明なら働いてみよ光なら学んでみよ その二
「とうとう着替えてしまった……」
誰にでもなく呟きながら、藤原はその場に座り込んだ。
場所は明の部屋。
すぐ側には、脱いで間もない明の寝巻。
そして、今身に纏っているのは、普段明が着ているメイド服である。
黒いロングドレスに、白いエプロン。ヘッドドレスも完璧だ。
男性の服とは勝手が違うので、色々と苦労した。
他の如何なる感情よりも、背徳感が藤原の脳内を巡る。
まるで、初めて女装する男性の様な気分だ。……実際、殆どその通りなのだが。
「さて……」
いつまでも着替えで止まっていられないので、藤原は立ち上がる。
少し重たい胸が、動きに合わせて揺れた。今日一日は、これが邪魔になりそうだ。
大きく息を吐くと、部屋からも服からも、明の優しい匂いがした。
普通の男性なら、既に心臓が壊れそうな程に高鳴っているのかも知れない。
だが、藤原はそうではなかった。
今は、これが自分の身体だからなのかも知れないし、まだ現状に戸惑っているからなのかも知れない。
しかし、一番大きな比重を占める理由は、恐らく……。
そう思うと、藤原は自嘲気味に溜め息を吐いた。
雑念を取り払うと、藤原はキッチンに向かう。
アリスと別れて、明は藤原のクラスへ向かう。
最終学歴は高卒だから、学校を間近で感じるのは二年ぶりだ。
学生時代は、本当に楽しかった。無論、今の生活も、負けず劣らず楽しいが。
見る物全てが新しくて、希望だけが人生を照らしている気がして、そして……。
――いけませんね、朝からぼんやりしていては……。
思わず郷愁に浸りそうになり、明は自分の頬を軽く叩いた。
そして、藤原のクラスのドアを開ける。
教室の生徒に挨拶をしながら、明は自分の席を探す。
藤原曰く、秋原の後ろの席。
秋原が既に居たので、見付けるのは容易だった。
「おはよう、秋原」
出来る限り藤原らしく振舞いながら、明は秋原に声を掛ける。
「ふむ……『俺がお前でお前が俺で』状態か。ベタと言い捨ててしまえばそれまでだが、まあアリであろう」
「え……あ……あの……」
一瞬で見破られ、明は次の言葉が出なかった。
そんな様子を見て、秋原は小さく笑う。
「ふっ……この程度で動揺していては話にならんぞ、明さん。
案ずるな。藤原はともかく、明さんが困る様な真似はせん」
「あ、ありがとうございます、秋原さん!」
今日一日の協力者が現れ、明は心の底から頭を下げた。
転校生の様な境遇なので、本当に協力してくれるなら助かる。
せめて夕の授業を受けるまでは、彼の厚意に甘えたいところだ。
「事ある度に素に戻っていては苦労するぞ、『藤原』」
苦笑する秋原に、明は思わず赤面する。
これが藤原の身体でなければ……と秋原は呟いたが、明には聞こえなかった。
「さて、藤原。早速だが試練だ」
「試練……?」
秋原の言葉に、明は怪訝な表情を浮かべる。
秋原は真面目な顔になり、
「一限目は体育。無論、更衣は男子としてだ」
朝食の片付けも終わり、藤原はベランダで洗濯物を干していた。
今日は天気が余り良くないので、恐らく午後からは部屋干しだろう。
服を一つ一つハンガーに掛け、物干し竿に掛けていく。
まずは自分のカッターシャツ、私服、下着、タオル等を掛け終えた。
「問題はここからか……」
籠に残っている服を見て、藤原は溜め息を吐いた。
かと言って、仕事を途中で放棄する訳にはいかない。
藤原は勇気を振り絞って、明のメイド服、外出用のブラウスとジーンズ、その他下着等を掛けた。
――昨日、夕が来てなくて良かった……。
もし夕の服まで干す事になれば、良心が痛む時間が二倍になっていただろう。
背徳感に苛まれながら、藤原は屋内へ引っ込む。
「……一限目は体育だったな。鶴橋の授業……か。
ま、あいつ程度で怖気付いてたら、うちの学校ではやっていけないけどな」
明を心底心配しながら、藤原は再び溜め息を吐いた。
「ふっ……。明さんも、もう嫁に行けんな」
「…………」
体操服に着替え、明と秋原は更衣室から出てきた。
大勢の男子の中で着替えた所為か、明の頬は火照った様に紅く染まっている。
「……これが本当に明さんならば……嘆かわしい」
それを見て、秋原は言葉通り嘆いた。
「ところで、明さんの学校はブルマだったのか?」
それを自ら振り払う様に、明に話を振る。
一歩間違えれば訴訟沙汰になりそうな質問だが、そんな細かい事を気にする彼ではない。
明は我に返り、一度訊き返すと、
「私の高校は、ブルマでしたよ」
秋原にとって意外な答えを返した。
「ほう、そうなのか。古き良き習慣を大事にするのは良い事だ。差し支え無ければ、色も教えて頂きたい」
