雨が降ろうが雷が降ろうが 後編
夕方の浴室は、シャワーの音で満ちていた。
外から聞こえる雨音と合わさって、大合唱となる。
三十九度の湯が放たれ、湯気が天井へと上る。
それらに包まれ、冷えた身体が解されていった。
「光様、着替え置いておきますね」
「ああ、ありがとう」
脱衣所から明の声が聞こえ、藤原は返事をする。
「何故、あんなに濡れてしまったのですか?」
「いや……ちょっとな」
「……望月さん、ですね?」
「う……」
一発で当てられ、藤原は何も言い返せなかった。
仕方無く、藤原は事の経緯を話す事にする。
「そうですか……皆様、雨の日でもお元気なのですね」
一通り聞き終えた明は、クスクスと笑った。
「……なあ、明さん……」
ふと、藤原が真剣な声で呼びかける。
明は、磨りガラス越しに続きを促した。
「俺……アリスを甘やかしてるだけなのかな……?
いつかはあいつも、一人で何もかも出来るようにならないといけないのに……。
確かに、幼い頃に比べれば、俺が居なくても頑張っていると思う。
……でも、もし、また俺と離れる様な事があれば……あいつは……。
だから、俺一人を見ていてはいけない。俺一人を頼っていたらいけない。
それが言えない俺は……甘やかしてるのかな……?」
藤原は、アリスを心底心配していた。
いつまでも自分にばかりくっついていては、自分が居なくなった時に……。
もちろん、アリスを信じたいとは思う。
十年前に初めて出会った時の、暗い面影は消えつつある。
それでも、一抹の不安が拭えなかった。
「……二人手を取り合って、と言う選択肢は無いのですか?」
「な!?」
明の意外な一言に、藤原は思わず声を上げる。
だが、明は至って真面目だった。
以前アリスが事件を起こした時に、彼女の真っ直ぐな想いを聞いていたからだ。
「まさか。アリスが勝手にくっついてるだけだ。
……それに、俺はもう、誰かを愛するなんて……」
「…………?」
先細りになる藤原の声に、明は首を傾げる。
「……いや、関係無い話だ。忘れてくれ」
そんな明に、藤原は自嘲気味に言った。
どうも今日は、やけにしんみりとした気分になってしまう。
きっと、この雨の所為なのだろう。
そう決めつけた藤原は、目を覚ますべく、シャワーを頭から被った。
「今のままでは、望月さんは、失う事の衝撃に耐えられない。
……光様が仰りたいのは、そう言う事ですね?」
すぐ傍で聞こえるシャワーの音に混じって、明の声が聞こえた。
「あ、ああ……」
「でしたら、きっと大丈夫だと思いますよ。
人は、自覚している以上に多くの人々に想われています。
大抵の人は、それに気付かずに、独りで背負い、傷付いてしまうんです。
新谷さんを例に挙げれば、光様も解り易いと思いますが」
明が真琴を例に挙げたのは、この前、とある事件が起きたからだ。
原因は色々とあるが、真琴が独りで背負っていた、と言うのもその一つである。
ちなみに、秋原達により、その事件も収束に向かっているらしい。
更に明は続ける。
「きっと、失って初めて気付くのでしょうね。
失ったものの重みも、自分が如何に大勢に想われているかも、満たされていては判りませんから。
……私も、その内の一人なんですけどね。
望月さんもきっと、光様が知らない様な人達に支えられているのだと思います。
ですから、望月さんの御心配も程々になされた方が良いと思います。
必要以上の心配は、する側にもされる側にも良くありませんから。
彼女はきっと、失う痛みを越えられます。
何方でも、幾度となく経験なさる事ですから。
私と言う、生きた例も、ここに在ります。……光様も、いつか、必ず」
「何もかもお見通し……か」
明に全て見透かされている事に気付き、藤原は苦笑しながら言った。
自分がアリスを心配しているのは、去年の自分と重なるからなのだろう。
一人だけを見続けて、失って、その痛みを今も引きずっている……。
そんな自分の様になってしまう事を、恐れているからなのだろう。
――他人の前に自分、か……。
「……そう言えば、明さん」
「はい、何でしょうか」
ふと、藤原が話を変える。
「アリスから伝言で、『明日か明後日に、箒に乗せてあげる』って」
「!?」
磨りガラス越しに、明の動揺が見て取れた。
「明さん、もしかして……」
「いえ、あの、えと、その……ち、違うんですっ!
