妹思いは姉の情 その五
「さて、夕食は何に致しますか?」
夕の部屋を整え終えて、明は藤原と夕に尋ねる。
その顔には、いつもの優しい笑顔が戻っていた。
藤原が何か言おうとする前に、
「和食! ご飯! 味噌!」
夕が詰め寄る様に言い放つ。
明は苦笑して、
「光様も、それでよろしいですか?」
藤原に尋ねる。
特に反対する理由も無かったので、藤原も苦笑しながら了承した。
「ちゃんと手伝うから、一緒にやらせて」
そう言いながら、夕は半ば強引に明を連れて、キッチンに入る。
明は少し困った表情をしながらも、溢れ出す喜びを抑え切れない様だった。
藤原は、そんな二人を見て安堵する。
やはり、大切な人同士は、こう在るべきだ。
身体も、心も側に在るべきなのだ。
お互いに歩み寄れば、それは決して難しくない。
自分に正直ならば、自然とそうなる筈だ。
現に、今の明と夕がそうなのだから。
大切な人と一緒に居る事が出来るのならば、なるべくそうした方が良い。
側から居なくなってからでは、遅過ぎるのだ。
声が届かなくなってからでは、遅過ぎるのだ。
藤原がそんな事を考えていた時、夕が冷蔵庫を開ける。
真っ先に目に映ったのは、一角を占拠しているコーヒーだった。
「な……何……これ……?」
「秋原がコーヒー好きだから、ストックさせられてるんだよ」
少し驚きながら尋ねる夕に、藤原は溜め息混じりに答える。
最近は、明の紅茶のお陰でそうでもないが、一時は凄まじいものだった。
数種類のメーカーの缶コーヒーが、一段を制圧していた事もある。
藤原の両親は、あまり家で食事を摂らなかったので、特に何も言われはしなかったが。
「夕はコーヒーが苦手ですし、誤って飲む事は無いと思いますよ」
「ね、姉さん……」
明に言われ、夕は頬を紅く染めながら咎める。
苦味が苦手なのは、何となく子供っぽい気がするからだ。
だが、もうその言葉を取り消す事は出来ない。
「ふーん、アリスと一緒だな。あいつも無理なんだよ、コーヒー」
「嘘!?」
藤原の一言に、夕は驚愕した。
コンプレックスである、姉に似る事の無かった数少ない部位、胸。
その原因が、何となく掴めたからだ。
「そうか……これが……!」
夕は冷蔵庫に手を入れ、缶コーヒーを一本取り出す。
砂糖もミルクも一切入っていない、ブラックコーヒーだ。
……勿論、科学的な根拠は一切無い。
だが、世の中には解明されていない事が多々在る。
特に好まないとは言え、問題なくコーヒーを飲める明。
自分と同じく、コーヒーが全く飲めないアリス。
この二人を照らし合わせて考えた時、浮かび上がる答えは……一つ。
「これで……私も……!」
緊張した手付きで、缶コーヒーを開ける。
同時に、コーヒー豆の香ばしい香りが鼻を突いた。
これから自分がしようとしている事を改めて認識し、思わず息を呑む。
だが、躊躇はしない。自分を変える為ならば。
教師として教壇に立つ為、苦味と貧乳を克服し、大人に一歩近付くのだ。
今までありがとう。そしてさようなら、幼かった自分。
「目標は姉さん! ……のちょっと下くらい……」
下着だけはお下がりを着られなかった事を思い出しながら、ゆっくりと口へと近付けていく。
あの頃は受け入れられなかった、大人の味。
しかし、もう自分は十七歳。しかも教師。即ち社会人。
アメリカで読んだ文献の三十八ページによると、日本女性は十七の夏に『オトナ』になる。
引換に何かを失うらしいが、更に今は夏ではないが、そんな事はどうでも良い。
姉の背を追うのは、妹の宿命。ならば、姉と同じ『オトナの女』を目指すのも宿命。
覚悟を決めると、夕は恐る恐る飲み口に口を付けた。
缶の中身が舌に触れると同時に、
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!?」
「ゆ、夕!?」
