妹思いは姉の情 その一
その日、藤原は珍しく早く目を覚ました。
言うまでもなく、明は部屋に居ない。
もう一度寝ようかと思ったが、時間が中途半端なので諦める。
ベッドから起き上がって大きく伸びをし、カーテンを開けた。
朝の日差しが窓から差し込み、暗い部屋を照らし出す。
制服に着替えると、藤原は階下へと降りていった。
藤原がリビングに入ると、既に明がそこに居た。
朝の仕事が落ち着いたらしく、椅子に座って休んでいる。
何故か自分の髪を前に持ってきて、先端のリボンを繁々と見つめていた。
その瞳は愁いを帯びており、いつもとは違う雰囲気を感じる。
「おはよう、明さん」
恐らく初めて、藤原から朝の挨拶をする。
「……あ、おはようございます、光様」
藤原の存在に気付き、明は挨拶を返した。
早朝でも決して曇る事の無い、屈託の無い優しい笑顔。
さっきまでの憂いも、瞬時に覆い隠してしまった。
「今日は早いですね。何かご予定でも?」
「いや……たまたま、な。何か手伝おうか?」
「お気持ちは嬉しいですけど、後は光様を起こすだけでしたので」
そう言って、明は頭を下げる。
明は、藤原には到底不可能な時間に起きて、仕事をしている。
成人とは言え、彼女とは年齢が三つしか離れていないのだ。
もう少し見習おう、と藤原は素直に思った。
しかし間も無く、藤原の興味は明のリボンへと移る。
「……そのリボン、大事なのか?」
藤原が、明のリボンを見ながら言い、
「はい。とても大切な物です」
明は即答した。
純白のリボンを、解いて掌に乗せる。
解かれた黒髪が、光沢を放ちながら綺麗に広がった。
「これは元々、妹のリボンでした」
「えっ……明さん、妹が居るんだ……」
明の言葉に、藤原は少し驚く。
別に変わった事でも無いのだが、藤原は明の身の上を殆ど知らない。
だから、こんな事すら一驚の対象となるなのだ。
雷が人一倍嫌いである事も、つい先日知ったばかりである。
もっと話をしようと思っていても、どうしても躊躇してしまう。
相手に土足で踏み込んでしまうのではないかと思ってしまう為だ。
更に明は続ける。
「私が実家を離れる時に、リボンを交換したんです。
これが有る限り、妹はいつも私の傍に居ます。同様に、私は妹の傍に居てあげられます。
これが有るから今まで頑張る事が出来ましたし、妹もそうなのだと信じています。
身体が離れ離れになった今、これはとても大切な物です」
その言葉は、強い想いで満たされていた。
まるで、明と妹の二人分のそれが込められている様な、そんな温かさが流れ込んでくる。
「明さんって、妹思いなんだな」
藤原が、素直に言った。
「本当に……そう思いますか……?」
「…………?」
一瞬、明の表情が憂いを帯びる。
しかし、それはすぐに元の優しい笑顔に戻った。
「では、すぐに朝食が出来ますから」
怪訝な表情をしている藤原をそのままにして、明はキッチンへ向かう。
早めに朝食を食べ終えた藤原は、余裕を持ってアリスを迎えた。
今日も、アリスと同じ通学路を歩く。
「ふ〜ん、あのリボンにそんな秘密が……」
アリスに朝の一件について話すと、平凡なリアクションを見せた。
「やっぱり、誰にだって大切な人や物が有るんだね」
「アリスはどうなんだ?」
藤原がアリスに尋ねると、何故か彼女はニンマリと笑う。
「もうっ、判ってるクセにお兄ちゃんてば♪」
そして、頬を紅く染めながら藤原の背中を叩いた。
想像以上の威力に、藤原は思わず声を上げる。
「何故にそうなる……」
藤原のぼやきを無視して、アリスは彼の腕に抱き付いた。
「もちろんボクは、お兄ちゃんが大好きだよ♪」
「あぁ、そう……」
結局いつも通りの展開に、藤原は溜め息を吐く。
幸い、周囲には誰も居ない。
