多摩川ハイドロ・ブレイクアウト
──ヴァァァアアアンッ!!
白日の陽光から一転、1G-GTEの暴力的な咆哮が、閉ざされたコンクリートの空間に反響する。スープラは時速二百キロオーバーの強烈な推進力を保ったまま、封鎖された『首都高多摩川トンネル』の漆黒の闇へと飛び込んだ。
バチッ! バチィッ! とリレー音を響かせ、鉄朗がフロントバンパーに増設したラリー仕様の巨大なランプポッドが一斉に点灯する。四つの強烈なハロゲンの光の束が闇を切り裂き、前方の絶望的な光景を照らし出した。
「……ふーん。思ったよりは、路面の状態も悪くなさそうだね」
ハルはランプの光に照らされた暗闇の中で、極めて冷静に周囲を見回した。
耳を澄ませば、直6エンジンの爆音に混ざって、ザァザァと不気味な水音がトンネルの奥から響いてくる。しかし、今走っている路面は、数箇所に僅かな水溜りがあるのみで、そこまで致命的な被害を被っているようには見えなかった。
西行きの方は完全に崩落したと聞いていたが、俺たちが走る東行きは、奇跡的に持ち堪えていたのか……?
そんな希望的観測を抱きながら、アウト・イン・アウトの最短レコードラインを駆け抜けようと、浅く見えた水溜りに突っ込んだ瞬間だった。
ドザバァァァァンッ!!
「うぉっ!?」
凄まじい泥水の飛沫がフロントガラスを完全に覆い尽くし、スープラが急激に失速した。
ただの水溜りではない。三十センチ近い「浸水」だ。増設ナイトロで重くなった車体が水圧の壁にぶち当たり、フロントバンパーが下からすくい上げられるような激しい衝撃。極太のフロントタイヤが完全に路面を失い、水の上に浮き上がる『ハイドロプレーニング現象』を引き起こしたのだ。
車体が大きく右へ流され、コントロール不能のままコンクリートの側壁が迫り来る。
「……ッ!」
俺は短く息を吸い込み、水圧で泥のように重くなったステアリングを腕力任せに左へと叩き切り、強烈なカウンターを当てた。
キュルルルッ! と水底でタイヤが悲鳴を上げ、ギリギリのところで壁との接触を免れる。背筋に冷たい汗が伝った。これで、このトンネルの本当の恐ろしさをはっきりと認識した。ここはもはや「道」ではない。水底だ。
「……なるほどね。こっち側も、だいぶ浸水が始まってるみたいだね。でも、僕が想定していた『最悪』とは程遠いかな」
ハルのダークブラウンの瞳が、ランプポッドの反射光を受けて怪しく揺れる。静かに呟きながら、彼は再びナビモニターと前方の闇を交互に観察し始めた。
想定していた最悪とは、いったいどのレベルのものなのか。もう既に、この状況が最悪に等しいのではないか。俺はひきつった顔で助手席のハルを睨みつけた。
それに気がついたハルは、俺を落ち着かせるように無邪気に微笑んでみせる。
「大丈夫。僕の指示にさえ従ってれば、多分死なないよ!」
多分ってなんだよ、多分って……!
俺は心底不安になりながらも、少しでも減速すれば後続に飲まれる、あるいはこの深い水底に足を取られてしまうという恐怖から、アクセルを緩めることができずに暗闇を駆け抜けていく。
だが、数百メートルほど進んだところだろうか。
不意に、カンッ……コンッ……と、ルーフの鉄板を硬いものが叩く音がした。
小石だ。俺はこの音に、強烈な聞き覚えがあった。今日、大黒PAへ向かう道中――あのトンネルが崩落した時に聞いた「コンクリートが剥がれ落ちる」死の前兆だ。
そしてここは、数万トンの川水が流れる多摩川の真下。
これは──マズい!
