明なら働いてみよ光なら学んでみよ その六
美術室から出て来た明は、未だにショックが拭えない様だった。
視点が定まらず、意識はどこか別の世界を漂っている様に見える。
そんな明が物や人にぶつからない様に気を遣いながら、秋原は隣を歩いていた。
「寺町先生は、女よりも女らしい漢として有名でな。
その美貌、立ち振る舞い、全てに於いて校内ではトップクラスなのだ。
この高校を見学した際に彼に魅せられ、ここを志望する中坊も少なくない。
そんな連中は総じて辛酸を嘗め、とんでもない性癖に目覚める者も稀に居る。
……全く、罪深い『女』だ。ちなみに、俺は胸の形状で容易に見破る事が出来た」
秋原の説明も、今の明には満足に届いていなかった。
男性でさえ、あれ程見事に女性として輝く事が出来るのに、自分はどうだろう。
女性として生を授かりながら、彼にも及ばないなんて。
これでは、師匠の領域に至るなど、夢のまた夢である。
自分があらゆる意味で未熟である事は承知しているつもりだったが、改めて痛感させられた気分である。
「……気に病む事は無いぞ、『藤原』。俺は、絵師として人体を熟知しているからな。
パッドで膨らませた胸など、判別出来ねば沽券に関わるのだ」
秋原が慰めの言葉を掛けるが、今の明は聞く気分にすらなれない。
項垂れたまま何かを延々と呟き、力無く歩いていた。
秋原は少し考え、呟く様に言う。
「喜ぶが良い。五限目は英語。……夕先生の授業だ」
「ほ、本当ですか!?」
その瞬間、明の表情がパッと明るくなった。
この高校の教師陣に押されて忘れかけていたが、本来の目的は、夕が教壇に立つ姿を見る事である。
もうすぐ、夕の姿を見る事が出来る。
そう思うだけで、胸の奥が温かい何かで一杯になった。
さっきまで何か思い悩んでいた気がするが、もう気にならない。
愛しい妹の事を考えるのに、悩みなど邪魔なだけである。
「もう昼食の時間ですよね? 早く行きましょう、秋原さん♪」
「う、うむ……」
たった一言で、危険な程に立ち直ってしまった明に、流石の秋原も少し驚いていた。
その時、秋原のポケットから、携帯電話の着信音が鳴る。
秋原は明に頭を下げてから、電話を手に取った。
「俺だ。――そうか。……して、今は? ――判った。報告ご苦労」
簡単に話を済ませ、秋原は電話を切る。
その表情は、動揺こそしていないものの、難しいものだった。
明も、自ずと緊張が芽生えてくる。
「堀が、四限目の体育で足を痛めたそうだ。先に保健室に向かいたいのだが、構わんか?」
秋原の問いに、明は即座に頷いた。
保健室を前にして、秋原は立ち止まった。
進もうとする明を片手で制し、その場に留ま る。
「……行かないんですか?」
そんな秋原に、明は怪訝な表情を浮かべた。
「明さんに、覚悟を決めて貰おうと思ってな」
「覚悟……ですか?」
秋原の台詞に、明は更に首を傾げる。
保健室に行くのに、どうして覚悟が要るのだろうか。
それ以前に、怪我を治す場所に覚悟が要るのは問題ではないのか。
まさか、梅田の様な、症状を悪化させかねないドジッ娘が居るのだろうか。
自分だけで考えても仕方無いので、秋原に詳細を問う。
「この保健室に居られるのは、明草高校の女帝、今宮。
『保健室には妖艶な保健婦が居る』という王道を貫いておられる御方だ。
現美研が独自に行うアンケートでも、『ボンテージが似合いそうな女性』第一位、
『鞭を振るって欲しい女性』第一位、『罵られてみたい女性』第一位、
『女王様と呼んでみたい女性』第一位、『海でブラジル水着を着ていそうな女性』第一位、
『そもそも存在自体がエロい女性』第一位、『こんな姉が欲しかった・教師の部』第一位などといった具合に、
どこぞの化粧品の様に、数多の誉れ高き実績を誇っておられる」
「は、はあ……」
秋原の長い説明に、明は尚更疑問を抱いた。
ボンテージやブラジル水着など、良く解らない単語が在った事が一つ。
とにかく凄い女性みたいなのだから、不安がる必要は無いと思うのが一つである。
普通の人なら、この時点で色々な事に気付くだろう。
だが、この手の知識に疎い明は、
ライトノベルでは書けないくらいに詳しく、且つ解り易く説明しなければ解らない。
その事に気付いた秋原は、初心な明に萌えつつも、この場での詳しい説明は諦める事にした。
