雨が降ろうが雷が降ろうが 前編
金曜日の放課後。
天気予報の通り、外は土砂降りだった。
大粒の雨が鉛玉の様に、全てに降り注いでいく。
鉛玉が突撃する音の一つ一つが重なり、一つの大きな音になって、辺り一面を支配していた。
そこら中に水溜まりが出来ていて、池も点在している。
当然それらにも鉛玉が飛び込み、波紋が出来、消える前に次のそれが生まれた。
「判ってたとは言え、ずいぶんな雨だな……」
学校のロッカーからその様子を見た藤原が、溜め息混じりに呟く。
その声も、雨音に飲み込まれてしまいそうだ。
「今日一日降って、明日も止まないかも知れないそうですよ」
傍に居た堀が、追い打ちの様な一言を放つ。
藤原は、再び溜め息を吐いた。
これ程の大雨が明日も続くとなれば、仕方の無い事だった。
「ふっ……お前以上に溜め息を吐きたい者が、どこかに数多と居るであろうに」
ようやく、秋原がロッカーに来た。
十五分も待たせたとは思えない第一声だ。
「先輩、遅いですよ。何をしていたんですか?」
「棗と少々、な。真琴嬢騒動の後始末や、現美研関係で忙しいのだ」
そう言いながら、秋原は靴を履き替える。
「雨か……ふっ、何も解っておらんな、藤原よ。
この様な雨の日は、相合い傘がお約束であろう!?
一つの傘に寄り添い合う二つの身体!
ほぼ確実に手に入るイベントCG! 服が濡れて透けると言ったお約束も在り!
その上好感度も上がるのであれば、積極的に狙う理由には十分であろうが!」
「……で、お前、傘は?」
いちいちツッコむのも面倒になり、藤原は秋原に尋ねた。
「ふっ、何を訊くと思えば。俺がその様なミスを犯す筈が……。
……………………………………………………」
「じゃあ、僕達は先に帰りますね」
「ああ。邪魔だったら、その辺に捨てて良いからな」
「判りました。では、失礼します」
一礼すると、堀は、生気を失った秋原に肩を貸しながら帰っていった。
「さて、俺も帰るか……」
そう言って、藤原が傘を差した時、
「お兄ちゃん♪」
後ろから誰かが抱き付いてきた。
幼い少女の様な声で、背中にくっつけてきた胸は、平たい。
「……アリスだな?」
更に、こんな事をするのは彼女以外考えられないので、用意に判断出来た。
あはは……、と苦笑しながら、アリスは藤原の前に回った。
「傘忘れたから、一緒に帰ろ♪」
明らかに確信犯である。
登校時には、確かに持っていたのだから、間違い無い。
恐らく、秋原に変な話でも吹き込まれたのだろう。
「濡れて帰れ」
そんなアリスに、藤原は冷めた言葉をぶつけた。
この歳で相合い傘は、流石に気が引けるからだ。
もちろん、それ以前の問題でもあるが。
「えぇ!? ……さてはお兄ちゃん、ボクの制服が濡れて透けるのを見たいんだね!?」
「何でそうなるんだよ……」
想像をおかしな方向に膨らませるアリスに、藤原は溜め息混じりに言った。
「ぼ、ボクは別に良いよ。でも今日は、その……可愛い下着じゃないから……。
それでも良いなら、濡れ場は覚悟してたし……。
初潮もまだな身体だけど……お兄ちゃんにあげるね……」
その間にも、アリスの想像は、どんどん膨らんでいる。
「だ―か―ら―! 自分の傘で帰れって言ってるだろ!」
「もう、お兄ちゃんてば、照れ屋さんなんだから。
でも、そんなトコもカ・ワ・イ・イ♪ きゃ、言っちゃった♪」
かれこれ数分、まだ二人は言い争っていた。
傍を通る者は、興味や羨望の眼差しを向ける。
アリスはそんな事を気にも留めず、藤原は断る事に必死だったので、気付かなかった。
すると突然、アリスの顔色が真っ青に変わる。
どうやら、何かを察知したらしい。
それ程掛からずに、
「先輩、望月さん、こんちわっス―♪」
真琴が笑顔でやって来た。
「や、やぁマコちゃん……どしたの?」
アリスが、やや引きつった笑みを浮かべて尋ねる。
しかし、すぐに後ろ手にある傘が目に入った。
それだけで、アリスが理解するには十分だった。
「この日の為に、昨日二人分の仕事をこなして、部活を休ませて貰ったっス!
