明なら働いてみよ光なら学んでみよ その五
午前中の仕事である掃除も終わり、藤原はベッドに身を預けた。
明の優しい香りを嗅ぎながら悶々……などという趣味は無いので、ここは藤原の自室である。
家中の掃除となると、流石に草臥れてしまった。
自室の片付けだけで済ませる普段とは訳が違う。
藤原は大きく息を吐き、そのまま昼前の一時に流されていった。
ボーっとしている頭で、色々な事を考える。
――ちゃんと、元に戻れるのか……?
一日なら、入れ替わっての生活も新鮮に思えるが、それ以降はそうも言ってられないだろう。
こうなった原因は解らないし、元に戻る方法も、もちろん解らない。
アリスなら、もしかして何か知っていたりするのだろうか。
明が帰ってきたら、訊いてみるのも手段の一つかも知れない。
――明さん、いつもこんな事してるのかな……。
朝、明に『他人の物を勝手に動かさないように』と教えられた。
つまり、彼女もそうしているのだろう。
掃除の際も、他人の物を動かさない様に苦心しているのだろう。
確かに、自分が何度か部屋を散らかしたままにしていた時も、明はそれらを動かさなかった。
他人に勝手に部屋を弄られると困る、という事を配慮しての事だろう。
そして、二つの膨らみに手を乗せて、思う。
――やっぱり邪魔だよな、これ……。
三限目も終わり、明と秋原は美術室に来ていた。
四限目の授業、美術が始まるまで、あと数分。
「……藤原」
「…………? ……あ、ああ、どうした秋原?」
数秒経ってから自分である事に気付き、明は慌てて応えた。
辿々しい誤魔化し方に、秋原は小さく笑う。
案の定明は頬を染め、飽きる事無く秋原は脳内変換に挑んだ。
『百%突破!』と秋原が叫び、室内の生徒の視線が、数秒の間集中する。
「ふっ……これでは今日一日が限界だな」
「す、すみません……」
明は、言葉通り済まなさそうに言った。
明だけでなく秋原も限界の様な気もするが、明はそんな事を考えない。
「いつ元に戻るのか判らないのであろう? 言動には注意するべきだ」
「そう……ですね」
秋原の指摘に、明は素直に頷いた。
お前こそ注意するべきだろう……と、藤原ならツッコんだかも知れない。
だが、明の脳内は、不安で一杯だった。
このままでいれば、暫くは夕を見守る事が出来る。
彼女の職場に、平然と居座る事が出来る。
妹が気になって仕方無い姉にとって、これ程魅力的な事があるだろうか。
しかし、この姿では出来ない事も、決して少なくはない。
夕に、『姉さん』と呼んで貰えなくなる。『姉』として頼って貰えなくなる。
師匠に合わせる顔が無くなってしまう。メイドとして働けなくなる。
詰る所、今までに築いてきた『西口明』を、全て放棄しなければならなくなるのだ。
それだけは、絶対に出来ない。
裏切って、傷付けて、それでも我を通して、ようやく今の自分が在るのだ。
そんな自分を、他の誰かに譲る訳にはいかない。
そう考えているうちに、始業のチャイムが鳴る。
その教師が美術室に入った途端、明は室内の空気が一変した気がした。
入ってきたのは、本来の自分よりも少し背が高い女性。
引き締まっている身体から、日々の努力が窺える。
年齢は二十代後半と思われ、服装と共に落ち着いた雰囲気を放っていた。
絹の様に白くてきめ細やかな肌。
宝石をそのまま埋め込んだかの様に澄んだ瞳。
極めつけは、神経が通っているとしか思えない程にしなやかに揺れる長髪だ。
「では、授業を始めます」
そんな彼女の奏でる声は、暖かな優しさに満ちていた。
その瞬間、明は、自分の全てが彼女に魅了されている事を自覚する。
魅力的な女性は、同姓をも虜にしてしまうという事なのだろうか。
「今日は、誰かとペアを組んで、お互いの絵を描きましょう」
魅了される余り、彼女の『声』を『言葉』として認識するのに、かなり時間が掛かってしまった。
「……あの、秋原さん?」
ペアを組んだ秋原に、明は怪訝な表情で尋ねた。
