家政婦を見られた その五
「良かったのか、あんな事して?」
少女が去っていった後、藤原はアリスに問う。
幼い事に自分を苦しめた魔法の力を、躊躇い無く使ったのだ。
流石に、年上扱いされた事だけが理由とは考え難い。
藤原にとっては、不思議な事である。
「うん。少なくとも、後悔はしてないよ」
当のアリスは、ずいぶんとサッパリしていた。
更にアリスは続ける。
「ボク、最近思ったんだ。
目の前に居る人の為なら、魔術を使っても良いんじゃないかなって。
今までは、この能力の所為で自分の存在意義が判らなかったけど、
『魔術師』は『ボク』の一部でしか無いって思ったんだ。
『魔術師』の力を使う事で『ボク』の存在を認められるなら、
それも間違ってないかなって……どうかな?」
自分の心境を話し、アリスは藤原に尋ねた。
同意を求める為のそれではなく、純粋に、藤原の意見を聞きたい様だ。
「……ま、アリスがそう言うなら、俺は別に良いんだけど」
藤原は、特に否定はしなかった。
アリスも、徐々に成長しているのだろう。
存在を認めてくれる事を求める一方だった彼女が、自ら存在意義を見出そうとしているのだ。
『魔術師』と言う檻に閉じ込められていた彼女が、それと向き合い始めたのだ。
昔のアリスを知る藤原にとっては、喜ばしい事である。
アリスが友達付き合いを苦手としているのは、彼女の生まれによるものだろう。
だが、きっといつか、それを乗り越える日が来る筈だ。
少なくとも、その時までは、彼女の生きる理由で在り続けよう。
アリスを横目で見ながら、藤原は固く誓った。
そんなこんなで、藤原の家が見えてくる。
「アリスは、こっちの道で良いのか?」
この数日は押しかけてきたから訊かなかったが、藤原はアリスの現住所を知らない。
恐らく、家の近くなのだろうが……。
「うん、前と住所同じだから」
と言う事は、八年前と同じ、走って三十秒の場所にあるのだろう。
流石に毎日押しかけられては、藤原の身が持たない。
近いうちに、何かしらの対策を考えなければならないだろう。
そう思っているうちに、藤原宅の前に着いた。
庭では、明がメイド服姿で掃除している。
「……あ、光様。お帰りなさいませ」
藤原とアリスに気付き、明は笑顔で迎えた。
二人も、それに応える。
「間も無く掃除が終わりますので、紅茶を煎れましょうか?」
「うん、お願い!」
明の誘いに、藤原よりも早くアリスが反応した。
先日の件の後始末をしている時、明が煎れた紅茶を、かなり気に入ってしまったのだ。
実際、彼女の煎れる紅茶は、スーパーで購入した茶葉とは思えない逸品で、堀や秋原も絶賛していた。
当然、藤原も例外ではない。
「光様さえよろしければ、私は構いませんよ」
突然の客にも、明は寛大であった。
こうなると、藤原には選択の余地が無い。
「……ま、別に良いか……」
――だ、誰っスかあの人!?
当たり前の様に藤原宅を掃除している女性に、真琴は思わず叫びそうになった。
よく見てみると――否、普通に見ても、彼女が着ている服はメイド服だ。
西洋のロングドレスにエプロン、更にヘッドドレスとなれば、間違える訳が無い。
メイドの何たるかを理解していないバラエティ番組やメイドカフェ以外で見るのは、これが初めてである。
藤原宅、女性、メイド服。この三つが示す答えは……!
意外だ。藤原は女性関係の話とは無縁だと思っていたのに。
今までだって、新聞部の情報網を以てしても、そんな話は聞いた事無かった。
精々、去年の将棋部部長との関係が、僅かに噂された程度である。
――あれ? ちょっと待つっス……。
アリスは、明らかに藤原に好意を抱いている。
久しぶりに藤原と再会したのだから、さぞかし喜んでいるのだろう。
しかし、藤原宅に居る彼女は……。
どんなに頑張っても、想像が昼ドラの様な泥沼へと発展してしまう。
藤原に限って、そんな事は有り得ないと信じたいのだが……。
「おや、真琴嬢ではないか。どうしたのだ?」
「えっ!? ひ、ひゃわぁっ!?」
秋原が声を掛けると、真琴は驚いて飛び退いた。
予想外のリアクションに、秋原はもちろん、連れていた堀も驚く。
「あ、秋原先輩!? え、えっと、あの、私は、その……」
真琴はどうにか会話をしようとするが、まるで文章になっていない。
「お、二人共、早かったな。……あれ、真琴?」
急に騒々しくなったので、藤原達も三人の存在に気付いた。
それと同時に、藤原は真琴がここに居る理由を考える。
制服姿だが鞄らしき物は持っておらず、代わりにデジカメを持っている。
そして、今、藤原宅の庭に居るのは……。
藤原が全てを悟った時には、真琴は既に逃げ出していた。
校内でもトップクラスを誇る脚は、ぐんぐんその場から離れていく。
真琴は走りながら、自分自身を責めていた。
こんな筈ではなかった。こんな筈ではなかった。
自分がジャーナリズムに求めたのは、こんな事ではない。
ここまで判っているのに、何故自分は逃げているのだろう?