そう思った時には、全てが遅かった。
ドゴォォォンッ!! と、凄まじい音を立てて、背後の天井が数百メートルにわたって連鎖的に崩落した。それと同時に、多摩川の川底から凄まじい質量の水が、滝のようにトンネル内へ侵入してくる。
「ガク! ナイトロッ!」
ハルが叫ぶよりも先に、俺は恐怖心からすでに点火スイッチを叩き潰していた。
トンネル内に反響する、限界を超えた直列6気筒エンジンの咆哮。
だが、バギッ、ビギッ、と目の前の天井にも亀裂が走り、そこからも無数の水柱が噴き出してくる。
「ヤバい、ヤバい、ヤバいッッ!!」
俺は必死でアクセルを踏み抜くが、背後から押し寄せる激しい濁流に、スープラの重い車体が飲まれかける。タイヤがグリップを失い、船のように流されそうになる。
「ガク! 後ろもだけど、前もッ!!」
ハルの声に、俺は迫り来る背後の濁流から、前方へと視線を移した。
そこには、車体の半分以上が泥水に沈んで完全にスタックしている高速バスや、僅かに水面からルーフだけを出した乗用車たちの墓場が広がっていた。
道がないッ! 前にも後ろにもッ!
俺の思考は、そこで急停止した。
……こんなところで死ぬのか? 俺はともかくとして、ハルは? 鉄朗には、なんと詫びればいいんだ……?
辞世の句なんて、柄にないと思っていた。でも、いざ逃げ場のない死に直面すると、別れの言葉というものを本気で残したくなるのは、どうやら人のサガらしい。
俺はナイトロのスイッチから指を離し、背後に迫る瓦礫と鉄砲水に飲まれる、その最期の時を待った。
……しかし、隣に座る黄金色の獣は違った。
「諦めるな、ガク! 前を見ろッ!」
その鋭い声と共に、俺はハルの手によってギュンッと前を向かされていた。
視線の先。前方の崩れゆく天井から、巨大なコンクリートの塊が、水没した車たちの群れに突き刺さる。それが、偶然にも「水上の橋」のように斜めにかかっているのが見えた。
直後、その橋を洗い流すように、頭上から凄まじい水柱が叩きつけられる。
「見えたよね……? あそこ、通るよッ!」
ガッ、と顎を掴まれ、俺はハルの強烈な力で頭を固定された。
「……無理だ、あんなところ、とても……!」
重量級のスープラで、あの不安定な瓦礫の橋を飛ぶ? しかも水柱のカーテンを突き破って?
俺は恐怖で首を横に振ろうとするが、ハルの細い腕は、異常な力で俺を押さえつけていた。
「無理じゃない。行けるはずだ。さぁ、アクセルを踏み込め」
ザバザバと車内にまで泥水が流れ込み、足元の水深がどんどん上がっていく。そんな光景を見せられて、俺の闘争心は完全に尻尾を巻いていた。
だが、ハルは迫り来る死など気にも留めず、俺の震える右手を、シフトレバーへと強引に導いた。
「行ける。諦めないで、僕の言うことを聞いて」
顎を掴んでいた手が、ゆっくりと俺の頬を撫で、泥に汚れた耳元へと唇が寄せられる。
「ここから生き延びたら、君の為に僕、なんだってやるよ。君だけのために、ね」
沈黙。
甘美すぎる毒薬のような響き。
でも、例えそんなことを言われたって、物理的に不可能なものは……。
どんどん車は、漆黒の水没区間へと近づいていく。あぁ、やっぱりダメだ。無理なんだ。俺の心は、冷たい水の恐怖で満たされていく。
だが、次の瞬間。俺の脳髄を、ハルの声が再び貫いた。
「……行け」
どうしてだろう。
どうして、俺はこの声に命じられると、自然と体が動いてしまうのだろう。
俺の意に反して、右足は深くアクセルペダルを踏み込み、左指は、ナイトロの点火ボタンへと再びかけられていた。
バシュゥゥウウッッ!!
