家政婦を見られた その二
「はぁ〜……疲れた……」
一限目が終わり、アリスは溜め息混じりに呟いた。
HRが終わり、担任が出て行った直後に、
クラスのほぼ全員から質問責めを喰らったのだ。
それが一限目が始まるまで続いたのだから、堪ったものではない。
力無く突っ伏していると、
「まさか僕達と同じ学校だなんて……一言言って下されば良かったのに」
聞き覚えのある声が聞こえた。
顔を見上げると、案の定そこには見覚えのある顔。
「え〜と……誰だったっけ?」
しかし、名前までは出てこなかった。
「……堀です……」
どうやら、かなりショックを受けてしまった様だ。
暫く項垂れてから、どうにか立ち直った。
「それにしても驚きましたよ。一昨日はそんな事一言も……」
「あはは……あの時は、お兄ちゃんの事で一杯だったから……」
アリスが、照れ笑いながら言う。
「ところで堀君……校舎を案内してくれる?
とは言っても、お兄ちゃんの教室を知りたいだけなんだけどね」
「僕は別に構いませんけど」
「その役目、私が引き受けるっス♪」
堀が承諾しようとした時、一人の少女の声が、二人の会話に割って入った。
「……え?」
二人が、同時に声が聞こえた方を向く。
アリスのすぐ傍に、その声の主は居た。
身長は百五十センチより少し高め。
バランスのとれたスリーサイズ。
背中辺りまで伸ばしたポニーテール。
教室の喧騒の中でも良く聞こえる明るい声に、それに見合う明るい笑顔。
素直で誠実、と言った印象を受ける。
「君は……?」
「あ、申し遅れました。クラスメートの新谷真琴っス。
望月さん……でしたよね? これから宜しくお願いしまっス♪」
軽く自己紹介をして、真琴は頭を下げる。
「よ、よろしく……」
知らない人に親しげに声を掛けられ、半ば戸惑いつつアリスは応えた。
そうでなくても、さっき辱めを受けたばかりなのだ。
まともな対応が出来る筈も無い。
「新谷さんが引き受けて下さるんでしたら、任せましょうか。
校内の事も、僕より詳しそうですし」
そんなアリスの代わりに、堀が応対する。
「はい! 新聞部として校内を駆け回っているので、この学校の事ならお任せっス!」
「じゃあ、お願いします。……望月さん、そう言う訳ですから。
勝手なのは存じますが、これを機に新谷さんと仲良くなって頂ければと」
「えっ、あ、う、うん……」
いつの間にかとんとん拍子に事が進んでしまい、アリスは否応なく頷いた。
「では、昼休みに♪」
授業開始のチャイムが鳴り、真琴はそう言い残して席へと戻っていく。
堀も、一礼して自分の席に着いた。
「……これじゃあ、お兄ちゃんの教室訊けないよ〜!」
昼休みが始まると同時に、アリスは真琴に連行されていった。
教室から一番近い手洗い、職員室、保健室、視聴覚室、体育館、学生食堂と、
取り敢えず使用頻度の高そうな場所を案内され、校舎の大雑把な構造も教えて貰う。
藤原の教室は訊けなかったが、二年生の教室が上の階である事は判った。
そして最後に、屋上へと連れて行かれる。
「わぁ〜、気持ち良い〜!」
校舎内と屋外を隔てるドアを開けてすぐに、アリスは言った。
屋上は、とても心地良い風が吹いている。
晴天も相俟って、外に出るにはこの上なく最適な状態だった。
「でしょう? 一部で話題の人気スポットっス♪」
アリスの後から、真琴も屋上へ出る。
両腕をいっぱいに広げ、思いっきり伸びをしながら、アリスの許へと歩み寄った。
「ここで昼食を食べる人も居るので、一番最後にしたっス。
……どうやら、誰も居ないみたいっスね。今なら、私達の貸し切りっス♪」
嬉しそうに言って、真琴はどこからかパンを取り出した。
「と言う訳で、少し遅いっスけど、昼食にするっス♪
親交の証も兼ねて、このパンは私の奢りっス♪」
そして、笑顔でそれをアリスに手渡す。
アリスは戸惑いつつも、取り敢えず受け取る。
「……良いの?」
「女に二言は無いっス!」
――折角だし、貰っちゃおうかな?