夕はその場で悶絶する。
「ま、いきなりブラックは無理だろうな……」
当然の結果に、藤原は苦笑しながら呟いた。
オトナになり損ねた夕に水を飲ませると、明は冷蔵庫の中を覗く。
確か、夕が魚を買っていた筈だ。それを使おう。
そう決めると、袋に入っていたパックを取り出す。
パックの中には、大きな口とゴツゴツした頭が特徴的な、紅い魚。
「……か、カサゴ?」
色々とあったが、夕食は無事に出来上がった。
夕の希望により、和風を中心にした料理が並んでいる。
この日の夕食は、千切りにした野菜の味噌汁に、夕が握ったと思われる握り飯。
何故夕食に握り飯なのかは、訊けそうな雰囲気ではない。
トマトとレタスのサラダには、輪切りにした茹で卵が飾られている。
「この煮付け美味しいな……あんまり見ない魚だけど」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
最初は少々驚かされたカサゴも、どうやら問題無いらしい。
「そう言えば、姉さん」
「何ですか?」
食事の途中、夕が明に尋ねる。
「姉さんはどうなの? メイドになって。
姉さんが私を心配するなら、私だって姉さんが心配だよ」
「私‥…ですか。決して楽ではありませんけど、相応の充実感があります。
生涯の約半分は労働に捧げるのですから、大切にしたいですね。
仕事を通じての出会いや、それによって生ずる様々な何か、を」
夕の問いに、明は優しい、それでいて毅然とした態度で答えた。
強い意志で仕事をしている者の、どこまでも真っ直ぐな答えだった。
「そう……良かった。私が心配する事じゃなかったね」
そんな答えに、夕は安堵の表情を浮かべる。
「でも、やっぱり大変なんでしょ? 特に男性相手だと。
アメリカで読んだ文献の七十二ページによると、男性に仕えるメイドは、
『夜のお相手』や『朝のご奉仕』をしないといけないらしいし」
夕の言葉に、藤原は飲んでいたお茶を吹き出した。
――意味解ってて言ってるのか!?
これは、『“知っている”と言う無知』とでも言うべきだろう。
『知ったか振り』と言う言葉も在るが、それは何となく違う気がするからだ。
今のうちにどうにかすべきなのだろうが、明が居る手前では、犯罪になるかも知れない。
慎重に言葉を選べば選ぶ程、藤原の語彙は削られていく。
いっそ、秋原やアリスの様に、何でも平気で口に出来る様になりたい気さえするが、
そんなキャラではないし、第一あんなキャラになったらお終いな気がする。
「夜のお相手……朝のご奉仕……どう言う意味でしょう?
教わった覚えが無いですし、以前仕えていた方にも要求されませんでしたし……」
当の明は、意味が全く解らない様だった。
『AV』の意味さえ解らなかったのだから、当然だろう。
「……夕、解りますか?」
「ううん、全然」
どうやら、姉妹揃ってこう言う知識は皆無らしい。
知らないからこそ、ここまで無防備な発言が出来るのであろうが。
二人の目線が、藤原に向けられる。
藤原は、内心とても焦りながら、
「お、俺も知らないけど……まあ、今でも十分世話になってるし。
それが何にせよ、今まで必要無かったって事は、これからも要らないんじゃないか?」
上手く話を纏めた。
発言の意味を自覚していない辺り、この二人はアリスよりも質が悪いかも知れない。
そんな不安を抱きつつも、健全な食卓に戻ったので安堵した。
「……あ、夕、ご飯粒が付いていますよ」
「え? どこどこ?」
明に言われ、夕は口の周りを触る。
だが、なかなかご飯粒を探り当てる事は出来なかった。
見兼ねた明は、小さく溜め息を吐いて、
「ほら、ここですよ」
夕の頬に付着していたご飯粒を取った。
恐らく、握り飯を食べている時に付着したのだろう。
「他人が見ている前で、恥ずかしいですよ」