「……あの……お兄ちゃん……」
「……何だ?」
さっきとは打って変わって静かな声。
仕方無くアリスの方を向くと、彼女が真剣な顔で目を合わせる。
少し意外な展開に、藤原は戸惑った。
それでも、アリスの目線は藤原を突き刺して離さない。
「ボクは……本気だからね……」
そして、さっき以上に顔を紅潮させて言った。
改めて言うのは恥ずかしいらしく、その後何も言えなくなる。
目を合わせたまま、妙な時間が流れた。
耐えられなくなって、アリスの方が先に目線を逸らす。
藤原は微笑して、アリスの頭をグシグシと撫で付けた。
「恥ずかしいのはどっちだよ」
「だ、だって……」
アリスは俯いたまま、言い返さなかった。
しかし、腕は抱き付いたまま離さない。
寧ろ、より強く抱き付いてきているくらいだ。
「……ほら、さっさと行くぞ」
「う、うん……」
藤原は、アリスを引っ張る様にして歩いていった。
このまま学校へ行くとどうなるか、まだ気付いていない。
一悶着起こした後、藤原は教室に辿り着いた。
半分くらいの生徒が、既にそこで談笑している。
適当に挨拶を交わしつつ、藤原は机に鞄を置いた。
「聞いた話によるとだな……」
「……せめて挨拶くらいしろよ」
前の席の秋原が、前触れ無く話を始める。
いつもの事なので、藤原は溜め息を吐き、席に座った。
「今日、新任の教師が来るらしい」
「……どう言う事だよ?」
最初は聞く耳の無かった藤原だが、頬杖を付きながら続きを促す。
普通、こんな中途半端な時期に教師が赴任するとなれば、事前に何らかの連絡がある筈である。
それが、当日になってようやく……となれば、流石に藤原も気になった。
「俺独自の情報網によると、何らかの理由で、今日まで内密にしていたらしい。
恐らく、漏洩すると困る様な事なのであろうな。
……もっとも、教師赴任の何が特別なのかは全く解らんが。
更に不思議なのは、その教師に関する情報が一切無いと言う事だ。
名前、性別、年齢、体格、担当科目、その他諸々、何一つ解らなかった。
俺の情報網でも、新聞部の情報網でも何一つ解らんとは、前代未聞だ……」
そう言って、秋原は難しい顔をした。
秋原と新聞部が解らないと言う事は、関係者以外解らないと言う事だ。
よっぽど、事前に知られては不味い教師が来るのだろうか。
「まあ、もう間も無く解る事だ。一限目が集会になったからな。
……ふっ、恐らく今頃、真琴嬢が熱くなっておろうな」
「だろうな」
藤原は同意し、真琴のクラスの状況を想像して、溜め息を吐いた。
「望月さん、おはようっス♪」
アリスが教室に入ると、真っ先に真琴が声を掛けてきた。
「マコちゃんおは……うわぁ!?」
アリスも返そうとしたが、途中から悲鳴に取って代わられる。
真琴が、アリスの胸を触った為だ。
「ふむふむ……今日もバストは全然っスね♪」
「……何で嬉しそうなの?」
笑顔でグサリとくる言葉を放つ真琴に、アリスは沈んだ声で問う。
「幼女の成長を見守るのも、正義の義務っス!」
そんなアリスに、真琴は力強く叫んだ。
明らかに目的が逆である上に、理由として無理がある。
言及する気力も無くなって、アリスは溜め息を吐いた。
ほぼ毎日この様な目に遭っているのだが、触れられる時間はランダムなのだ。
ある時は昼休み、ある時は更衣室で、またある時は放課後……。
身構え様が無いので、判っていても、セクハラを避けられないのであった。
「……あ、今はそれどころじゃないっス!」
急に、真琴が我に返る。
「……? 何かあったの?」
「今日、新任の教師が赴任するそうなんです」
アリスの問いに、堀が答えた。
更に堀が続ける。
「今日になって突然……明らかにおかしいですよね。
一説では、寺町先生をも凌駕する教師が赴任するから、混乱を避ける為とも……」