「要は、寺町先生を天使と喩えるなら、今宮先生は悪魔だという事だ。
興味を持った相手を魅了し、自分の欲望が満たされるまで弄ぶ、恐怖の悪魔。
故に、二つ名は『悦楽のサキュバス』。
『偽りのセラピム』である寺町先生と共に、男心をくすぐって止まぬ存在だ。
そんな彼女が、堀とは言え、男と同じ部屋に居るという事は……。
この扉の向こうに如何様な光景が広がっていても、後悔せぬか?」
代わりに、要点だけを纏めて明に問う。
保健室に何をしに来たのか判らなくなりそうな質問だ。
が、明が答える前に、保健室の中 から聞こえてきた。
透かさず、秋原はドアの前で聞き耳を立てる。
釣られて、明も隣で同 じ様にした。
「せ、先生、こんなのダメですよ……」
「あら、もう怖気付いてるの? 若い割に根性が無いわね」
聞こえてくるのは、少し怯えている堀と、どこか艶めかしい女性の声だ。
「ほら、この辺りなら……」
「ああっ!? ぼ、冒険し過ぎですよ先生……」
「……よし、次は堀君ね」
「も……もう、立っているのが不思議なくらいですよ」
「ふふ……私はまだまだ物足りないわ」
明には、二人して何をしているのか判らない。
だが、眼前の秋原が明らかに興奮している事だけは、容易に判った。
「……お、意外と大胆ね」
「僕も、一応男ですから」
「素敵よ、その心意気。お姉さん、ちょっと興奮してきたわ」
「や、やっとですか? 僕なんて、もうドキドキしっぱなしでて……」
次第に余裕を無くしていく声と、それに比例する様に高ぶっていく声。
秋原の身体が、何かを押し殺す様に小刻みに震えていた。
「せ、先生!そこは……!」
「そこは……何?」
「さ、触るだけでどうにかなってしまいますよ。だから……」
「……えいっ」
「あっ……ああああぁぁっ!?」
二人のやり取りを聞いていた秋原が、急に立ち上がった。
「明さんには、ここで待っていて貰いたい。この先の扉に、どの様な光景が広がっているか判らんからな」
紳士的に振る舞う秋原。
だが、何かに対してうずうずしているのは明らかだった。
明は怪訝な表情を浮かべ、
「しかし、秋原さんは……?」
秋原に問う。
秋原はあくまでも冷静に、
「俺は何を見ようが構わん。というより見たい」
且つ、溢れ出す情熱を抑えられないまま答えた。
そして、ノックもせず秋原はドアを開ける。
放っておけず、明も秋原の後ろから保健室を覗き込んだ。
そこに広がっていたのは、大体どこも構造は変わらないであろう保健室。
入ってすぐの場所にあったのは、足の短い机。
それを挟んで向かい合う様に置かれた二つのソファには、
「先輩! わざわざ来て下さったんですか!?」
歓喜の声を上げる堀と、
「あら、この子のお見舞いかしら?それとも、あっちの相談?」
妖艶な声と表情で迎える女性が、向かい合って座っていた。
机の上には、塔の様に積まれた木の板。
崩さない様に下から抜き取り、上に積み上げるゲームと思われる。
かなり危険な積まれ方で、今にも自壊してしまいそうだ。
沈黙する秋原の顔を、明が覗き込む。
当て所の無い、形容し難い感情に充ち満ちた表情だった。
「足は大丈夫か、堀?」
そんな秋原の代わりに、明が堀に尋ねる。
藤原と同じ口調にしようとして、少しわざとらしい言い方になってしまった。
堀は気付く事も無く、笑って答える。
「はい、ちょっと挫いてしまっただけなので。今宮先生がちゃんと手当てして下さいましたし。
それで、成り行き上ゲームの相手をする事になったんです。
先生のプレイングが大胆なので、僕はドキドキしっぱなしですよ」
その時、今宮がニヤリと笑った事に、堀は気付かなかった。
今宮は、人差し指でそっと自壊寸前の塔に触れる。
白衣に勝るとも劣らない白さの指で触れられた塔は、呆気無く崩壊した。
音を立てて崩れる塔に気付くも、堀に打つ手など無い。
只々、呆然と眺めるだけだった。
「ふふ……貴方の番に崩れたから、私の勝ちよ」
明にも劣らない大きさを誇る双丘の前で腕を組み、今宮は言い放った。
「そ、そんな……」
堀は、ショックで何も言えない様だ。
「じゃ、二千円で良いわ。頂戴」
「か、賭け事なんて聞いてないですよ!?」
催促の手を出す今宮に、堀は心底驚く。
「当然じゃない。男と女の真剣勝負なんだから」
言葉通り当然の様に、今宮は述べた。
