年前が懐かしいわ」
「…………」
彼女のしみじみとした発言の後、数秒の沈黙。
「お、奥様って、そんなに若かったんですか!?」
藤原は驚きを口にするが、もちろんこれは芝居である。
普通なら、ここはツッコむところだろう。
だが、明の場合は特別だ。
真面目な彼女は、相手の言葉を常に真剣に受け止めてしまう。
だから、相談相手にはこの上ない適材だろうが、この手のボケにツッコむ事は出来ない。
明を演じるのなら、ここは堪えなければ。
「…………」
しかし、彼女はどうにも納得がいかない様子だった。
「……西口さん、本当は嘘だって気付いてるでしょ?」
「えっ!? い、いえ、その……」
図星を衝かれ、二の句が継げない藤原。
――もしかして、不味いか……?
藤原の頭を、一抹の不安が過ぎる。
自分が演じたのは、あくまで自分が知っている明だ。
それが全てだと思うのは、単なる自惚れに過ぎない。
実際、明が次々と犯罪者を倒している事など、今日まで知らなかった。
自分が知らない明は、もしかしたらツッコミが上手いのかも知れない。
紅茶好きに見えて、実は緑茶好きなのかも知れない。
だが、こんな風に何もかも疑ってかかれば、終いには人間か否かまで疑わなければならなくなる。
だから、最後には信じなければならないのだ。
「やっぱりそうなのね。西口さんに見破られるようじゃダメだわ。
あざと過ぎるネタも考え物だもの。もう少し妥協して……『十年前』の方が良いかしら。
それとも、逆の方向から攻めて『一万年と二千年前』の方がウケるのか……。
いやいや、ここは根本的な部分から変えて、『昔が懐かしいわ』『それって戦時中?』というのも……。
でも、これはもう一人誰かが居ないと成り立たないし……」
そんな藤原の考えとは裏腹に、彼女は別の事でいっぱいいっぱいの様だった。
どうやら、如何にボケるかを考えているらしい。
――俺の周りは、こんな人ばっかりか……。
改めて認識し、藤原は溜息を吐く。
「ところで西口さん。今ここに居るって事は……」
「……? あとは、牛肉を買うだけなんですけど……」
彼女に尋ねられ、藤原は少し怪訝な表情を浮かべた。
やはり、これからここで何かが起こるらしい。
「やっぱりそうなのね。思った通りだわ。
嗚呼、こんな若い娘までもを戦いに駆り立てるなんて……肉って怖いわ」
「はい?」
訳が解らず、藤原は首を傾げる。
彼女の言う『戦い』とは、一体何なのだろう。
自分は、牛肉を買いに来ただけなのに。
「…………!?」
その時、藤原の全身が鳥肌立った。
店内の冷房とは違う、とても嫌な寒気。
人のあらゆる負の感情が、この辺りを漂っている気がする。
辺りは殺気立っていて、ぴりぴりとした空気を感じた。
本能が、危険を告げている。早く逃げろと叫んでいる。
だが、殺気に中てられた藤原は、それすらもままならない。
「いよいよね。行くわよ、西口さん!」
「え!? ちょ、ちょっと……」
彼女に手を引かれ、藤原は半ば無理矢理連れて行かれる。
進めば進む程、悪寒が強くなっていった。
恐らく、元凶に近付いているのだろう。
主婦の群に突っ込んだ時、寒気が格段に強くなる。
寒さがピークに達したところで、手が離された。
そこで藤原が見たものは……。
「皆様、大変お待たせしました! 本日の目玉商品、牛ロースの大特価です!
間も無く解禁となりますので、線の内側でお待ち下さい!
この商品は、一人一パックのみの販売となります!
数は十分用意してありますので、どうか順番に、押さないで下さい!」
声を振り絞る店員。
それすら掻き消すほどの喧騒。
獲物を見つけた鷹の様な鋭い目線の数々。
まさに、戦いの最前線だった。
「さあ、ここからは個人行動よ。誰が勝っても恨みっこなし!」
「えっ……え?」
目まぐるしく変わる状況に、藤原は混乱していた。
何故、自分はこんなに危険な場所に居るのだろうか。
何故、スーパーでこんなに殺気を感じなければならないのだろうか。
何故、こんな時間まで牛肉の購入を待たされたのだろうか。
「秒読みに入ります! 十、九、八……」
ようやく理解が追い付き、藤原は全てを悟る。
解ってみれば、単純な事だった。
喧騒が水を打った様に止み、秒読みの声以外聞こえなくなる。
刹那の静寂の最中、藤原は思った。
――明さん……謀ったな。
長く続いた夢オチシリーズも幕を閉じ、いよいよ本編再開です。
本編五ヶ月も放っぽいて夢オチ書いてましたからね。異常としか言いようがないです。
そんな訳で、今回は割と藤原側メインになりました。
書き易さ等の関係で、今まではどうしても明側を多めに書いてしまっていたのですが。
やっぱり、外出しないと人間ダメですね(ぇ
その一方で、明はようやく本懐の妹teacherのレッスンです。
『姉の御下がりを着る妹』というシチュが大好きな自分の為だけに、夕にはメイド服になって頂きました。
さて、これからどうやって理由付けしましょうかね……適当になんか御託を並べればいっか(ぁ