決して頼んだ訳でも、まして望んだ訳でも……!」
藤原が言い出す前に、明は必死に否定した。
その様子は、肯定と差ほど変わらない。
明も自覚したらしく、それ以上何も言わなかった。
暫くの沈黙の後、
「あ、あの……他の方には、くれぐれも内密に……」
シャワーの音にも負けそうな、小さな声で懇願するが、
「俺は良いけど……アリスが……。秋原達も見に来るって、あいつが言ってた」
「〜〜〜〜〜!!!」
最早、収める術が無かった。
堀が言った通り、日付が変わっても雨足は収まらなかった。
深夜の濡れた住宅街を、自室の窓から見ながら、
「やっぱり止まない、か……」
藤原は溜め息混じりに呟いた。
電気を消して、藤原はベッドに潜り込む。
雨足が室内にも染み入ってきて、更に土足で耳へと上がり込んできた。
これは、なかなか眠れそうもない。
更に止めに、雷が落ちる音まで聞こえた。
近くと言う訳ではないが、決して遠くではない。そんな距離だ。
「……最悪」
藤原は、誰にでもなく愚痴った。
暫くして、突然ノックの音が聞こえた。
「光様、起きていますか?」
当然、明の声だった。
「ああ、ちょっと待ってくれ」
藤原は返事をすると、ベッドから起き上がり、電気を点ける。
夜目が利き始めていたので、光が目に染みた。
どうにか慣れると、藤原はドアを開ける。
そこには、当然だが明が立っていた。
もう仕事も終わったらしく、パジャマ姿だ。
「済みません、こんな時間に……」
そう言って、明は頭を下げる。
解かれているロングヘアが、動きに合わせてしなやかに揺れた。
「別に良いけど……何か用?」
明がこんな時間に来るなんて、珍しい事だ。
藤原には、何かあったとしか思えなかった。
「あの……今晩だけ、同じ部屋で寝ても宜しいでしょうか?」
「……え?」
藤原は、一瞬呆気にとられる。
もちろん、明の消え入る様な声が、聞こえなかったからではない。
「……何か……あったのか?」
「あ、あの……その……えと……何と言うべきでしょうか……」
明は、頬を染めて言葉を濁らせる。
何か、言い難い事でもあったのだろうか。
藤原がそう思った時、突如雷鳴が鳴り響いた。
すぐ近くに落ちたらしく、凄まじい轟音が心臓を叩く。
「きゃああああああああああぁぁぁぁぁっ!!!!!」
それとほぼ同時に、それすらも覆い隠してしまいそうな悲鳴が聞こえた。
二重の轟きに、藤原は気が動転する。
それらが収まった時には、明は藤原に抱き付いていた。
腰が抜けたらしく、両膝を付いていて、その身体は震えている。
最初は訳が解らなかった藤原も、次第に理解し、
「明さんはベッドで良いよ。俺が床で寝るから」
その顔は、自然と綻んでいた。
「済みません、一端のメイドとあろう者が……」
明は、ベッドの毛布から顔を半分だけ出して言った。
恐らく顔は紅潮しているのだろうが、既に豆球しか点いていないので判らない。
「ま、一晩くらいこう言うのも、悪くはないかな」
藤原は、予備の布団を床に敷いて寝る事にした。
使い慣れていないので、今一つ馴染めない感覚を覚える。
「それにしても、明さんが雷嫌いとはな……」
藤原は、しみじみと呟いた。
一件完璧そうに見える人でも、こんなに脆い部分が有るとは。
雷が苦手な人は少なくないが、一人で眠れない程の人は、そうそう居ないだろう。
「幼い頃から、ずっとそうなんです。
流石に、誰かに抱き付いて眠る事は、もう無いのですが……」
と言う事は、昔は家族にでも抱き付いて眠っていたのだろう。
そう考えれば、今は幾分マシとも言える。
「あ、あの……言わないで下さいね、誰にも」
「良いけど……アリスとかが来てる時はどうするんだ?」
小声で頼む明に、藤原は尋ねた。
今回は夜だったから良かったが、誰かが遊びに来たりしている時に雷が鳴ったら……。
「用がありましたら、駅近くのカラオケを捜して下さい」
「……ああ、成程ね」
どうやら、用意は周到らしい。
「……本当は、何も越えられていないのかも知れませんね。
自分では自立しているつもりですが、これでは……」
明は、自嘲気味に言った。
やはり、コンプレックスを抱いているのだろう。
雷は、自然現象だ。
どんなに対策を練っていたとしても、限界が在る。
人前で醜態を晒した事も、きっと……。
「どれくらいの雷なら我慢出来るんだ?」
「そうですね……一応、慣れる為の努力はしてきゃあああぁぁぁっ!」
「……これは重傷だな」
かなり遠くの雷鳴にも反応する明に、藤原は溜め息を吐いた。
多分、『一晩くらい』では済まないだろう。
「おかしい……ですよね。いい大人がこんな様で」
明は、再び自嘲気味に言った。
ここまで落ち込んでいる明を、藤原は今まで見た事が無い。
かなり気にしているのだろう。
「……明さんは、どうしようもなく苦手な事が有る人を、おかしいと思うか?」
「そ、そんな事無いです! 誰しも、苦手の一つや二つはあります!