アリスは少し悩んだ末、ここで昼食を頂く事にした。
屋上の真ん中に座り込んで、二人は昼食を取り始めた。
クリームパンと牛乳を飲み食いしながら、談笑出来るポイントを模索する。
何か一つ共通する価値観を見付ける事が出来れば、話に困る事はまず無くなる筈だ。
「あっ……ふふ、クリームが付いてるっスよ♪」
アリスの頬に付着しているクリームに気付き、真琴はそれを指で取った。
「はわわ、全然気付かなかった……」
アリスが、恥ずかしそうに頬を紅く染める。
その様子を見て、真琴はくすくすと笑った。
「……舐めちゃうの?」
真琴の指の先に移ったクリームを、アリスが潤んだ瞳で見つめる。
アリスの意図を悟った真琴は、アリスの目の前で、
クリームの付いた指を、蜻蛉を捕まえる時の様にクルクルと回した。
案の定、アリスはそれを目で追いかける。
思わず吹き出しそうになるのを何とか堪えて、
十分に楽しんでから、真琴はクリーム付きの指をくわえた。
「あああああぁぁぁぁっ!!!!!」
それと同時に、アリスが悲鳴に近い声を上げ、
「……ボクの……ボクの……!」
半泣きになりながら呟いた。
「ご、ごめんっス! 私の残り食べて良いっスから!」
予想以上のリアクションをされ、真琴は焦りながら自分のクリームパンを差し出す。
それを受け取って、一口食べ、どうにかアリスは平静を取り戻した。
「……あれ……ボクは一体何を……?」
真琴の『信じられない行為』以降の自分の言動を思い出せず、アリスは呟く。
が、自分の手元にある、二つの食べかけのクリームパンに気付き、全てを察した。
「あぁっ! ご、ゴメン! ボク、甘い物の事になると、正気じゃなくなるから……」
甘い物が絡むと、どうしても我を忘れそうになるのが、自覚している短所で、
酷い時には、魔力を暴発させかけてしまったくらいだ。
今のところ問題こそ起こした事は無いものの、もう少し『大人』にならなければ。
しかし、目の前のクリームパンの誘惑に耐えられる程、
アリスは大人の思考を持ち合わせていなかった。
「ふ〜♪ 美味しかった♪」
クリームパンを食べ終え、アリスは顔を綻ばせた。
「まだ、予鈴まで時間があるっス。どうするっス?」
携帯電話で時間を確認して、真琴がアリスに問う。
「う〜ん……じゃあ、もう少しだけここに居ても良いかな?」
「別に良いっスよ」
「判った。ありがと♪」
真琴に許可を貰うと、アリスはフェンスへと駆け寄っていった。
フェンス越しに見下ろす、八年ぶりの街の風景。
あれから、色々と変わったのだろう。
どこかの建物が立て替えられたかも知れない。
あるいは取り壊されたかも知れない。
新しい建物が建ったかも知れない。
ガタガタだった道が舗装されたかも知れない。
殆ど覚えてはいないが、それでもどこか懐かしい雰囲気が漂っている。
それを感じると同時に、自分がこの街に帰ってきた事を改めて実感した。
「……ただいま……」
誰に言うでもなく、アリスは呟いた。
「間接とは言え、唇を奪った責任は取ってもらうっスよ……♪」
外を見下ろしているアリスの背中を見ながら、真琴は呟く。
そして、指にまだ残っていた、アリスの頬に付いていたクリームを舐め取る。
「はぁ〜……見れば見る程、可愛いっスね〜……♪」
欲望で満たされた視線を、アリスに向けた。
身長と言い、容姿と言い、仕草と言い、どれもが心を擽る。
まさか、本当に頬にクリームを付けてくれるとは。
半泣きであれなのだから、泣き顔もさぞかし可愛いのだろう。
やはり、子供は良い。
