家政婦を見られた その七
急にドアが開かれ、リビングに居る三人のうち、二人の目線がそこに集まる。
そこに居たのは、背の低い、ダークブラウンのツインテールが特徴的な少女だった。
「あ、アリス……」
「ゴメン、お兄ちゃん。でも、ボクが居ないままじゃ、いけないと思うんだ。
新谷さんがここまで苦しんでいるのは……ボクの所為なんだから」
アリスが、自分に言い聞かせるかの様に言う。
藤原は溜め息を吐いて、
「……ま、それもそうだな」
入室を承諾した。
アリスは部屋に入ってきて、大胆にも真琴の隣に座る。
そこでようやく、真琴はアリスの存在に気付いた。
顔が一気に青ざめ、ソファから立ち上がろうとするが、
「待って!」
アリスの一喝で動きを止めた。
「……許して貰おうとする事って、そんなに悪い事なのかな?
新谷さんは、許して貰う事を、何か勘違いしているんじゃないのかな?
……許して貰うのって、簡単な事じゃないんだよ。
許して貰えない時は、例え何をしても許して貰えない。
言い訳したって、嘘泣きしたって……心から謝っても、許して貰えないかも知れない。
許して貰うって言うのは、相手に信じて貰う事なんだから。
そして、許して貰う以上、やるべき事はやらなきゃいけないんだよ。
……ちゃんと、しっかり話してくれる?」
アリスは優しく、かつ謹厳とした態度で真琴に話した。
「で、でも、私は……」
だが、真琴はなかなか口を開こうとはしなかった。
それでも、アリスは強く責めようとはしない。
一昨日、自分が明や藤原にそうされた様に。
「……さっきはゴメンね、殴っちゃって。
新谷さんも傷付いてるって事も知らずに……ボクは……」
「そ、そんな事無いっス! 望月さんが謝る必要なんて……!」
頭を下げるアリスを、真琴は必死に庇った。
「じゃあ、ボクも新谷さんを許すよ」
「えっ……?」
躊躇い無く言ったアリスに、真琴は唖然となる。
当のアリスは、当然と言った表情だ。
「新谷さん自身が一番自分を責めてるみたいだし、ボクはもう良いよ。
お兄ちゃんが信頼する人なら、ボクも信じられるし。
この件は……え〜と……『暖簾分け』って事で」
「……『痛み分け』?」
藤原と明が、同時に言った。
アリスが特に気にする様子は無い。
「どうして……私を庇おうとするっスか?
校内を案内した人が、一緒に昼食を食べた人が、裏切ったんスよ?
藤原先輩だって……私は……」
真琴が、震える声で尋ねる。
「ボクは、今まで何度も許して貰ったから。
十年前に、ウソを吐く事を許して貰えた。八年前に、魔術師である事を受け入れて貰えた。
そして一昨日、自制の利かなかった自分を許して貰えた。
だから、ボクは新谷さんを許してあげたい。……いや、許さなきゃいけないんだよ。
そして、その為には、どうしてこうなったのかを知らないとダメなんだ。
でないと、また同じ事が起こるかも知れない。
また……傷つけ合っちゃうかも知れない。そんなの、ボクは嫌だもん」
そんな真琴に、アリスは微笑んで答えた。
アリスに続く様に、
「何か裏が在るんだろ? 正直に言ったらどうだ?
