家政婦を見られた その六
「――傷の処置は、一通り終わりました。
そのうち目を覚ますと思います。暫く寝かせておいてあげましょう」
藤原家のリビング。
気を失ったままの真琴をソファに寝かせて、明は怪我を診ていた。
幸い、大した怪我は無く、どれも絆創膏で済む程度だ。
明の言葉に、テーブルを囲んでいた一同――藤原とアリス、秋原に掘――は胸を撫で下ろす。
アリスは、自責の涙で顔がボロボロである。
「お兄ちゃん……ごめんなさい……ボク……また……!」
そして、藤原に必死に謝っていた。
今回は、とうとう負傷者を出してしまったのだ。
いくら謝っても、到底謝り切れない。
「もう良いって。同情の余地が有るし。……第一、謝るべきなのは俺じゃないだろ?」
藤原は、そんなアリスの涙を拭っていた。
付近から羨望の眼差しを感じるが、敢えて無視する。
「新谷さんは、望月さんによって、身体に傷を負いました。
しかし、望月さんが負った心の傷も、同等の物ではないでしょうか?
……少なくとも、私はそう思いますよ」
明も、アリスをフォローする。
そして、全く手が付けられていない紅茶を、再び勧めた。
少し落ち着いたのか、アリスはゆっくりとそれを飲む。
楽しみにしていた筈なのに、およそ味と呼べる物を感じる事が出来なかった。
「等価交換と言ってな……」
唐突に、秋原が口を開く。
如何な内容でも口調は真面目だが、今回は特に真剣な雰囲気だ。
「何かを得るには、何かを捨てなければならない。
同様に、何かを守るには、何かを傷付けなければならんのかもな……」
「じゃあ、これからも新谷さんを傷付け続けるの!? そんなの嫌だよ!」
秋原の話に、アリスは激しく反発した。
自分や家族の為とは言え、そんな事は出来ない。
これ以上、自分の所為で誰かが傷つく事には耐えられない。
きっと、まだ、何らかの方法が残っている筈だ。
絶対に、誰かを傷付ける手段だけは選びたくない。
「ふっ……ならば、相応の努力が必要であろうな。
魔女っ娘アニメは、正体がバレたら最終回を迎えねばならん。
これは、触手攻めと並ぶ暗黙の了解だ。誰にも覆す事は出来ん」
「結局それか……」
秋原の言葉に、藤原は溜め息を吐いた。
珍しく真面目な話をしていると思えば、最後にはこれである。
耳を傾けた自分に、改めて自己嫌悪を抱いてしまう。
「まあ、そう言ってくれるな。そうでなくとも今回の俺達の出番は少ないのだ。
今のうちに喋らねば、本当に後半の台詞が一行のみになってしまうであろう」
『俺達』に反応し、堀が何か喋ろうとした時、
「ん……んんっ……」
真琴が小さく声を上げた。
「もうすぐ起きそうだ。アリス、一旦部屋から出ていけ」
「え……何で?」
「真琴が、興味本意だけで俺達を追い回したとは思えない。
だから、じっくりと話を聞きたいと思う。あんな事の後だ。お前が居たら話し難いだろ。
秋原や堀も、居ない方が良いな。大勢の前じゃ言い辛いだろうし」
「うん……」
藤原の言葉に、アリスは何度も真琴を気に掛けながら部屋を出ていく。
「やはりな……行くぞ、堀」
秋原も――何か言いたげな堀を半ば強引に連れて――出ていった。
部屋には、藤原と明と真琴の三人だけになる。
それと同時に、真琴が目を開けた。
「あれ……私‥…?」
目が虚ろなまま、上体を起こす。
どうやら、まだ現状が飲み込めないらしい。
「目を覚ましたか……心配したぞ」
「大丈夫ですか? 痛む所は在りませんか?」
藤原と明は、あくまでも優しく対応した。
自分が最も解っているであろう罪を、これ以上責めても意味が無い。
冷静に事情を話して貰う為にも、無意味に刺激する事は避けなければ。
「……そうでした……私は……私は……!」
手や脚の絆創膏に気付いて、真琴は現状を理解した。