無邪気な笑顔、無垢な瞳、純真な心、思わず突きたくなる頬……挙げれば限りがない。
今まで見かけた好みの子供は、全て写真に収めてきた。
だが、写真は写真以上の存在にはなれず、実物とはとても同一視出来なかった。
ずっと諦めてきた。子供は夢の中の生き物なのだと。
しかし、今日、奇蹟は起きた。
自分と同い年の女性が、好み通りの心身をしているなんて、とても信じられない。
しかも、自分と同じクラスで、こうして友達になろうとしているのだ。
撮りたい。否、それだけでは足りない。
折角目の前に居て、触れる事も可能なのだ。写真では出来ない事も沢山やりたい。
手を繋いだり、お喋りしたり、一緒に出かけたり……。
考えれば考える程、胸の奥が熱くなる感覚が強くなる。
これが、俗に言う『母性本能』だろうか。
「今は見ているだけで幸せっスけど……必ず私のものにしてみせるっス!」
麗らかな屋上で、一人決意を固める真琴であった。
その後、午後の授業も恙無く終わり、真琴は部室へと向かった。
校舎の片隅にある、今は使われていない教室が、真琴の所属している新聞部である。
部活動の功績から、生徒一人一人の成績表やスポーツテストの結果、
更には次のテストの内容までもが、ここで調べられていると言う。
充実している内容や、筆者の独特な切り口と文体等が話題を呼び、
全校生徒の八十%が校内新聞を購読している。
「こんちわーっス」
真琴が部室に入ると、既に何人かが部室に居た。
作業をしている者もそうでない者も、その姿勢のまま挨拶を返す。
真琴はまず、ホワイトボードに今日の予定を書いた。
――今日は、将棋部にインタビューっスね。
そして、仕事に必要な準備を一通り整える。
「新谷さん、ちょっと良いかしら?」
「あ、はい、何スか部長?」
準備中に、部長に声を掛けられる。
「貴女は、一年の割にはとても頑張っているわ。
他の部員からの人望も厚いし、業績も良いし」
「あ、ありがとうございます」
「でも、『表』の記事だけじゃなくて、『裏』の記事も集めてくれると嬉しいんだけどな」
「う、裏っスか……」
部長の言葉に、真琴は言葉を詰まらせる。
裏の記事とは、早い話が生徒の恋愛等、プライバシーに関わる記事だ。
「貴女も、部費の殆どが裏新聞の売り上げだって事、知っているでしょ?」
「は、はい……」
真琴は、今までずっと裏新聞への助力を拒否してきたのだ。
裏新聞の恩恵で、自由に活動出来ているのは解っている。
しかし、パパラッチ紛いの行為は、真琴が望んでいた事ではない。
「文芸部にエッセイを書かせた功績を買って言っているのよ。
彼、貴女以外の誰が行っても断る程の頑固者だったんだから」
「で、でも私は……」
「貴女がパパラッチ紛いの行為をしたくない、と言うのは判っているわ。
でも、したいとかしたくないとかじゃ、どうにもならない事もあるのよ。
いつも綺麗な仕事だけ出来る訳じゃないの。汚れた仕事も出来てこそ。違う?」
「…………」
とうとう真琴は黙ってしまった。
部長の言い分も間違ってはいない。間違ってはいないのだが……。
そんな真琴の様子を見て、部長は彼女の肩に手を置いた。
「ま、報道に正義を求める事自体、間違っているって事よ。
取り敢えず、今日の仕事を終わらせてきなさい。
答えはいつでも良いから。……良い返事、待ってるわね」
そう言うと、部長は他の仕事へと向かっていった。
「『大人』は……汚いっス……」
小さく呟いて、真琴は部室を出ていく。
――着くまでに、この表情をどうにかしないと。