……ちょっと小さい傘っスから、くっつかないと濡れるっス。
ですから、遠慮無く私に密着して欲しいっス♪」
真琴もまた、明らかに確信犯であった。
アリスが密着しても、濡れて服の中身が透けても、得をするのは真琴だ。
それを照明するかの様に、真琴は至福の笑顔を浮かべている。
アリスの身体は、明らかに震えていた。
このまま真琴に一晩預けても構わないのだが、流石に不憫だ。
そう思った藤原は、アリスを助ける事にする。
「真琴には悪いけど、今日は俺がエスコートする事になっているんだ」
「お、お兄ちゃん……」
そんな藤原に、アリスは胸の奥が熱くなった。
一方真琴は、信じられない、と言った表情である。
「せ、先輩……!? 例え先輩でも、望月さんの処女は渡せないっス!
幼女の貞操を護るのも、『正義』の重要な役目っス!」
「お前、キャラ変わったな……」
無茶苦茶な事を言う真琴に、藤原は溜め息混じりに言った。
どうやら真琴は、アリスを賭けて戦う気満々である。
――勘弁してくれよ……。
こんな場所で――こんな場所でなくてもだが――喧嘩などしたくはない。
それに、後輩である真琴を相手にするのは気が引ける。
そう判断した藤原は、
「あ、可愛い子供」
「えっ!? どこっスか!?」
「アリス、この傘持って走れ。適当に追うから」
逃げるを上策とした。
傘を渡されたアリスは、それを差す事も無く、無我夢中で学校から逃げ去っていく。
その後を、藤原は、雨を鞄で防ぎながら追いかけていった。
「……あ!? ハメられたっス〜!」
藤原が、休んでいるアリスを見付けたのは、八百メートル程先だった。
結局、傘は差さなかったらしい。
「大丈夫か、アリス?」
「……ここまで……全力だったから……」
肩で息をしながら、アリスは応える。
「あれも、あいつなりの愛情表現なんだろうな……。
図々しいのは承知だけど、俺に免じて、嫌わないでやってくれないか?」
藤原は、少しばつの悪い表情でアリスに頼んだ。
大切な人の前では、大抵の人は冷静になれないものだ。
真琴は、それのやや極端な例なのだろう。
あのままではいけないにしても、それを理由に嫌って欲しくない。
否定されたら何よりも傷付く感情を、彼女は背負っているのだから。
第一、アリスが藤原にする事も、真琴と大して変わらないではないか。
「うん、判ってる。そう言うつもりじゃないんだ。
好きな人が目に映ると、他に何も見えなくなるのは知ってるし。
それに、ああ言う形でも、存在を認めてくれる事は嬉しいよ」
「そうか……ありがとな」
藤原は、アリスの頭をそっと撫でた。
そこでようやく、アリスは藤原がビショ濡れになっている事に気付く。
――あ、ボクもだ……。
無我夢中で走っていたから、傘を差すことを忘れていた。
「……ごめんなさい、お兄ちゃん」
「…………? ああ、別に気にしなくて良いぞ。明日明後日は休みだし、洗濯には十分だろ。
……明さんに、ちょっと迷惑だろうけどな。その辺は、自分で何とかするから心配するな」
沈んだ声で謝るアリスを、藤原は笑ってフォローした。
「それより、折角傘渡したのにお前は……。ま、慌ててたなら仕方無いか。
……ほら、これで少しでも拭いとけ」
「ありがと」
藤原からハンカチを受け取ったアリスは、自分のハンカチも使って体を拭く。
透けて見える体を、何度か藤原に見せようとしたが、ことごとく無視された。
「……で、もう動けるか?」
「あはは……急にあんなに走った所為かな? 立つのがやっとって感じだよ」
藤原の問いに、アリスは自嘲気味に答える。
――さて、どうしたものか……。
お互いビショ濡れなのに、アリスの脚が休まるのを待っていたら、風邪をひいてしまう。
かと言って、一人で先に帰る訳にもいかない。
藤原は溜め息を吐いて、