「十分で終わるから、辛抱して頂きたい」
だが、秋原はあくまでもこのままで始めるつもりの様だ。
他の生徒が、何か言いたそうな表情で二人をチラチラと見ている。
『考える人』のポーズのまま、明は赤面してそれらの視線に晒されていた。
一方秋原は、特に気にする事無く鉛筆を走らせていく。
明と画用紙を交互に見ながら、早送りで見ているかの様な速度で動く右手。
それを見てようやく、明は生徒達の視線が集まるもう一つの理由に気付いた。
「……よし、終わった。ご苦労だったな」
秋原がそう言ったのは、丁度十分後だった。
彼の作品を見て、明は言葉を失う。
自分の姿勢はもちろん、視線に晒されて困っている表情も、忠実に描かれていたのだ。
それだけでなく、遠巻きに二人をチラチラと見ていた生徒達の微妙な表情も、美術室そのものも、完璧に再現している。
秋原が描いていたのは、『藤原』ではない。
『美術室で考える人のポーズをさせられ、生徒達の視線に晒されて困っている藤原』だったのだ。
周囲の環境に刺激されて刻々と変化する人を、見事に画用紙に閉じ込めている。
背景を克明に描かなければ、これ程にはならなかっただろう。
他の生徒達も秋原の絵を見に集まり、各々が感嘆の声を漏らした。
騒ぎを聞き、教師も集団の一部になる。
「十分でこれ程の絵が描けるなんて……流石ね、秋原君。出藍の誉れとはよく言ったものだわ」
そして、惜しみ無い賞賛の言葉を浴びせた。
「この程度でそれ程の言葉を貰っては、兄者に申し訳無い。
俺が兄者を超える事があるとすれば……否、兄者が生きておられる限り、不可能であろうな。
兎が眠らねば、鈍い亀に勝ち目は無いであろう」
当の秋原は、とても謙虚である。
普段の言動からは、到底考えられない光景だった。
早くも秋原が描き終わったので、次は明が描く番である。
「ふっ……お望みとあらば何枚でも脱ごう」
モデルの秋原は、かなりやる気の様だ。
片足だけを椅子に乗せ、波止場で格好付けている人のポーズをしている。
明は秋原の言葉に応える事無く、絵を描き始めた。
数年振りに見る真っ白な画用紙に、学生時代が蘇る。
遅くまで残って絵を描いた事。
誰でも好きな人を描けと言われた途端、生徒全員が自分に詰め寄って来た事。
白い絵の具を使う度に、何故か男子生徒がそわそわした事。
どれもが、今では思い出の一つである。
「ところで、秋原さん……」
「うむ。説明せねばなるまいな」
明が皆まで言う前に、秋原は難しい表情になった。
先程生物学室に降臨した『アレ』を、気にしない訳にはいかない。
「梅田先生はドジっ娘で泣き虫だが、小さい身体で精一杯授業をしている姿が、微笑ましくて人気なのだ。
真琴嬢は『オーバー百五十は邪道っス』とコメントしているがな」
そこまで言って、秋原は少し躊躇う。
ポーズを崩す事は無かったが。
「……彼女はスプラッタな話に弱くてな。実験も、他の生物教師に言われなければなかなかやらぬ。
そして、スプラッタケージが一定まで溜まると、気を失うのだ。そして……奴が降臨する。
奴に関しては、俺もよく解らぬ。生物を愛する心が神を呼ぶのか、前世が番長サミットの創始者なのか……。
そんな訳で、今では明草高校七不思議の一つなのだ。
まあ、慣れてしまえば、あのギャップもなかなか萌えるのだが」
「そう……ですか……」
藤原は、普段からこういう教師陣を相手にしているのだろうか。
幼馴染に魔法使いが居る事を考えれば、大した事無いのかも知れないが。
そういう意味では、藤原も『普通の人』ではないのかも知れない。
「……絵、御上手なんですね」
彼女については余り触れてはいけない気がしたので、話題を変える事にする。
案の定、今度は秋原も話し易い話題の様だ。
現に、梅田先生の話の時よりも表情が崩れている。
「ふっ……常に絵師としての成長を続ける兄者を手伝うには、まだまだ足りぬ。