限界まで開かれたナイトロのバルブから、爆発的な推進力が吐き出される。スープラは悲鳴のような駆動音を上げて、泥水の中を急加速した。
水の抵抗などお構いなしだ。内臓がシートに押し潰されるほどの急激な加速Gと共に、俺たちは背後の天井が完全に崩落する直前、間一髪でその死地を脱出した。あとは、ここを抜けるだけだ。
バゴォォンッ!!
車体が前方の巨大な水柱に激突した瞬間、強烈な水圧と混ざっていた瓦礫によって、頼みの綱だったフロントのランプポッドが粉砕された。
唯一の『目』が死に、急に辺りが漆黒の闇に包まれる。だが、俺はこの時ばかりは異常なまでの記憶力と集中力を発揮し、一瞬だけ見えていた段差の少ないラインを選び取り、崩れかけたコンクリートの橋をアクセル全開で渡っていく。
──数秒後。スープラは滝のような水柱を突き破り、宙を舞って自由を得た。
ガゴォォンッ! と凄まじい着水音を立てて、車体は向こう岸の浅瀬に叩きつけられる。鉄朗が組んだサスペンションが悲鳴を上げながら激しく伸縮し、衝撃を吸収する。
俺たちは、生き延びたのだ。
だが、まだ苦難は続く。視界は依然としてゼロのままだ。
「リトラクタブル・ヘッドライトを展開してッ!」
暗闇に響くハルの叫びに、俺はハッとしてステアリング横のスイッチを叩いた。
ガシャッ! と重たい機械音を立てて、スープラの低いボンネットから純正のヘッドライトが立ち上がり、前方を照らし出す。
しかし、その黄色みがかった光量では、時速二百キロを超える速度には全くついてこれていなかった。闇が迫ってくる速度の方が圧倒的に早い。
「ハ、ハルッ! これじゃ見えねぇ!」
俺が叫ぶが、ハルはルームライトを点灯させ、何やらダッシュボードの下で作業をしていた。剥き出しのコードを引っ張り出し、それをあの分厚いモニターに無理やり繋いでいる。
「実はこれ、日石のスタックして放置されてたトラックから取ってきたんだよねッ!」
ガチャガチャと手際良く、配線を繋いでいくハル。彼が何をしているのか、俺には皆目見当もつかなかった。ただ、微かなヘッドライトの光を頼りに、見えた障害物をスレスレで避けていく。その命懸けの繰り返し。
「ガクに隠してたカスタムがあるんだッ。メカ系のことだから、別に伝えなくてもいいかもと思ってねッ!」
やがて準備を終えたのか、ハルはルームライトを消し、モニターを再度見つめた。
「赤外線探査機能、『イーグルアイ』! 日石が夜道、警視庁の監視ドローンを逃れるため、無灯火で走行するために作った第二の目だよ!」
そう言うと、モニターの電源を入れ直し、祈るようにそれを額に押し付けた。
「お願い、イーグルアイ! 早く、早く早くッ!」
ブゥン……とモニターから起動音が鳴り、直後、サーモグラフィのような緑色の光が助手席から俺の目に入った。ハルは目を見開いて、画面に映し出されたワイヤーフレームの空間を睨みつける。直後。
「右に避けてッ!!」
俺は唐突な指示に、反射的にステアリングを右へ叩き切った。
しかし。
──ゴガァッ!!
回避が、コンマ一秒遅れた。
車体は一瞬宙に浮き、再び地面に激しく叩きつけられる。ガリリリリッ! と、ひしゃげた金属がアスファルトを削る不吉な音が響いた。
「……ぶつかっちゃったか」
ハルは顔を歪ませて、モニターの端を見る。
「多分、フロントバンパーの左側が脱落しかけてる。……ごめん。僕のミスだ……」
消え入りそうな声でそこまでハルが言ったところで、俺はステアリングから一瞬だけ左手を離し、彼の口元を制するように指を突き出した。
「……ハルのおかげで、今生きてる。謝るな」
端的にそれだけ伝えると、俺は再び両手でステアリングを握りしめ、遥か前方に見え始めた出口の光を目指してひたすらにアクセルを踏み続けた。
ハルの表情は暗闇で一切わからなかったが、その後、彼は数分間、一言も口を開かなかった。
ガガガガガッ……!