「ご、ごめんなさい。姉さんと食べるの久しぶりだし、姉さんが炊いたお米が美味しかったから……」
夕がそう言って謝ると、明は頬を少し紅く染める。
「た、炊いたのは炊飯器ですから……」
「でも、洗ったのは姉さんだよ? 洗い方で結構違ってくるし」
「そ……そう……ですか……」
どこまでも淀みなく褒めちぎる夕に、明は頬を更に紅くした。
そんな光景を、藤原は楽しそうに見ていた。
夕が居ると、とにかく家が賑やかだ。
夕自身もそうだが、明も、夕の前では表情がコロコロと変わる。
自分と二人の時では、こうもいかないのだ。
それだけ、姉妹の絆が強いと言う事だろう。
それに、こうして食事中に色々と話す事自体、藤原にとっては希薄である。
両親の仕事の都合上、孤食が習慣化していたからだ。
それが嫌だったと言う訳ではない。
只、時折訪れる閑寂とした空気が、とにかく虚しかった。
……もっとも、今となっては、寧ろ騒がしい程なのだが。
「俺も、兄弟とか欲しかったかな……」
そんな事を考えていた所為か、思わずそう漏らしてしまう。
「血が繋がっていれば仲が良い、とは限らないと思いますよ。
一人っ子の方が良かった、と言う方も少なくありませんし」
「でも、俺の周囲に兄弟居る人って居たっけな……?」
そう言いながら、藤原は腕を組む。
「そう言えば、文献の百七ページによると、日本の兄妹の大半は義妹が」
「あ、明日はいつもの部室が使えないんだった。堀に連絡しておかないと」
夕の発言を覆う様に、藤原は言った。
「兄貴ー、藤原って人からメール来たぞー」
「後で見ますから置いといて下さい。……携帯を覗く女性は好かれませんよ」
藤原家の夕食も終わり、各々が自由に行動していた。
明は夕食の片付け、夕は教師の仕事、藤原は特に何もせずにくつろいでいる。
散々騒いだ後に、自然と訪れる静寂。
それは、決して気まずいものではなく、寧ろ安心感を漂わせていた。
「……お風呂、どうします?」
明が片付けを終わらせた後、それは破られる。
「姉さん、一緒に入ろうよ」
「し、しかしまだ仕事が……」
夕の誘いに、明は戸惑いがちに言った。
もう今更仕事を気に掛ける意味も無い気がするが、やはり躊躇してしまう。
ある意味、最後の牙城の様な感じだ。
「別に良いんじゃないか? 仕事なら後でも出来るだろうし」
「……今日の私、師匠が見たら何と言うでしょうか……」
溜め息混じりに、明は折れた。
どうやら、今日は『姉』として振舞う事になりそうだ。
夕は、嬉しそうに入浴の準備を始めた。
鞄の中から、寝巻と思われる服やタオルを取り出す。
あっと言う間に準備を終えると、夕はリビングを出ていった。
「姉さん、早く早く!」
「は、はい………」
夕の呼びかけに応え、明は夕を追いかけていく。
「……光様」
「何?」
部屋を出る一歩手前で、明は立ち止まった。
伸びをしながら、藤原は応える。
「今日の事は……感謝の言葉もありません。
光様のお諫めが無ければ、私は夕の気持ちに気付く事が出来ませんでした。
本当に……本当に、ありがとうございました」
「そんな大袈裟な。俺は只、退屈な話をしただけだよ」
頭を下げる明に、藤原は苦笑しながら言った。
そんな藤原に、明は微笑む。
「光様にも、大切な方がいらっしゃるのでしょうね。でなければ、あんな事すぐに言えないでしょうから」
「さあ、な。……そろそろ行ったらどうだ。夕が待ってるぞ」
「はい」
明は会釈して、リビングを去っていった。
一人になり、本格的に静かになったリビング。
藤原は、新聞を手に取り、椅子に身を預ける。
「大切な人、か……」
自嘲気味に呟きながら、藤原は新聞を広げた。
「……部長……」
偶にみかけたらプレイする「太鼓の達人」。
「さいたま2000」に加え、「カルマ」が新しい好敵手になりました。
良い攻略法を知ってる方がいらっしゃるなら御指南お願いします。