明なら働いてみよ光なら学んでみよ その三
選択物を干し終え、藤原は家を掃除していた。
まずは、全ての部屋に叩きを掛けていく。
掃除機では届かない場所に在る埃が宙を舞い、床へゆっくりと下降していった。
そして、最初に叩きを掛けた部屋から順に、掃除機を掛けていく。
どの部屋も普段の掃除が丁寧なのだろう、目立った汚れはどこにも無い。
生活を営む以上避けられない埃を、掃除機で吸い込んでいく。
リビング等の共同の部屋を終え、次は私室に向かった。
まずは明の部屋。
着替えにも使った部屋だが、改めて彼女の気品が窺える。
全ての物が在るべき場所に収まっていて、一つの無駄も無かった。
本棚を見ると、料理関係の本の群が、真っ先に目に映る。
主婦なら一冊は持っていそうなレシピ本から、難しそうな栄養学の専門書まで。
和洋中問わず、何でも揃っていた。
仕事だからなのか趣味だからなのかは定かではないが、恐らく両方なのだろう。
その他の本も、家庭的な女性を思わせる物ばかりだ。
だからこそ、
「……何故?」
何冊か在った車関係の雑誌や漫画は、不思議な存在感を放っていた。
体育も無事に終わり、明と秋原は教室に戻っていた。
クラスの男子達は、鶴橋の焼肉話に付き合わされた所為で、すっかり覇気を無くしている。
秋原はそれを横目で見て、
「奴は三度の飯より焼肉が好きなのだが、同時に相当の奉行でな。
数多の宴をぶち壊しにし、今では教師陣の間で『破壊神』と恐れられているのだ」
明に簡単に説明した。
「拘りが有るのは良い事だと思いますけど……流石に考え物ですね」
明は、苦笑しながら言う。
自分も、紅茶に関しては拘りが有るが、それを人に向ける程ではない。
そういう意味では、彼は人生を存分に楽しんでいるのだろう。
「さて、次は天王寺の日本史だな……」
呟きながら、秋原は席を立つ。
クラスメートが全員教室に居るのを確認すると、
「これより、恒例の賭博会を行う!」
教室中に聞こえる声で叫んだ。
同時に、体育で萎えていた男子達や、談笑していた女子達も反応する。
そして、一斉に秋原の席に詰め寄り、行列になった。
行列とはいっても、それはかなり無秩序で、人だかりと呼んでも差し支えは無い。
「『教卓で溜め息』に二百円!」
「『黄昏気味に窓の外を眺める』に百円!」
「『鼻歌交じりに入って来る』に百円!」
「『黒板にでっかく“I love Sakura”』に三百円!」
「『そもそも教室に来ない』に五百円!」
「『突然泣き出す』に四百円!」
「『その他』に千円!」
次から次へと押しかける客を、秋原は的確に捌いていった。
明は、訳が解らないといった表情で、只々その様子を眺めているだけだ。
こうして、休み時間が終わる。
始業のチャイムが鳴り、天王寺と呼ばれる教師が入ってきた。
三十代と思われる男性で、どこにでも居そうな優男の印象を受ける。
彼は、至って普通に教壇に立った。
だが、その直後に大きな溜め息を吐く。
力が抜けていく様に姿勢を低くし、教卓にへばり付いた。
その様子を見て、何人かの生徒が密かにガッツポーズをする。
残りの生徒は、それぞれ無念を露にした。
「先生、また奥さんと喧嘩したんですか?」
教卓付近の生徒が尋ねるが、暫く反応が無い。
数秒後、
「……そうだよ……」
彼は細々とした声で答えた。
更に数秒後、彼はようやく立ち上がった。
「そりゃさ、僕にも非が有るのは認めるよ。けど、正が産まれてからというもの、
正がどうとか正がこうとか正がそうとか……誰の妻なんだよ。
はぁ……僕も正が嫌いな訳じゃないけど、桜の半分以上を奪われた事は恨むよ」
そう言って、天王寺は項垂れる。
子供が出来たばかりの愛妻家ならではの悩みの様だ。
天王寺の呟きはまだまだ続く。
「二人で出掛ける事も出来ないし、夜泣きもしょっちゅうだし、
何よりも桜を付きっ切りにさせているのがなぁ……。お陰で僕なんて全然相手してくれないよ。
子供を産んだばかりの女性は、乳が張っていて一番綺麗な時期なのに……」
天王寺の言葉の意味に気付き、男子は多かれ少なかれ共感の意を示し、女子は一人残らずドン引きした。
「な、何で引くんだよ!? 夫として、妻に美しく在って欲しいと願うのは普通だろ!?
裸婦の美しさは、外国の絵画では昔から認められていたんだ!