アリスと藤原を尾行して、大変な物を見てしまって、当然の報いを受けて……。
自分の悪行を改めて思い出すと、急に目頭が熱くなってくる。
猛烈な罪悪感と自責の念が、そうさせているのだろう。
少なくとも、決して傷の痛みではなかった。
何か喋ろうとすると、涙が溢れてしまいそうだ。
それでも無理矢理口を開くと、案の定次々と涙が伝い始める。
一度湧出した涙は、思う様には止まってくれない。
人前だと言うのに、とうとう嗚咽まで上げて泣き出してしまった。
「やれやれ……『そっちの傷』は重傷みたいだな」
藤原は、そんな真琴にハンカチを渡し、頭をそっと撫でてやる。
ドアの向こうから、男性一人分の『声にならない声』が聞こえるが、無視した。
「紅茶はいかがですか? 気分が落ち着きますよ」
答えを聞かずに、明はキッチンへ向かった。
止め処なく溢れる涙をハンカチで抑えている真琴を見て、藤原は確信する。
――絶対に、只の興味本意じゃない。
自分のしてしまった事を、これ程後悔しているのだ。
責任を他人に擦り付ける様な、責任すら自覚しない様な下衆とは違う。
彼女は間違いなく、自分の知っている『新谷真琴』だ。
恐らく、何かしらの発端が在るのだろう。
如何な時間を掛けても、何としても、それを聞き出さなければ。
真琴の為に、そして、アリスの為にも。
紅茶が冷め切った頃、ようやく真琴は落ち着き始めた。
ハンカチを藤原に返すと、小さな声で洗面所の場所を尋ねる。
藤原が答えると、真琴は洗面所に向かった。
そして、それ程掛からずに戻って来る。
顔を洗った様だが、泣いた後はまだ残っていた。
色々と覚悟が出来たのか、再びソファに座る。
「もう、大丈夫か?」
藤原が尋ねると、真琴は小さく頷いた。
涙こそ止まったが、まだ表情は曇っている。
声を殆ど出さないのも、また泣き出しそうな気がするからだろう。
「初めまして。メイドの西口明と申します。
光様の御両親が海外赴任の間、この家の事を任されました。
不束者ですが、以後よろしくお願いします」
真琴の様子を見計らって、明は自己紹介をする。
まだ驚きを隠せないらしく、真琴は怖々と頭を下げた。
「ま、普通は驚くだろうな……。取り敢えず、そう言う訳なんだ。
本題に入りたいから、ひとまず今は納得してくれ」
そんな真琴を半ば強引に納得させ、藤原は続ける。
「まず……明さんを、撮ったか?」
藤原の質問に、真琴は小さく頷いた。
そうか……と藤原は呟き、更に続ける。
「じゃあ、アリスの……その……何て言うか……」
「魔法……スね?」
藤原が言葉を選んでいるうちに、真琴が小さく言う。
その言葉で全てを確認出来た藤原は、只溜め息を吐いた。
「撮ってないっスから……大丈夫っス……」
真琴は、再び小さく呟く。
撮ったか否かの問題ではない事は、真琴も十分承知していた。
「……こんな筈じゃ……なかったっス……」
著しくトーンが低い声で、真琴は細々と話し始めた。
普段の真琴からは想像も出来ない程の声だが、二人は黙って耳を傾ける。
「私は……只……望月さんと……藤原先輩の関係が気になって……。
背徳的な……行為なのは……判って……いたっス……」
でも……私は……好奇心に……負けて……しまったっス……」
何度も言葉を詰まらせながら、真琴はゆっくりと話した。
段々顔が俯き始め、比例するかの様に涙声になってくる。
「でも! あんな事になるなんて、本当に思わなかったっス!
望月さんを傷付けるつもりなんて……本当に……本当に……!」
急に、真琴の声が強くなった。
何の言い訳にもならない事は、本人が一番判っている。
それでも、自分の中の防衛本能が、自然と口を動かしていた。
言ってしまってから、真琴は更なる自己嫌悪の深みに沈む。
――どうして、この期に及んで自己弁護なんて……!