それを笑うのは、相手を人間として認めない事と同じです!」
藤原の問いに、明は激しく反発した。
「つまり、そう言う事だ。得意と苦手は、誰だって有るものさ。
明さんは、雷が苦手でも、家事万能だし、紅茶を煎れるのも上手だし……。
克服するに越した事は無いけど、無理する必要までは無いと思う。
だから、あんまり気にしなくても良いんじゃないか?」
「…………」
藤原の言葉に、明は暫く何も言い返さなかった。
少し経って、
「……そうですね」
明は、呟く様に言う。
豆球に照らされた顔は、微笑んでいた。
「じゃ、そろそろ寝ようかな……おやすみ、明さん」
「はい。お休みなさいませ、光様」
その会話を最後に、雨音と吐息の音のみが、部屋を支配した。
その夜は、雷が非常に多かった。
「……ん……く……」
特に理由も無く、藤原は目を覚ました。
明が悲鳴を上げる度に目が覚めるので、もう七度目だ。
これだけ眠りを妨げられると、まともな睡眠など不可能だった。
眠る前よりも、身体が重たい気さえする。
前の目覚めは、確か、新聞配達であろうバイクのエンジン音が聞こえる時間だったであろうか。
朦朧とした意識で、藤原は時計を見る。
そろそろ、朝日が昇る時間だ。
――どうせ、雨だろ……。
そう思った時、ふと気付く。
――雨の音がしない……。
気になって、藤原はカーテンを少し開けた。
窓が映したのは、雲一つ無い空に、日が昇ろうとしている光景だった。
暁の光が、藤原自身と部屋を照らす。
「天気予報なんて、下駄でやるのと大差無いよな……」
藤原が、誰にでもなく呟く。
それは、決してネガティブな口調ではなかった。
如何な天気でもその人次第だと、アリスは言った。
それでもやはり、晴天の光は心をも照らすのだ。
「ん……んんっ……」
ふと明の声が聞こえ、藤原は声の方を向く。
ベッドの上の明にも、日光が当たっていた。
慌てて、藤原はカーテンを閉める。
暫くは、夢と現の狭間を行ったり来たりしていたが、どうにか夢に安定した。
見ると、枕に抱き付いて眠っている。
三つ子の魂百まで……と言うには、まだまだ若いだろうか。
雷が止んだ所為か、抱き付いている所為かは判らないが、安心しきった、無防備な寝顔だ。
「……そう言えば、起きなくて良いのかな……?」
明は以前、この時間には既に起きて仕事を始めると言っていた。
自然に目が覚めるので、目覚ましを使わない、とも。
だが、彼女が目覚める気配は無い。
あれだけ何度も目を覚まして、雷に怯えながら眠っていたのだ。
まともに起きられる訳が無い。
起こそうか、と藤原は思ったが、止めておくことにした。
ここまでぐっすりと眠っているのに起こすのも、忍びない気がしたからだ。
藤原も布団に潜り、二度寝する事にする。
緩慢な時間も手伝って、二人は昼過ぎまで微睡みに身を委ねた。
真琴の立ち位置があれで良いのか、と今更ながら後悔しております(ぁ
『恐らくは仁義無き戦い』を書く前に、アリスや明の動かし方を確認する為に書いたものです。
藤原がアリスをお姫様抱っこするシーンは、この時は在りませんでした。
真琴を加えたら、いつのまにかこんな展開に(汗
これはこれで、結構楽しかったですけどね。
後半は、意外と少ない、お兄ちゃんとアカリンだけのパートでした(何故かアリスっぽく)
この二人だと、若干おとなしめの文章になりますね。
こう言う遣り取りは好きなので、私は全然構いませんが。
『アリスに止め処無し』と言いこれと言い、異様にアカリンが女の子していますが、私の趣味だったりはしません(ぁ
自分で書いててキュンキュンしていたりもしません(ぁ
「そこで勝負に出ろよ藤原〜!」と叫んだりもしません(ぁ