堀の話を引き継ぐ様にして、今度は真琴が話し始める。
「これはきっと、何かの陰謀っス! 平和な高校を侵しつつある影……絶対に見過ごせないっス!」
「……無い無い」
堀とアリスが、同時にツッこんだ。
結局、誰一人として真相を知る事無く、生徒達は体育館に集まり始めた。
すぐに整列出来る訳も無く、大抵の生徒は勝手に話を始める。
そんな渦中に、藤原と秋原も居た。
「ふっ……デマや暴動が起こらないだけでも奇蹟だな」
「教師一人で、そんな規模に発展するかよ……」
そんな遣り取りの最中、アリスが藤原に飛び付いてきた。
「お兄ちゃん、久しぶり!」
「……お前の価値観は解らん」
アリスを振り払いながら、藤原は溜め息を吐く。
程無くして、堀と真琴も来た。
「先輩、おはようっス―♪」
「先輩、おはようございます」
そして、それぞれ朝の挨拶をする。
「おはよう。それよりお前ら、自分の子供はちゃんと管理しろよ」
藤原は溜め息混じりに言い、アリスを二人に突き出す。
三人共、一瞬キョトンとした表情を浮かべた。
一番最初に、アリスが意味を理解する。
「お、お兄ちゃん! それどう言う意味!?」
流石にアリスも、子供呼ばわりされては黙っていない。
「形振り構わない奴は子供だ」
煙たそうに扱いながら、藤原は、言い捨てた。
次第に、残りの二人も意味を理解する。
それと同時に、真琴は嬉々とした表情でアリスを抱き寄せた。
「はい! 私、これからはいつでも望月さんの面倒を見るっス!」
「そこまで本気にされても……」
真琴のロリコン振りを失念していた自分を責めつつも、藤原は、アリスの救いを求める目線を無視した。
「ふむ、美少女育成モノと言うのもアリだな。光源氏や白河上皇など、前例も決して少なくはない。
……いやしかし、アリス嬢が成長した姿は、余り見たくない……だが、それはそれで……」
秋原は、一人で勝手な妄想を巡らせていた。
「お前ら、そろそろちゃんと並べ。鶴橋の檄が飛ぶぞ。秋原、お前は最前列だろうが。さっさと行け」
藤原がその場を収めると、それぞれ自分の場所へ向かった。
その後アリスがどうなったのかは、誰も知らない。
それから暫くの後、集会が始まった。
校長が挨拶をし、すぐに本題に入る。
「まず、今回の教師赴任について、情報の開示が今日になってしまったのは、
校内の混乱を防ぎ、教師のプライバシーと安全を守る為です。
教師の受け入れに於いて、色々と問題があったのも、理由の一つです」
やはり、普通の教師ではないらしい。
「では、実際に出て来て貰いましょう。……先生、どうぞ」
そう言うと、校長は舞台の端へと移動する。
少しして、舞台袖から教師が現れた。
それと同時に、全校生徒のほぼ全員が響動めく。
それに圧倒されたのか、教師は少したじろいだ。
しかし、すぐに気を取り直し、一歩一歩舞台の真ん中へと歩いていく。
その間にも、響動めきは波の様に伝わり、大きく広がっていった。
教師が真ん中に立ち、マイクを受け取ると、一斉に辺りが静まり返る。
教師は、ゆっくりと周囲を見渡した。
大衆にも怖じる事の無い、凛とした瞳。
身動ぎの度に揺れる、サイドポニーの長い黒髪。
百七十センチ弱程であろう体は、均整が取れている。
舞台の真ん中に立つ少女を、生徒達は固唾を呑んで見守っていた。
その中でも、藤原を筆頭とする五人は、動揺を隠せない。
何故なら、彼女は……
「今日から、この明草高校で英語を担当させて頂く、西口夕です。
十七歳の、まだまだ若輩ですが、何卒宜しくお願いします」
明に非常によく似ていたからだ。
CPUさん、評価ありがとうございます。
初めての評価でしたので、非常にテンションを上げさせて頂きました。
これからも、更に精進するべく頑張ります。