早足で『理想』から遠ざかっている自分を悟ると、冷め始めたばかりの目頭が再び熱せられる。
一度目のそれと比べて、二度目のそれはいとも簡単に溢れ出した。
「お、おい!?」
そんな真琴に、藤原は狼狽した。
知らず知らずのうちに、きつい状況に置いてしまったのだろうか。
話を聞きたいのに、これでは埒が明かない。
「無理なさらないで下さいね。冷めてしまいましたけど、紅茶はいかがですか?」
明は動じる事無く、尚かつ優しく対応した。
そんな二人の優しさに、真琴は尚更自己嫌悪に陥る。
揺らぎ始めた『自分』が、自分の何もかもを否定的に捉えていた。
――きっと、こうやって二人に取り入ろうとしているんだ、私は。
こうして弱い自分を見せていれば、相手に強く責められない事を知っているのだ。
ジャーナリストとして『正義』を目指していた自分は、本当は只の狡猾な人間だったのだ。
父を嫌っていたあの頃から変わらない、我が身が最も可愛い人間だったのだ。
そう悟った途端、今までの『自分』が、音も立てずに崩れていった。
自分が欲しかったのは、こんな『自分』じゃない。
自分の『理想』は、揺るぎない信念を抱いて離さない、父の様な人だった筈だ。
それが、今はどうだろう。
上からの圧力に負け、己に負け、それでも尚傷付く事を恐れている。
『理想』には遠く及ばない、矮小で低劣な人間ではないか。
――私は、何て醜いのだろう。何て醜いのだろう、私は。
自己防衛の為の涙は、止まる気配を見せなかった。
「新谷さん……」
リビングと廊下を隔てるドアに背を預けて、アリスは呟く。
真琴の本音が垣間見える度に、胸の奥に刺す様な痛みを覚えた。
――新谷さんが、あんなに思い詰めていたなんて。
自分は、何も解っていなかった。
只怒りのみに任せて、彼女を心身共に傷付けてしまった。
傷付けたのは、身体だけではなかったのだ。
「ふっ……どうする、アリス嬢? このままでは、真琴嬢は全てを受け入れられなくなってしまうが?」
「えっ……?」
同じく廊下で話を聞いていた秋原が、アリスに話しかける。
だが、アリスにはその意味を解する事が出来ない。
「真琴嬢とは、それなりに付き合いが長いのでな……。
汚い事を何よりも嫌う事も、真っ直ぐ過ぎる程に真っ直ぐな性格である事も解っている。
恐らく彼女は、許しを請おうとしている自分にさえも嫌気がさしている筈だ」
「そんな……!」
秋原の言葉に、アリスは愕然となった。
それでも、秋原は淡々と話を続ける。
「真っ直ぐなのも、度が過ぎると考え物だ。
如何様な生き方をしても、潔白のまま生涯を閉じる事など有り得ん。
自分で思っている以上に、『自分』とは醜い生き物だからな。
例えば、一時の感情が理性をも凌駕する事は、先程の件で明らかであろう?」
「そ、そうだけど……」
「大抵の者は、『皆もそうだから』とか、『〜〜だから仕方無い』とか理由を付けて、自分を正当化する。
素の自分を直接受け止めていては、身が持たんからな。
……だが、真琴嬢は、それが極端に苦手だ。恐らく、理想が大き過ぎるのであろう。
理想と現実のギャップには、誰もが苦しむ。真琴嬢なら、尚更の事だ。
悪行を犯して尚、許しを請おうとしている『自分』に失望しても、不思議ではない」
「…………」
アリスは、声すら出なかった。
――許して貰う事すら、新谷さんにとっては悪い事なの?
そんな筈が無い。
他人を傷付けずに生きられる程に器用な人間なんて、居ない。
――現に、ボクは……。
数日前に起こした事件を思い出し、胸がチクリと痛む。
今日の真琴や自分と同じく、一時の感情に全てを支配された事が原因だ。
あの時は何もかも滅茶苦茶にしてしまって、皆に迷惑を掛けてしまった。
……でも、自分は許して貰えた。
許して貰えたから、藤原達と、普通に接する事が出来る。
そんな自分が、今、すべき事は……。
「アッキー、ボクは……」
「まあ、こう言う場合、当事者が最も良い案を思い付くものだ。
アリス嬢が正しいと思うなら、俺は止めはせん。
……早くした方が良い。自分を信じられなくなれば、他人も信じられなくなる。
そうなれば、誰の声も届かなくなり……ふっ、これ以上は言うまでもあるまい」
「……ありがと、アッキー」
秋原に背中を押されたアリスは、リビングと廊下を隔てるドアを開け放った。
「ふっ……手を貸すとするか」
そう呟くと、秋原は携帯電話を手に取る。