兄者が同人誌を書く際に背景を請け負っているのだが、側に居れば否応無しに判る。
俺と兄者の力の差が……な。特に人物画では雲泥の差だ。
ストーリーを受け持つ棗はともかく、俺は精進を怠る訳にはいかぬ。
兄者の描くキャラに俺の背景が追い付かなくなれば、何もかも台無しだからな」
秋原の言葉から、『兄者』への尊敬の念や絵への思いが窺える。
方向こそ違うものの、明にも敬愛する人が居るので、共感するには十分だった。
彼をこれ程までに心服させる『兄者』とは、果たしてどの様な人なのだろうか。
自分がそうされた様に、彼も人生観を変えられたのだろうか。
取り敢えず明に言えたのは、
「その思いを忘れなければ、きっと追い付けますよ」
半分は自分に言い聞かせる為の言葉だった。
「……あら」
生徒達を見回っていた女教師が、明の絵を見て立ち止まった。
そして、明の側で絵を覗き込む。
彼女の髪から甘い香りが漂い、明の鼻を抜けた。
明の体に緊張が走ったのは、それと同時だ。
「藤原君、画風変えたの? ずいぶん絵の雰囲気が変わったけど……」
その一言で、明は恍惚から覚める。
――……不覚。
例え身体が入れ替わっていても、どんなに藤原らしく振る舞っても、こういう事は誤魔化せない。
秋原も、かなり険しい表情をしている。
――何とかしなければ。
「……ぶ、不器用ですから」
一杯一杯の明から放たれた言葉は、文脈を完全に無視していた。
流石の秋原も、動揺を拭えない様だ。
一番驚いているのは、
――わ、私は一体何を!?
明本人だが。
幸い、女教師は特に気にしていない様だ。
もっとも、画風が変わっただけで人格が入れ替わっている事を見抜ける人など、まず居ないだろうが。
「これはこれで、味があって良いわね。でも……」
その言葉と同時に、明の右手が女教師の右手に包まれる。
自然と身体も密着し、明は心臓が跳ね上がった。
「ほら、力抜いて。ここをこうして……」
明の手を意のままに動かして、女教師は絵を加筆していく。
彼女の吐息が間近で感じられ、明は平静を保つのがやっとだ。
こんなにドキドキしてしまうのは、自分が男性の身体だからなのだろうか。
少なくとも言えるのは、自分は間違いなく彼女に心酔しているという事だ。
まだまだ未熟者である本来の自分も、数年後には彼女の様になっているのだろうか。
若い頃の師匠も、こんな風に魅力的な女性だったのだろうか。
そんな事を考えながら、明は女教師に全てを委ねている。
女として、理想的な女性である彼女を、少しでも間近で感じていたいから。
この心地良いときめきに、もう少し浸っていたいから。
その時、校内放送が室内に響く。
「美術科のてらまちたいが先生。美術科のてらまちたいが先生。お電話が入っております」
「……あら、ごめんなさいね、藤原君。私、ちょっと行かなくちゃ」
放送を聞いて、女教師は身体を離し、 職員室へ向かった。
明は、彼女の残り香を嗅覚へと迎え入れながら、呟く。
「……たいが?」
「寺町虎牙。虎の牙と書いて『たいが』と読む」
そんな明に、秋原が答える。
ポーズは相変わらずだが、そろそろ身体の各所が震え始めていた。
「虎牙……ですか。女性の割には、変わった名前ですね」
秋原の言葉に、明は素直な感想を言う。
まるで、特撮のヒーローか何かの名前である。
あんなに美しい女性なのに、親はどんな意向で名付けたのだろうか。
だが、そんな明を見て、秋原は含み笑いを浮かべた。
そして、それはすぐに声を上げての笑いに変わる。
明は意味が解らず、怪訝な表情を浮かべるだけだ。
秋原はポーズを保ったまま、明に告げる。
「いつ、誰が、 彼を女だと申した?」
数秒の間、明はその言葉を咀嚼する。
数秒の間、だけだった。
「ええええええええええぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!!?」
世界中の雨男・雨女が日本に集えば、少しは涼しくなるのでしょうかね……。