お金を取る理由を説明していない気がするが、現状では誰も突っ込まない。
「ぼ、僕、そんなに持ってませんよ」
「あら……そうなの」
戸惑う声で拒む堀に、今宮は胸を強調しながら迫る。
「だったら、足りない分は補って貰わないと。貴方のカ・ラ・ダ・で♪」
「ひ、ひいッ!?」
微塵の冗談も感じられない表情で背中に腕を回す今宮に、堀は今にも泣き出しそうな表情になった。
逃げる事さえ儘ならず、堀の小柄な身体は今宮に絡まれていく。
目尻に涙を蓄えて、堀は秋原と明の方を見つめた。
伝えたい事は、一つしかないだろう。
「……行くぞ、藤原」
「えっ、は、はい……」
だが、秋原は何事も無かったかの様に、明を連れて去った。
どうやら、堀は八つ当たりの対象になってしまったらしい。
「せ、先輩!?」
「もう……あんなに興奮させたんだから、最後までしなさいよ」
「興奮の意味が違いますよ!」
「欲望に意味や理由なんて無いのよ、坊や」
「ひゃ!? や、止めっ……うわあああああぁぁぁッ!?」
そんな痴話を背中で聞きながら、秋原達は保健室を後にした。
明は、今も本当に帰って良いのか迷っている。
藤原宅のキッチン。
藤原は、昼食の為に野菜を切っていた。
今日のメニューは野菜炒め。
明が作り方を一通りメモしてくれたので、恐らく失敗はしないだろう。
メモを読んでいる最中、『千切り』という言葉が目に留まる。
先日、アリス達のクラスで調理実習があった時の事を思いだしてしまった。
アリスが千切りを千回切る事と勘違いしたりして、現場は大騒動だったらしい。
そんな話を聞いたので、藤原は授業が終わると同時に逃亡した。
案の定、アリスは自分を捜し回っていたらしい。
最早兵器と化してしまった『食物だった何か』を片手に。
幸い、秋原と真琴がそれを完食したので、大事は免れた。
居合わせた人曰く、二人は『幸せそうな笑顔で、悶えながら天に召された』らしい。
『らしい』が三回も付いたが、全て伝聞なので仕方が無い。
「……そう言えば、明さんは知らないんだよな、この話」
緑黄色野菜を切りながら、藤原は呟いた。
思えば、自分は明とそれ程積極的に会話をしない。
学校で起きた由無し事も、特に話したりはしない。
同じ屋根の下に住んでいるのに。
自分ではそんなつもりは無いのだが、まだ彼女との間に隔たりが在るのかも知れない。
元はと言えば、彼女とは両親の都合で知り合う事になったのだ。
赤の他人である彼女と普通に生活しているだけでも、充分凄い事だと思う。
しかも、今では彼女の妹までも入り浸っているのだ。
所詮、自分は雇った側であり、彼女は雇われた側。
無理に仲良くなる必要など無い筈だ。
もちろん、好き勝手の限りを尽くす両親の僅かな憐憫を否定する訳ではない。
家事を一手に背負う事の大変さは、今日で充分解った。
『おはよう』と言う相手が居て、『いってきます』と言う相手が居て、『ただいま』と言う相手が居て、『おやすみ』と言う相手が居る。
彼女が来る前に、そんな日がどれ程あっただろうか。
だから、彼女は掛け替えの無い存在である。
要は、馴れ馴れしくし過ぎなければ良いのだ。
ちゃんと話すべき事を話して、お互いにお互いを知り合って、尚且つプライバシーに土足で踏み込まない様にする。
とても近くて、でも決してくっついてはいない。
そんな距離を保てばいい。
「って、これじゃあ『赤の他人』の関係じゃないよな……」
そこまで考えて、藤原は苦笑した。
結局、明や夕は、もう『赤の他人』などという関係ではないのだ。
そして、雇う側と雇われる側の関係でもない。
自分にとって、彼女達は……。
読者数が三千を超えたら何か書こうと思っていたのですが、いつの間にか四千を超えていました(汗
最近は、本格的に受験生っぽい生活になりましたね。
模試を受けたり、塾に行ったり、志望校について調べたり……。
かと言って、大して真面目に勉強していなかったりしますが。
そんな不真面目な私の作品を、かなりの方々が見て下さっているというのは感謝の極みです。
アクセスランキングに載った時に、どれだけはしゃいだことか(ぇ
無謀にも新連載を始めたりもしていますが、こっちもまだまだ弾けていきますので、よろしくお願い致します。
実は、明草高校教師陣の名前には、ある共通点があります。
せめて、大阪府在住の方は、楽勝で判って欲しいですね。