無惨に千切れかけた左のバンパーから、痛々しい金属音と火花をまき散らしながら、俺たちの操るスープラはついに地獄の多摩川トンネルから、羽田方面の一般道へと脱出した。
眩しい白日の光が、フロントガラスの泥汚れを透かして車内に差し込む。緩やかなカーブを曲がり切ると、左右には羽田空港の巨大な建造物が聳え立っていた。
「……あ、無線。そろそろオンにしようかな」
ハルがポツリと呟き、ダッシュボードのスイッチを入れた。
『――てきた! トンネルから! 出てきやがったぞ!!』
その瞬間、ただでさえ音割れをしている無線の声が、鼓膜を破らんばかりの怒号のノイズとなって車内に響き渡った。
「て、鉄朗さん! うるさい!」
ハルが耳を塞ぎながら叫ぶと、その言葉が届いたのか、鉄朗はさらにヒートアップして怒鳴り散らした。
『馬鹿野郎ッ!! お前ら、とんでもないことをしやがってッ!! 崩落したトンネルに突っ込むバカがどこにいる!! 俺がどれだけ心配したと……ッ!』
あぁ、いつものお小言が始まる……。俺は眉間に深く皺を寄せ、嵐が過ぎ去るのを待つように肩をすくめた。だが。
「でも、鉄朗さん。僕たち多分、この区間一位ですよ!」
ハルが、まるで遠足帰りの子供のようにはしゃいだ声で言い放つ。
すると、無線の向こうで鉄朗が言葉を失ったのが気配でわかった。彼はそれ以上何も言わなかった。いや、もう言う気も起きなかったのだろう。彼はおそらく、映像を通して理解したのだ。ハルの異常性を。
『……見たところ、お前らの車に見られる損傷は、フロントバンパーと、完全にスクラップになったランプポッドぐらいか。はぁ……本当に、寿命が縮むような真似はやめてくれよ……』
鉄朗の安堵を含んだため息。彼はおそらく、日石の中継映像を見ているのだろう。
耳を澄ますと、上空から追尾ドローンの羽音が聞こえてくる。流石に、あの水没したトンネルの中まではドローンもついてこられなかったようだ。俺たちの最もイカれたジャンプを見せつけられなかったのは少し無念だが、あの惨状を配信されずに済んだのは、他の選手に手の内を明かさない意味でも良かったのかもしれない。
「……で、鉄朗。今、レースの模様とかどんな感じだ?」
俺が疲労の滲む声で尋ねると、鉄朗は至って冷静なメカニックの顔に戻って答えた。
『大師方面の迂回路は、地震の影響で道がだいぶ細くなっててな。そっちを通った連中は……ワイドボディ化してたランエボVIIがシケインで壁に刺さる事故を起こして、その後ろを走ってた奴らは、軒並みコース上で渋滞起こして足踏みしてやがる』
はた迷惑な話だな、と俺は内心でほくそ笑みながら、京浜大橋を横目に過ぎる。
さぁ、ここからがドンケツからのヒーロー登場と行こうじゃないか。増設したナイトロの残量は、先ほどの脱出で完全に空になった。ここからは、純粋なステアリングのテクニックと、1G-GTEのマシンパワーだけの勝負だ。
東海ジャンクションの合流地点。
左手には、ようやく迂回路の渋滞を抜けて本線へと合流してこようとする、六代目のインプレッサと、ピカピカに磨かれたトヨタ・2000GTの姿があった。
俺はシフトダウンし、直列6気筒の野太いエキゾーストノートを轟かせながら、彼らの前に強引に車体をねじ込んだ。