答えが見つからないまま、真琴は走っていた。
しかし間も無く、右手首を掴まれ、グイと引っ張られる。
――私に追いつくなんて……。
驚きを隠せないまま、真琴は足を止めた。
一気に全身を気怠さが襲い、呼吸が荒くなる。
振り向くと、自分の腕を掴んでいたのは、アリスだった。
自分と同じ様に、肩で呼吸をしている。
少し経って、まだ呼吸が落ち着かないまま、
「どうして!?」
アリスは叫んだ。
「どうして……!?」
そして、絞り出す様な声で、同じ事を叫ぶ。
見上げる瞳は、激昂を帯びて、真琴を突き刺した。
それは決して、自己紹介の時の緊張した面持ちでも、
昼の屋上で見せてくれた無邪気な表情でも、さっきの子供に見せていた優しい表情でもない。
只々、怒りと憎しみのみが、その顔に映っていた。
アリスの目に串刺しになったまま、真琴は改めて己の行動を後悔する。
――新谷さんと、友達になれそうだよ♪
あの時に、止めておけば良かった。
自分は、およそ最低の行為をしてしまったのだ。
そんな自分に、気を許した表情を見せてくれる訳が無い。
何故、こんな事になってしまったのだろう。
自分のしたかった事は、自分がすべき事は――
真琴を捕まえたアリスは、既に全身を憎悪に支配されていた。
平穏を犯そうとする憎々しいその人を、怒りに任せて殴りつける。
暴発寸前の魔力を込めた殴打は、その人を数メートル吹っ飛ばした。
人の後を付けて、秘密に踏み込むだなんて、信じられない。
こいつに魔法をバラされたら、もう平穏な生活は不可能だ。
絶対に、こいつをこのまま帰してはならない。
無事に帰してはならない。生きて帰してはならない。
倒れたまま動かないその人に、アリスは早足で歩み寄る。
その人は頭を打ったらしく、グッタリと横たわったまま動かない。
――でも、まだ、こいつは息をしている。
止めを刺すべく、アリスは両手に魔力を集め始めた。
詠唱によるコントロールの伴わない魔力は、アクセルのみの車と同じだ。
もちろん、今のアリスに、そんな事は頭に無い。
――あと少しで、こいつを消せる程の魔力が溜まる。
一種の安心感さえ覚え始めた時、突然身体を温かい感触が包んだ。
「……そうじゃ……ない……だろ……?」
そして、世界で一番大切な人の声が聞こえる。
ここまで必死に走ってきたらしく、言葉が途切れ途切れだ。
その一言に、アリスの昴ぶっていた感情が、見る見る静まっていった。
平静を取り戻した身体は、集めていた魔力を安全に静める。
狭まっていた視野が広がると同時に、自分がしてしまった事をまざまざと認識する。
頭から血の気が引いていき、その場に力無くへたり込んだ。
私は、物心付いた頃から、パパが嫌いだった。
仕事で家に居ない日の方が圧倒的に多くて、私やママの誕生日さえメールで済ます。
運動会も、卒園式も、入学式も、その他家族ですべき行事も、パパが参加した事は無い。
パパが休日にどこかへ連れて行ってくれるなんて、私にとっては有り得ない。
きっと、ママが一人でどれだけ大変なのかも知らないのだろう。
そんなパパが、私は嫌いだった。
「ママは、本当にパパの事が好きなの?」
ある日の夕食の時間、私はママに尋ねた。
ママは一瞬驚いて、すぐにクスクスと笑う。
そんなに変な事を訊いたのだろうか?