一気に息を吹き返し、秋原は更に尋ねる。
藤原程に長い付き合いでもない明には、秋原が抱えている興奮が解らない。
彼が持て余している情熱も、伝わらない。
「確か……紺でしたね」
だからこそ、こんな質問にまともに答えているのだが。
「そうか。スタンダートだが、そこが良いな」
秋原は、両腕を組んで満足そうに頷く。
大方、不埒な妄想でもしているのだろう。
「ちなみに、うちのブルマは赤だ」
「ここも、まだブルマなんですか?」
「当然だ。でなければわざわざ入学せん」
意外そうに尋ねる明に、秋原は言葉通り当然の様に言う。
秋原が入試の面接で残した『武勇伝』など、明には知る由も無かった。
もちろん、それはまた別の話である。
「でも、少し恥ずかしかったですね。学科の関係で女子が多い学校でしたけど、一応は共学でしたから」
明は、苦笑を浮かべながら言った。
男子の目が集中するので、体育祭は少々辛かった。
特に自分の場合、上半身にも目線が集まるから、尚更だ。
「うむ。ブルマに恥じらいは付き物だからな。
服を下に引っ張って隠す仕草は、それだけで胸キュンものだ。頬を染めれば尚良し。
更に明さんの場合、胸も気にせねばならぬから、これらを数学的に解いていくと……」
秋原は腕を組み、暫くの間唸る。
そして突然発狂し、明は少したじろいだ。
昇ぶる感情を吐き出した後、秋原は荒い深呼吸をする。
周りの生徒は、まるでいつもこんな光景が繰り広げられているかの様な振る舞いだった。
つまり、いつもこんな光景が繰り広げられているのだろう。
「こ、これは堪らん……! やはり、古い物を馬鹿には出来ぬな。学園モノが未だにブルマに拘るのも解る。
棗はジャージ派らしいが、やはり恥じらいはこちらの方が大きいしな。
……嗚呼、何故日本は、この様な素晴らしい文化を廃れさせようとしているのだ!?
備前焼や友禅染と共に、ブルマも後生に伝えるべきではなかろうか!?」
こうして、秋原は授業が始まるまでブルマの話を続けた。
そして、いよいよ一限目の授業が始まる。
整列した男子達の前に、一人の男性が立った。
歳は四十代半ば程。
筋肉質な肉体が特徴的な、いかにもな感じの教師だ。
木刀でも持てば完璧だが、そんな小細工が無くても十分である。
「授業を始める。礼!」
見た目通りのゴツい声に応える様に、男子達は頭を下げた。
明も、周囲に合わせて頭を下げ、頭を上げ、腰を下ろす。
「……さて、今日はサッカーだが、その前に話がある。聴け」
鶴橋の言葉に、男子達は溜め息を吐いた。
彼の鋭い目線を浴びると同時に、全員が黙って彼の方を向く。
暫く見渡した後、彼は話を始めた。
「忘れもしない昨日の事だ。ふと、焼肉が食べたくなってな。俺は、天王寺先生を誘って焼肉屋に行った。
いつも話している、駅前の『萌芽』だ。あそこのレバーは格別だからな」
「あの、先生……」
話の最中、一人の男子が声を掛ける。
横槍が入った所為か、鶴橋は少し不機嫌な顔をした。
「何だ?」
「いつも思うんですけど、行きたいなら一人で行けば……」
「馬鹿野郎! 焼肉は一人でも大勢で喰った方が美味いんだ!」
男子の話を途中で遮る様に、鶴橋は怒鳴った。
その剣幕に、彼は何も言えなくなる。
それを確認すると、鶴橋は更に続けた。
「で……だ。あいつは信じられない事に、いきなりキムチとライスから手を出し始めた。
……ここは焼肉屋だ! 男が肉と戦う場所だ! 女子供が定食屋に行くのとは訳が違うんだよ!」
いつも通りの展開に、男子達は改めて溜め息を吐く。
話に意識が向いている所為か、鶴橋は気にする様子が無い。
「俺が注意して、ようやくあいつは肉を注文した。
だが、あいつが焼き始めたのは、よりによってテッチャンだった……。
焼肉は塩タンから始めるに決まってるだろうが!」
何故、そんな事で自分達が怒られなければならないのか。解る者は、誰一人として居なかった。
鶴橋の理不尽な怒りは、まだ収まらない。
「網焼きでいきなりあんな油っぽいのを焼いたら、火が強くなり過ぎて後が上手く焼けねえんだ!
物事には、ちゃんとした順序ってモンが在る。お前らも、結婚する前に相手を孕ませる様な事はするなよ!」
焼肉と同列で話されても、説得力の欠片も無い。
と正直に言える空気でもなく、男子達は只々黙っていた。
この後も、鶴橋の話は二十分間に及んだ。
御陰様で、三十回目の掲載になりました。
更新の度に読んで下さっている方々に、心から感謝いたします。
これからも、藤原達は相も変わらず日常を刻んでいくでしょう。
彼らのゆるゆるとした毎日を、これからも見守って下さいませ。