許すにせよ、許さないにせよ、理由くらい言う義務があるんじゃないか?」
藤原が凛然と言った。
暫くの静寂の後、真琴は小さく頷く。
「私は……パパの様な……仕事を……したかったっス……。
何よりも……正義を重んじる……パパの様な……
命懸けで……戦争の醜さを……伝えようとしている……パパの……。
だから私は……記者として……正義を……貫きたかったっス……。
剣よりも強いペンで……私も……パパの様に……なりたかったっス……。
新聞部は……その一環だったっス……。
でも……入部して……気付いてしまったっス……。
道徳的な『正義』とは別の……集団の中の『正義』に……」
「裏新聞……だな」
真琴の話で、藤原は大体を察した。
真琴は、小さく頷く。
「裏……新聞?」
最近来たばかりの二人が、ほぼ同時に尋ねた。
「新聞部の悪趣味な連中が書いてる、プライバシーもへったくれも無い新聞だ。
先生が目を通す新聞は、それを誤魔化すカモフラージュと言っても言い過ぎじゃない。
同じく悪趣味な連中の需要が高いから、部費の大半をそれで稼いでいるらしい」
そんな二人に、藤原は簡単に説明した。
「詳しいね、お兄ちゃん……もしかして」
「まさか。秋原から聞いたんだ。あいつの情報網は広いからな」
補足を加えると、藤原は真琴に続きを促す。
真琴は小さく頷くと、更に話を続けた。
「自分で言うのも何スけど……私‥…部員では優秀な方っス。
少なくとも……部長に気に入られたのは……間違いないっス。
だから……裏新聞を書くメンバーに……誘われたっス。
丁重に断ったスけど……だけど……。
……私だけっス。今まで……部長の誘いを……断ったのは……。
他の部員は……不本意でも……部長には逆らえないっス。
それが……団体の中での『正義』っスから。
……でも……私は……納得出来ないっス。
他人を陥れる様な『正義』なんて……」
そこまで言って、真琴は一息吐く。
今日だって、部長に誘われて断った。
弱者を守るのが『正義』の筈だ。
真逆のベクトルに在る『正義』などに、手を貸せる訳が無い。
「そんな私っスから……部には快く思わない人も居るみたいっす。
部室に居る時に……直接聞く訳じゃ無いっスけど……確かに感じるっス。
『良い子ぶりやがって』『ちょっと成果出しただけで調子乗るな』
『部の和を乱すなよ……』『正義の味方のつもりか?』『やる気無いなら辞めちまえ』
……それでも……私は考えを曲げなかったっス。
後ろ指を指されても……気付かない振りをしたっス。
『正義』たるもの……少々の弾圧で挫ける訳には……いかないっスから。
……あっと言う間でしたね。それが……崩れたのは。
もしかしたら……知らないうちに……色々と限界が来ていたのかも……知れないっス。
好奇心に駆られた自分を……止められないなんて……。
……もう……解ったっスよね? 私は、正義でも何でもなかったっス。
途中で投げ出すのは……何もしなかったのと……大して変わらないっスから」
一通り話し終えると、真琴は自嘲気味に溜め息を吐いた。
改めて、自分の偽善者振りが良く判る。
上からの圧力、横からの重圧、自分の中の弱い心。
それらに決して屈しないのが、本来の『正義』の筈なのに。
自分は、それらに負けてしまった。
偽りの正義なのだから、当然なのだろう。
それでも、ショックだった。
今まで拠所にしていた『正義』が無くなれば、自分は何をすれば良い?
全てを失った自分は、何の為に生きれば良い?
丸腰で外に放り出された様な虚無感が、真琴を襲った。
「もう……諦めてしまうんですか?」
「え……?」
明の一言に、真琴は怪訝な表情を浮かべる。
「一度挫けただけで、立ち上がれなくなる程度の信念だったんですか?
本当に貫きたい信念なら、たとえ何度地を嘗めても、その度に立ち上がる筈です。
簡単に手が届かないから『理想』……私は、そう思います」
諭す様に話す明に、真琴は何も言えなかった。
更に明は続ける。
「貴女の信念は、これからじゃないですか。
何度膝を付いても、立ち上がれなくなるまで戦い続ける……
それが、本当の『正義』だと思いますよ」
「でも、私はきっと……また膝を付くっス。
一度諦める癖が付いたら、そうそう直らないっスから」
真琴は、自嘲気味に反論した。
もう、真琴には自信が無かった。
また同じ様に、圧力や負の心に負けてしまいそうな気がして。
そんな未来が、目を閉じたら浮かんでくる気がして。
明の話を続ける様に、アリスが口を開いた。
「新谷さんは、今まで一人で頑張ってきたんだよね?
物理的には皆で居ても……心は一人だったんだよね。
だったら、もう大丈夫だよ。もう、新谷さんは独りじゃないもん。
今まで、その事を誰にも言えなかったんでしょ?