日本は少し遅れたけど、今ではDVDでもPCでも当たり前に裸婦を見られるじゃないか!」
天王寺は驚きながら問いかけるが、女子達は聞く耳を持たなかった。
寧ろ、逆効果と言っても言い過ぎではない。
こうして、彼はクラスの半数に敵視されながら授業をする事になる。
明と自分の部屋の掃除を終え、残るは夕の部屋のみである。
言い方を変えれば、まだ夕の部屋が残っているのだが。
部屋のドアの前で、藤原は息を呑む。
覚悟を決め、藤原はドアを開けた。
「…………うわぁ」
夕の『置き土産』をまざまざと目の当たりにし、藤原はドアを閉めた。
そのままドアに背を委ね、ズルズルと腰を下ろす。
――このドアの向こうは、違う惑星が広がっている。
果たして、どこをどう掃除すれば良いのだろう。
そんな不安を抱きつつも、藤原は再び――恐る恐る――ドアを開けた。
まず目に映るのは、机の上に山の様に積まれた本。
最早『机』としての機能は、殆ど失われているだろう。
それだけでは収まらず、本は床にまで浸食している。
資料なのか書類なのかは定かではないが、文字で埋まった紙も床に散乱していた。
絨毯の様にそれらが敷き詰められていて、足の踏み場などという次元の問題ではない。
週の半分しか使わない部屋を、どうしたらこんな風に出来るのか。
以前、この事で夕を咎めた事もあったが、
「ユークリッド幾何学の本がここで、位相幾何学の本がここ。
今書いてる論文の資料がここで、教育学の本はこことそことあの辺り。
……あ、そうだ。今、日本文学に嵌っててさ……あったあった。
夏目漱石、志賀直哉、中島敦、安部公房に司馬遼太郎の全集!
面白かったから、どれも一晩で読んじゃったよ。光もどう?」
全ての本や資料の所在を把握しているから、尚更質が悪い。
彼女は『散らかしている』のではなく、あくまで『置いている』のだ。
ここですらこれなのだから、本拠地は果たしてどうなっているのだろうか。
藤原は色々と考えた結果、
「……姉さんに注意して貰うか……」
ここは放って置く事にした。
秋原が配当を配り終えると、明は彼と共に生物学教室へ向かう。
廊下の生徒が目に付く度に、アリスや真琴が居ないかと冷や冷やしてしまう。
「……あの、秋原さん……」
そんな自分を誤魔化す為に、明は秋原に声を掛ける。
明が皆まで言う前に、秋原は解説を始めた。
「彼は、校内でも愛妻家として知られていてな。校内随一の公私混同野郎なのだ。
妻と仲が良い時は、これ見よがしに夫婦仲を自慢し、授業にならん。
妻と仲が悪い時は、奥底に沈み切って精気を失い、授業にならん。
現美研は、その行動パターンを把握し、我が部独占の賭博にした訳だ。
収益金は、我々がコミケ等の遠征へ新幹線で赴く為の資金になる。
夜行バスなら金額は気にならないが、乗り心地が最悪なのでな……」
そこまで言って、秋原は溜め息を吐く。
恐らく、夜行バスに乗った時の事でも思い出していたのだろう。
すぐにそれを振り払い、更に秋原は続ける。
「彼は三年程前に、現美研の暗躍もあって結婚に辿り着いたのだ。
ちなみに、当時の現美研は、兄者が初代部長を務めていた。
あの方の器の大きさは、二代目部長である俺など、足元にも及ばぬ。
話を戻して……兄者に桜さんの写真を見せて貰ったが、天王寺程度の小物には不釣合いの美人だったな。
まあ、何人も、努力次第で身の程以上の結果を掴めるという好例だ。
だが、二人の愛の結晶である正が産まれてからというもの、奴の嫉妬は止まるところを知らぬ。
酷い時は、正と一緒に授乳させて貰おうとしたらしい。折角兄者達が仲を取り持ってくれたと言うに……」
そう言って、再び秋原は溜め息を吐いた。
今度は天王寺の為の物なのか、それとも『兄者』の為の物なのか。
きっと、両方なのだろう。
「私は何となく解りますよ、天王寺さんの気持ち」
唐突に、明が天王寺に同意を示す。
「ほう、明さんも子持ちだったのか」
「…………?」
秋原の返事に、明は怪訝な表情を浮かべた。
だが、すぐにその言葉の意味を理解し、明は真っ赤になる。
「ち、違います! そういう意味ではありません!」
明は必死に否定するが、
「もう少しだ……もう少しで脳内変換率が百%に……」
当の秋原は、全く違う事に集中していた。
何を何に脳内変換するのかは、彼のみが知る事である。
明は溜め息を吐き、さっさと続きを話す事にする。
「私の場合、疎ましく思ったのは……夕です。幼い頃の事ですので克明に覚えている訳ではないのですが……。
兄弟姉妹が居ると、どうしても色々と取り合ったり分け合ったりしなければなりません。
その上、大人は幼い方を大事にしてしまいますから、物質的にも、精神的にも彼女の配分の方が多かったんです。
勿論、憎悪の目だけで彼女を見ていた訳ではありません。ですが、愛情の目だけで彼女を見ていた訳ではありません」
「ふむ。俺は一人っ子である故、その辺りはよく解らんのだが……やはりそう思うものか」
明の話に、秋原は腕組みをして頷いた。
明は小さく微笑み、
「とは言いましても、それは彼女が私を慕う様になる前の話です。ほんの数年の話です。
……ですから、天王寺さんも、何れは息子さんを愛でる様になりますよ。
嫉妬心は、奥様への愛故に芽生える感情ですし、奥様が息子さんを愛でるのも、天王寺さんへの想いの延長だと思います」
まるで秋原を慰めているかの様に述べる。
「要は、暫し見守れという事か……。まあ、夫婦喧嘩は、如何に我々と言えど喰えそうにないしな」
秋原は腕を組んだまま、溜め息混じりに言った。
これからも波乱が予想される日本史を憂いての事なのか、『兄者』への面目が立たない事を恐れての事なのか。
明は、笑みを絶やさぬまま同意する。
平日に更新した方が新着扱いされる期間が長いのではないか、と生々しい事を考えてみる。
読者層拡大への試みですよ、ポジティブに言えば。