インプレッサも2000GTも、羽田の『封鎖エリア』の方角から突突如として現れた、泥と傷まみれのスープラの姿に本気で恐れをなしたように、慌ててブレーキを踏んで左の路肩へと避けていった。
「ははっ。流石にビビるよね。だって、あんな死のルート選ぶ命知らず、絶対にいるわけないんだから!」
ハルはモニターの画面を、マップ表示へと切り替えながら楽しそうに笑う。
「じゃ、このまま東京湾岸道路に出るよ。ここからは下道だから、信号や障害物に気をつけて」
その言葉に、俺は静かに頷き、ステアリングを握り直した。
「流石に、もうあんな死ぬ思いはしないよな?」
へへっ、と引きつった口角を上げて言うと、ハルは満面の笑みを浮かべた。
「流石にね! 品川のゴールはもう直ぐだよ!」
俺たちの満身創痍のスープラは、大井北埠頭橋を通り、その後は何事もなく品川の市街地へ向かった。そして都道316号線に入り、しばらく行くと、左手には巨大な廃墟と化した品川駅の姿が見えてきた。
その間も、先行車両を二台ほど抜き去り、スープラはついに、第一レースの終着点である港南口のゴールラインを踏み抜いた。
「……なんか、今はタイムとか順位とかどうでもいいわ……。無事に生き延びたことが、奇跡だろ」
俺はゴールエリアの所定の位置に車を停めると、サイドブレーキを引き、そのままステアリングに突っ伏して深い息を吐き出した。酷使された1Gエンジンのボンネットからは、白い蒸気とオイルの焼ける嫌な匂いが立ち昇っている。
だが、隣のハルは疲労など一切見せずに、爛々とした瞳でモニターを覗き込んでいた。
「僕たちの暫定順位! 何位かな?! いやぁ、あれだけの事したんだし、流石にトップ5入りはしてるよね?!」
トン、トンとモニターの縁を指で叩きながら、情報の更新を今か今かと待ち望むハル。
そのタイミングだった。ダッシュボードの無線にノイズが走り、声が響く。
『……お疲れさん、ガク、ハル。なんて言うか、お前達、今ネットの有名人だぞ』
鉄朗は心底呆れたような、疲労困憊の声で言った。
『奇跡の生還者だとか、伝説の狂気スープラだとか、まぁ小っ恥ずかしいような事、色々書かれてバズってるよ。俺からしたら、あんな危険な走りするような奴が賞賛されるなんてどうかと思うが……』
ぐちぐちと文句を垂れる鉄朗。しかし、それをハルが食い気味に遮った。
「来たっ! 順位きたよっ!」
ハルの弾んだ言葉に、俺は思わず息を呑んだ。
先程は確かに、順位やタイムはどうでもいいと言った。しかし、いざこうして結果が出るとなると、一気に身が引き締まる。一体、何位なんだ。俺たちの実力――いや、命をチップにしたあの狂気の走りは、ネロという圧倒的な存在に喰いつけるだけのものだったのか?
俺が祈るように黙り込んでいると、ハルは画面を見つめたまま、とうとう口を開いた。
「暫定順位は、なんと……」
ゴクリ、と息を呑む音がした。それは無線越しの鉄朗のものなのか、はたまた自身の喉が鳴った音なのか。その時は、本当に見当もつかなかった。
「暫定順位は、三位でした!!」
ハルは心底嬉しそうに、明るい声を張った。
しかし、俺はその結果に絶望していた。
三位? 俺たちが?
ネロに食いつくどころか、その背中にすら辿り着けていなかったのか?