「仕様が無い……傘と鞄、しっかり持っとけよ」
アリスをお姫様抱っこした。
「えっ……お、お兄ちゃん!?」
余りにも突然の事に、アリスは驚きを隠せない。
「歩けないなら、これくらいしか無いだろ? ほら……傘、俺に掛からない様にしてくれ」
「う、うん……」
至って普通に接する藤原に、アリスは戸惑いながらも頷いた。
――お兄ちゃんの方が大胆だよ……。
そんな事を思いながら、アリスは藤原に運ばれていく。
「ねえ、お兄ちゃん……」
「何だ?」
少し歩いた時、アリスは藤原に声を掛けた。
「その……恥ずかしくないの?」
「知ってる奴に見付かったら、もう学校行けないな」
アリスの問いに、藤原は即答する。
どうやら、自分でもかなり恥ずかしいらしい。
「真琴が迷惑掛けてるお詫び、とでも思ってくれ。
先輩として、後輩の責任はちゃんと取らないといけないしな」
先輩の義務、と言ったところであろうか。
確かに、先輩風を吹かせるだけが先輩の仕事ではない。
自分の為だけでなく、後輩の為にも動かなければ、敬われる資格など無いのだ。
「……ま、アリスがもう少し大きくなったら、もう無理だろうな」
「えぇ!?」
藤原の一言に、アリスは驚きの声を上げた。
アリスは、小さな身体を気にして、毎日牛乳を飲んでいるのだ。
まさか、それが裏目に出るとは。
もっとも、裏目に出る程の成果は、今のところ無いのだが。
「もうちょっと頑張ってよお兄ちゃん……」
「生憎、俺は文化系だからな。それ程鍛えてないよ。それに……」
途中まで言いかけて、藤原は言葉を詰まらせた。
――いずれは、何があっても一人で立たなければならない。
何故か、それが言えなかった。
だが、それも仕方が無い。
これ程までに頼られている矢先、とてもそんな事は言えない。
だが、事実である事は確かだ。
誰か一人を頼っていては、誰か一人しか見えなくなっては、自分の様に――。
「それに……何?」
「……いや、何でもない。忘れてくれ」
アリスの様に正直になれない自分を思い知り、藤原は自嘲気味に言った。
最初は遠慮がちだったアリスも、次第に表情が変わっていく。
やはり、素直に嬉しいのだろう。
それに反比例するかの様に、藤原は後悔の念を募らせていた。
やはり、素直に恥ずかしいのだろう。
アリスは楽しそうに藤原に話しかけ、藤原は覇気の無い声で答える。
そんな遣り取りが、暫く続いた。
「お兄ちゃん、もっと楽しそうにしてよ〜」
とうとう、アリスは不満を口にした。
こんなシチュエーションなのに、相手がこれでは、流石に冷めてしまう。
「あのな……。お前こそ、こんな土砂降りで、良く明るく振る舞えるな」
藤原は、溜め息混じりに言う。
水が靴の中に入ってきて、足が濡れてきた。
もっとも、既に全身が濡れているので、大して変わらないが。
ビショ濡れの服が、次第に体温を奪い、体が震える。
もう家まではそれ程無いが、その道さえも遠く感じた。
こんな状態では、とても嬉しい気分にはなれない。
「雨でも晴れでも、その人次第だと思うよ。
だから、なるべくなら、雨の日でも笑って過ごす方が良いんだよ、きっと。
もちろんボクは、お兄ちゃんにこうして貰ってるから、とっても嬉しいよ♪」
「おれはこうしてるから、とっても嫌な気分なんだけどな……」
藤原は、再び溜め息混じりに言う。
そうこうしているうちに、藤原宅の前に着いた。
「ふぅ……脚、もう大丈夫か?」
「うん。ありがと、お兄ちゃん♪」
そう言いながら、アリスは藤原の腕から降りる。
ようやく、藤原の腕が解放された。
近所なので、藤原はアリスに傘を貸した。
アリスは再び礼を言い、何度も振り返りながら帰っていった。
「……ま、あいつの言う事ももっともだな……」
「ただいま」
「光様、お帰りなさ……!?」
「ごめん、タオル持ってきてくれる?」