それを言えたなら、きっと何かが変わるよ。ボクもそうだったし……ね」
そう言って、アリスは藤原の方を見る。
藤原は、照れ臭そうに目を逸らした。
「ま、新聞部は、かなり上下関係が厳しいらしいからな。
寧ろ、真琴は長く持った方じゃないのか? 早い奴は一月持たないらしいし……。
折角そ今まで頑張ったんだから、もう一度くらい頑張ってみたらどうだ?
俺や秋原や堀は、お前の味方だ。アリスもそうだろ?
流石に、余所の部に出しゃばった事は出来ないけど、後ろ盾くらいにはなれるぞ。
一人で出来ない事も、誰かが手を貸せば、どうにかなるかも知れない」
藤原も続ける様に言い、とうとう三人掛かりになった。
三人の言葉が、真琴の中で何度も繰り返される。
自分は、もう一度『正義』の為に立ち上がれるだろうか。
彼らが支えてくれるなら、もう一度頑張れるだろうか。
その答えが出るのに、それ程時間は掛からなかった。
今までは、ずっと一人で『正義』を叫んできた。
だが、一人では何かと限界がある。
支えがない、求められてもいない『正義』に、大きな力は無い。
しかし、今、自分は支えられようとしている。
『正義』を叫ぶ事を、求められようとしている。
ならば、もう、迷う理由は無い。
「私が貫くべき『正義』は……これっス」
そう言うと、真琴はデジカメのデータを消去した。
――これで、良いっス。
自分が貫くべき『正義』は、道徳的な物でも、団体の中での物でもない。
自分が信じた、自分だけの『正義』だ。
何を以てしても揺らぐ事の無い、自分自身だ。
「望月さん、藤原先輩、明さん、本当にすみませんでした。
……そして、本当にありがとうございました。
私、ようやく『正義』を見付ける事が出来たっス」
真琴はソファから立ち上がると、深々と頭を下げる。
「そうですか……。信念を貫く事は、決して容易ではありません。
四方八方からの弾圧にも、貴女は耐えられますか?」
「はいっ! 求める声が在る限り、最後に必ず正義は勝つっス!」
威勢良く返事をしながら上げた顔には、屈託の無い笑顔が戻っていた。
「もしもし。俺だ。――そうか。取り込み中に済まんな。
――あの真琴嬢が、新聞部部長の魔の手に狙われているのだ。
――ああ。部員に電話で直接聞いたのだから、間違い無かろう。
――その心配は無い。彼女はもう……独りで悩む必要が無いからな。
――うむ。無論そのつもりだ。真琴嬢の為とあらば、皆も躊躇うまい。
お前に頼みたいのは――ああ、そうだ。新聞にエッセーを載せているお前なら、発言力も強かろう。
俺は、現美研の連中に協力を要請する。新聞部の返答次第では、強硬手段も辞さん。
かの新聞部も、流石に将棋部・文芸部・現美研・プラスアルファの圧力には耐えられまい。
――ふっ、こう言う労力は惜しまん。彼女の苦悩を見抜けなかった俺にも、責任の一端は有る。
――判った。詳しくは追々話そう。彼女のペンを握る手、汚すわけにはいかんからな。頼んだぞ……棗よ」
「じゃあ、私はそろそろ帰るっス」
真琴の涙も乾いた頃。藤原家の玄関。
真琴は色々と吹っ切れたらしく、すっかり笑顔が戻っていた。
その手には、明のデータを消去したデジカメが有る。
アリスの膨れっ面の写真は、彼女だけが知る秘め事だ。
「そう言えば、鞄はどうするの、マコちゃん?」
「そうっスね……特に大事な物も入れてませんし……。……マコちゃん?」
自分の名前である事に気付き、真琴が尋ねる。
アリスは頬を紅く染めて、少し俯いて上目遣いで見つめて、
「真琴だから、マコちゃんなんだけど……。
その……ぼ、ボク達……もう、友達……だよね……?」
指をモジモジさせながら尋ねた。
その仕草に、真琴は一気に興奮し、
「も、もちろんっス! 全然OKっス!」