「んーっと、あ、これ、すごい!」
ハルは叫ぶと、喜びのあまり助手席から身を乗り出し、俺に抱きつこうとする。しかし、俺は腕を振り払うようにして、それを激しく拒絶した。
「……三位? あんな、死ぬ思いをして得た結果が、三位だと……?」
震える声で、俺は問う。
「……ガク。落ち着こう?」
ハルは穏やかな声で語りかけてくる。しかし俺は、内側からどす黒く湧き上がる感情を抑えられなかった。
「ネロに! あのエリート気取りの純血野郎に勝つには、もっとタイムを伸ばさないといけないんだッ! でも、このレースで証明されちまったじゃねぇかッ! 何もかも、あいつの方が上ってッ! それに、それにッ! 三位だぞッ! まだ上に一人もいるじゃねぇか……ッ!」
喉から搾り出すように、惨めな悔しさを吐露する。ステアリングを握る手が、激しく震えていた。
でも、ハルはそれを、怒るでも怯えるでもなく、全てを優しく抱き止めるように寄り添ってきた。そして、極めて冷静な声音で言うのであった。
「ガク。いいこと、教えてあげる」
そう言うと、ハルは各走者のチェックポイント通過時のタイムが詳細に記載されたページを俺の目の前に差し出した。
「見て。この区間記録の王冠マーク、ほとんどが一位のネロさん達が取ったものなんだよ。二位のランボルギーニ・ディアブロの……厚木選手か。彼は総合順位こそ二位だけど、区間記録は一切更新できてない。ただ直線でマシンのパワーに物を言わせただけ。……対して、僕たちは?」
そう言うと、ハルは画面をスクロールさせ、『川崎浮島~東海ジャンクション』間の区間記録を出した。
そこには、すべての純血種たちを抑え、区間記録一位のトップタイムとして、俺とハルの名前が燦然と輝きを放って映し出されていた。
「……完全に負けているわけじゃない。まだ、上を狙える。ネロさん達は、僕たちの射程圏内にあるんだよ」
ハルは甘く囁くと、今度こそ俺の頭を引き寄せ、深く抱きしめた。
「だから、大丈夫。今日はゆっくり寝て、明日に備えよう……。流石にスープラは、左の足回りも怪しいし、この状態で自走させるわけにはいかないから、鉄朗さんを迎えに呼ぼうか」
そう言うと、俺から離れて無線に向かって何やら話し出すハル。
フロントガラスの向こう、白日の光が容赦なく照りつける空の下で、俺の心から焦燥感が完全に消え去ることは、決してなかった。
──東京都、品川プリンスホテル。
日石により買い上げられ、都外より訪れた一部のエリート・レーサーたちに数十万という法外な値段で貸し出される、最高層のスイートルーム。そこに、ネロとエリアスの姿はあった。
エリアスは上質なバスローブを羽織り、濡れた漆黒の羽毛から白い湯気を立ち昇らせながら、優雅な足取りでバスルームから出てきた。
彼がふとキングサイズのベッドに目を向けると、そこには凄まじい形相をしたネロがいた。ギリッと音を立てて牙を剥き出しにし、手元のタブレットを憎悪の目で見つめている。
「……ネロ、どうかしたのか?」
エリアスが静かに声をかけると、ネロはボスンッ、と力任せにマットレスを殴りつけた。
「……なんであの雑種どもが、区間記録に名前を連ねてやがる」
エリアスが怪訝そうにそのタブレットを取り上げ、リザルト画面を見ると、確かに自分たちの名前に混じって、『川崎浮島~東海ジャンクション』区間のトップタイムに、ガクとハルの名前が刻まれていた。
「ほう……」
純粋に感心したような声を上げると、エリアスはタブレットの画面をなぞり、追尾システムが記録した彼らのコース軌跡を辿る。すると、ふと決定的な違和感に気がついた。
「……大師方面に迂回していない……? ネロ、この試合が終わってから、なにか見たり聞いたりしたか?」
エリアスが尋ねると、ネロは苛立たしげに舌打ちをして毛布にくるまった。
「知らねぇよ! 警視庁の検閲に引っかかりたきゃ、勝手に調べてろ!」
本当に勝手な人だ……。エリアスは内心で呆れながら、自身のスマホを取り出す。