「好きじゃなかったら、こんな生活している訳無いでしょ」
そして、ママは笑って言った。
「真琴は?」
すぐにママが返してくる。
私の答えは、言うまでもない。
「そっか……。真琴の気持ちも、良く解るわ。
でもね、真琴。私は、仕事をしている真っ直ぐなパパが好きになったのよ。
だから私は、仕事を理由にパパを嫌って欲しくないの」
何故、ママはパパの弁護をするのだろう?
私には、とても理解出来なかった。
お互いに助け合って、温もりを感じ合って、
同じ理由で泣いたり怒ったり笑ったりするのが、私の思う『夫婦』だからだ。
ママは、今、とても淋しい筈なのに。
私では到底埋められない穴が、心の真ん中に空いている筈なのに。
寝惚け眼で、パパの名前を呼びながら、私に抱き付いてきた事もあったのに。
その事を話すと、
「真琴は優しいのね……。そう言う所、パパにそっくりよ」
微笑みながら私の頭を撫でてくれた。
最早、理解不能だ。
でもね……とママは小さく呟いて、更に続ける。
「どんなに淋しい思いをしても、好きな人には『好きな人』のままで居て欲しいの」
やっぱり全然解らなかった。
これでは、仕事を理由に帰って来ない人が、ママの『好きな人』と言う事になる。
そんな淋しい関係が、『女の幸せ』と呼ばれる物の筈が無い。
「じゃあ、パパは、どんな仕事をしているの?
ママが好きになった人は、何の為に、まともに家に帰って来ないの?」
「……そっか、真琴は知らなかったっけ。ちょっと待ってて」
そう言うと、ママはリビングから出て行く。
階段を上がる音が聞こえ、間もなく真上のママの部屋から足音が聞こえる。
少し経って、階段を下りる音が聞こえ、リビングのドアが開いた。
「お待たせ」
ママの手には、何枚かの紙が有った。
机の上に広げられて、それが写真である事が判る。
それらには、ボロ布を纏った、痩せ細っている、明らかに日本人ではない子供の姿や、
見るも無惨な、建物だったと思われる瓦礫の山が写されていた。
「…………?」
「これが、パパの仕事。戦争の醜さを伝える為に、戦地で写真を撮っているのよ」
「……戦争?」
「命の重みを知らない大人達が、相手も同じ命である事が解らない大人達が、
命に比べれば取るに足らない何かの為に、国中の命を巻き込んで起こす殺し合いの事よ」
「…………」
ママの答えに、私は何も言う事が出来なかった。
信じられなかったのだ。
朝はママに起こされて――時々私が起こして――朝食を食べ、
学校に行き、授業を受けて、友達と色々喋って、家に帰り、ママが出迎えてくれて、
宿題をして、夕食を食べ、テレビを見たりして、自分の部屋に戻って寝る。
そんな毎日が、多少の差異が在るにしても、どこでも当たり前だと思っていたのに。
国を挙げて殺し合いなんてしていたら、到底不可能な事だろう。
不思議だった。
私がこうしている間にも、どこかで誰かが理不尽な殺し合いに巻き込まれている事が。
もしかしたら、私は、偶々平和な場所に生まれただけなのかも知れない。
運次第で、生きる事で精一杯な生活を強いられていたかも知れない。
あるいは、既に命すら失っていたかも知れない。
そう思うと、今のこの生活は、死体の山の上に成り立っていると言う考え方も出来る。
だとすると、それはとても恐ろしい事だ。
「戦争は、何としても止めなければならない事なの。
『平和なんて綺麗事だ』って言う人も居るけど、私はそうは思わないわ。
だって、今、戦争を止める事を諦めたら、次は私達が犠牲者になるかも知れないもの。
パパは、その為に具体的な行動を起こしているのよ。
戦地の人の為、そして、私達の為に。その事だけは、ちゃんと解って欲しいの。
そして……親が子供の将来を狭めてはいけないのは判っているけど、
出来れば、最後にはパパと同じ道を歩んで欲しいな、って思ってる」
ママは、私を諭し、写真を片付け始めた。
私は、黙って頷く。
「……さ、冷めないうちに食べましょう。なるべく残さないようにね」
それ以後の食事は、まともに箸が進まなかった。
様々な思いが、私の頭の中を巡っていたからだ。
私がパパに抱いていた思いは、間違いだったのだろうか。
私の安穏とした生活は、果たして『当たり前』なのだろうか。
そして、これから私がすべき事は――