迷わず即答した。
「あ、あの……その代わりと言っては何ですけど……
私だけが望月さんや藤原先輩の秘密を知っているのもなんですし……
その……私の秘密を……聞いて欲しいっス……」
そして、少し躊躇いつつも、話を始める。
「私‥…小さい子供が好きっス。普通の人の『好き』よりも、きっと、ずっと。
だから……その……え〜と……何と言うべきか……」
真琴は暫く悩み、覚悟を決めると、何度か深呼吸をした。
「私、望月さんが大好きっス!」
「え……ええええええぇぇぇっ!!!?」
唐突過ぎる真琴の告白に、アリスは驚きを隠せなかった。
初めての体験に、アリスの頭の中で、得体の知れない何かがグルグルと廻る。
「で、でも、ボク、子供じゃないよ!?」
パニックになりつつも、アリスは必死に否定した。
が、
「年齢はそうかも知れないっスけど……」
そう言いながら、真琴はアリスの頭に手を乗せる。
十五センチ以上も身長差があるので、子供が宥められている様に見えてしまう。
「こんなに身長が低いし……」
そう言って、今度はアリスの胸を触る。
高校生の女性にしては、全くと言って良い程膨らんでいなかった。
「胸も全然っス♪」
「な、何するんだよ!?」
嬉しそうに言う真琴に、アリスは思わず紅潮して後退る。
「くぁ―――――! 真っ赤になった望月さんも可愛いっス!」
しかし、そんな仕草すらも、真琴を発狂させる要素になってしまうらしい。
理性を失った真琴が、少しずつアリスに歩み寄る。
アリスの目の前に立つと、姿勢を低くして同じ目線になる。
「えっ……な、何……?」
アリスの側頭に両手を添え、動かないように固定する。
「まさか!? だ、ダメだよ! ボクには――!」
アリスの言葉を無視して、真琴は彼女の額にそっと口付けをした。
その瞬間、二人の周りに、百合の花が咲き乱れる。
未知の世界を垣間見たアリスは、その場で固まる。
真琴は数歩下がり、
「じゃあ、また明日っス♪」
弾んだ声で言い、軽快な足取りで駆けていった。
アリスは暫く、その場で立ち尽くす。
そして、ゆっくりと藤原の許へと歩み寄った。
顔は、既に半泣きだ。
それを隠す様にして、アリスは藤原の胸に顔を埋める。
細い腕を背中に回して、ギュッと抱き付いた。
「お兄ちゃん……ボク……ボク……!」
「判ったから皆まで言うな」
藤原も流石に哀れに思ったらしく、素直に抱き付かれた。
だがそれ以上に、アリスが自分の力で友達を作る事が出来た事が、嬉しかった。
昔は、只々自分の後を付いてくるだけだったからだ。
普通の人ではないとは言え、助力無しで対人関係を築けないのは、色々と厳しい。
そんなアリスが、確かに一人で歩き始めたのだ。
どうやら、もう、只の甘えたがりではないらしい。
もちろん、当のアリスはそれどころではないが。
「一段落つきましたし、紅茶はいかがですか?
望月さんも元気になられた様ですし、お茶菓子も出しますよ」
「うんっ♪」
だが、明の提案によって、一瞬で回復した。
――やっぱり、まだまだ子供か……。
藤原は、安堵にも似た溜め息を吐いた。
八年ぶりの土地で得た友達は、アリスに何をもたらすのだろうか。
少なくとも、それは決して安穏な物ではないだろう。
「百合か……ふっ、それも悪くない。だが、魔女っ娘はキリシタンではないであろうな……」
「…………」
「……どうしたのだ、堀よ?」
「後半の僕は……出オチ扱いですか……」
「ふっ……何を言い出すかと思えば。お前は、素晴らしい物を得たではないか」
「えっ……?」
「地味キャラと言う、不動のポジションだ」
「……そう……ですか……」
どうにか『家政婦を見られた』編も終わりました。
暫くは、少し短めの話をアップしていこうと思います。