アンダーグラウンドの違法配信アーカイブを遡り、ガクたちの走行ルートを確認してみると、驚くべき事実が判明した。川崎航路トンネルを出た瞬間、彼らは迂回路を無視し、封鎖された『首都高多摩川トンネル』への直進ルートを選択しているのだ。そこで追尾ドローンは一旦追跡を諦め、シグナルロスト状態となっている。
「ふむ……」
アーカイブのコメント欄は、疑惑の声で溢れ返っていた。なぜ皆が通るルートを通らないのか。不正ではないのか。そんなコメントで画面が埋め尽くされていたが、やがて運営の公式アナウンスによってそれらの声は沈静化する。
『今回のチェックポイントの規定上、首都高多摩川トンネルの通行は不正ではありません。しかし、ドローン損傷のリスクが極めて高いため、現在当該車両の配信を一時中断しております』
「……正気ではないな」
エリアスはスッ、と指でシークバーを引っ張り、配信が再開された合流地点の映像を見る。
すると、ライトが粉砕され、左のバンパーを無残に引きずった、ずぶ濡れのワインレッドのスープラが、直列六気筒の猛烈な咆哮を上げてトンネルから飛び出してきた。その背後で、崩落したトンネルの黒い口から、大量の土埃と濁流が天に向かって噴き出している。
コメント欄の疑惑は、いつの間にか熱狂と称賛の嵐へと変わっていた。
『今情報見たけど、多摩川トンネル、マジで崩落しかけてたらしいぞ!』
『コイツら、正気じゃない!』
『コ・ドライバーはどんな奴なんだ?! こんなイカれたルートを走らせるなんて!!』
「……なるほど。だからあのようなタイムで……。ハルさん、貴方は一体……」
エリアスが独りごちた、その時だった。それを聞いていたのか、ネロがガバッとベッドから起き上がった。
そして、何か最悪の思いつきに行き着いたかのように、邪悪な笑みを浮かべて立ち上がる。ネロはエリアスに近づくと、その漆黒の羽毛を指先でなぞった。
「……エリアス。今日は誘導、ご苦労だった。明日の第二レースのことで、話があるんだが……」
エリアスは警戒するように目を細める。本来であれば、彼は自身の美学のためならば、他人の命令など一切聞かない男だった。だが、ネロのドライビングテクニックがここまでの好成績を残したのだから、ご褒美の一つくらいは与えてやらねば、今後の機嫌を損ねるかもしれない。
「……言ってみろ、ネロ」
するとネロは、コツン、とエリアスの額に自身の額を当て、至近距離で目線を合わせた。
その瞳はドス黒く血走っており、到底、正気な状態であるとは言い難かった。
「……ハルを、あの気味の悪いコ・ドライバーを拉致れ。第二レースの間だけでいい。そうすれば、あの野良犬は自分の無力さに絶望し、盛大にミスをして自滅するさ……」
ネロはククッ、と喉の奥で笑い、部屋の隅にある巨大な冷蔵庫へ向かった。中には、最高級の酒やらジュースやらが丁寧に詰め込まれている。そこからヴィンテージのシャンパンを取り出すと、手慣れた所作で二人分のグラスを持って戻ってきた。
「これは前祝いの祝杯だ。アイツらは敗れ、そして俺たちは、このレースで勝利するのだからな……」
そう言って、煌めくグラスを差し出す。エリアスはそれをおとなしく受け取ると、最も重要な疑問を口にした。
「……ハルさんの監視役は、誰がやるんです?」
その疑問に、ネロは当たり前かのように言い放った。
「エリアス、お前だ。明日は俺も、コ・ドライバーなしで走る。この対等な条件で、アイツがどれだけ俺の背中について来れるかな……?」
その言葉に、エリアスは一抹の深い不安を覚える。
確かにネロは、ドライバーとしては非の打ち所のない完璧な腕を持っている。だが……彼には、致命的な「問題」がないわけではないのだ。
しかしネロは、そんなエリアスの懸念など意にも介さずボトルの栓を開け、グラスに黄金色の泡が浮かぶ液体をなみなみと注いだ。
「……明日のレースが、楽しみだな」
無邪気な狂気を孕んだネロの言葉に、エリアスはただ、冷たいシャンパンと共に小さなため息を飲み込むことしかできなかった。




