第9話『君が笑うと、氷が溶ける』
その日の朝、城を包んでいた厚い雲が、ほんの少しだけ切れ間を見せた。
灰色の空から、糸のように細い光が降り注ぎ、凍てついた中庭を照らしている。
「旦那様、外へ出てもよろしいでしょうか」
朝食を終えたエルマが、控えめな声で尋ねてきた。
彼女がここへ来てから半月。彼女の顔色はずいぶんと良くなり、最初に出会った時のような透明な儚さはそのままに、頬には血色が宿っていた。
だが、外はまだ深い雪に閉ざされている。
「……寒いぞ」
「はい。でも、風が止みましたから。少しだけ、空気を吸いたいのです」
彼女は窓の外を眩しそうに見つめていた。
その横顔を見ていると、私は拒むことができなかった。彼女が望むことなら、たとえ星を落とすことだってしてやりたいと思うほど、今の私は彼女に救われていたからだ。
「わかった。……だが、厚着をして行け。風邪でも引かれたら事だ」
「はい、ありがとうございます」
彼女が嬉しそうに微笑む。ただそれだけのことで、私の胸の奥がじんわりと温かくなる。
私は、自分でも驚くほど自然に、彼女に手を差し出していた。
エスコートなどという気の利いたものではない。ただ、彼女が雪道で転ばないように支えてやりたいという、過保護な衝動だった。
中庭は、一面の銀世界だった。
膝下まで積もった雪が、陽の光を反射してきらきらと輝いている。
私一人の時であれば、この景色はただの「無彩色」の寒々しい風景でしかなかっただろう。
穢れを溜め込んだ私の目には、世界は常に灰色のフィルター越しに映る。空の青さも、雪の白さも、すべてが濁って見えていた。
だが、今は違う。
エルマが隣にいるだけで、私の視界から灰色の膜が剥がれ落ちる。
雪は目が痛くなるほど純白で、空はどこまでも高く青い。
彼女というレンズを通して初めて、私は世界が本来の色を持っていることを知るのだ。
「うわぁ……」
エルマが感嘆の声を上げて、雪原に足を踏み入れた。
新雪が、彼女の小さなブーツの下でサクサクと音を立てる。
彼女は子供のように、真っ白な息を吐きながら、あたりを見回していた。
「何もありませんね」
「ああ。この城の庭師も、冬の間は手をつけられないと言っていた。春になれば、また違うのだろうが」
「いいえ、素敵です。何もなくて、静かで……まるで世界が眠っているみたい」
彼女はそう言うと、手袋をした手でそっと雪に触れた。
冷たさを楽しむような仕草。
彼女にとっては、この過酷な寒ささえも、美しいものとして映るらしい。
私は黙って彼女の後ろを歩いた。
彼女が踏みしめた跡を、私の大きな足跡が上書きしていく。
そうやって二人で歩いていると、自分がこの城の主であるとか、恐れられる守護者であるとか、そんな重荷がすべて消え失せていく気がした。
ただの一人の男として、愛しい女性と散歩をしている。
それだけのことが、奇跡のように思えた。
その時だった。
庭の隅、古びた石塀の近くで、エルマが不意に足を止めた。
そして、驚いたようにしゃがみ込む。
「旦那様、見てください」
「どうした? 何かいたか」
私は慌てて駆け寄った。魔獣の類いか、あるいは害獣かと身構える。
けれど、彼女が指差したのは、そんな物騒なものではなかった。
雪が少しだけ溶け、黒い土が覗いている場所。
そこに、本当に小さな、針の先ほどの緑色が顔を出していた。
「これは……」
「芽です。お花の芽」
エルマの声が弾んだ。
彼女は顔を近づけ、その小さな命を愛おしそうに見つめている。
「こんなに寒いのに、雪の下でずっと待っていたんですね。春が来るのを」
私は言葉を失っていた。
この極寒の地で、植物が芽吹くなどあり得ないと思っていた。
城は穢れの影響で常に冷気に覆われている。生命にとっては死の世界だ。
それなのに、この小さな芽は、分厚い氷の層を押し退けて、太陽に向かって顔を出したのだ。
まるで、彼女のようだと思った。
冷たい塔の中に閉じ込められ、誰からも顧みられず、それでも心を枯らすことなく、静かに時を待っていた少女。
「……強いな」
私が呟くと、エルマは振り返って私を見上げた。
逆光の中で、彼女の栗色の髪が黄金色に縁取られている。
「ええ。きっと、とても強い子です」
そして、彼女は笑った。
それは、これまで見たどの笑顔とも違っていた。
遠慮がちな微笑みでも、悲しみを秘めた笑みでもない。
心からの喜びと、慈愛に満ちた、春の陽射しそのもののような笑顔。
ドクン、と。
私の心臓が、痛いくらいに大きく跳ねた。
その瞬間、私の中で何かが決壊した。
長く凍りついていた感情のダムが崩れ、熱い奔流となって全身を駆け巡ったのだ。
愛おしい。
たまらなく、愛おしい。
これまで私は、自分の感情を殺すことで、穢れの侵食に耐えてきた。
怒りも、悲しみも、そして喜びさえも。感情を持てば、それが隙となり、心の均衡が崩れると思っていたからだ。
だが、今、彼女の笑顔を前にして、私は自分が「生きていたい」と強烈に願っていることに気づいてしまった。
この笑顔をもっと見ていたい。
この先もずっと、彼女の隣で、四季の移ろいを感じたい。
彼女が花を見つけて喜ぶなら、私は世界中の花をこの庭に植えよう。
彼女が寒がるなら、この身を燃やしてでも太陽になろう。
私の視界が潤んだ。
涙など、子供の頃に枯れ果てたと思っていたのに。
溢れ出た感情は、目頭を熱くし、喉を詰まらせた。
「……旦那様?」
私の様子がおかしいことに気づいたのか、エルマが心配そうに覗き込んでくる。
その瞳に、私の間抜けな泣き顔が映っているのだろう。
情けない。
けれど、止められなかった。
「……すまない。目に、ゴミが入ったようだ」
「まあ、大変。見せてください」
彼女は手袋を外し、素手で私の頬に触れた。
冷たいけれど、柔らかい指先。
その感触に、私の中の氷が音を立てて溶けていく。
「泣かないでください、旦那様」
彼女は、私の下手な嘘を見抜いていたのだろう。
ふわりと、彼女の腕が私の首に回された。
背伸びをして、彼女は私を抱きしめたのだ。
小さな体。折れそうなほど細い腕。
けれど、その腕の中は、この世界のどこよりも温かく、安全な場所だった。
「春は、もうすぐそこまで来ていますから」
彼女が耳元で囁く。
ああ、そうだ。
私の春は、もうここにある。
この腕の中に。
私は震える腕で、彼女を抱きしめ返した。
きつく、けれど苦しくないように。
彼女の肩に顔を埋め、私は深く息を吸い込んだ。
彼女の髪から漂う、日向の匂い。
それが、私の肺を満たし、穢れを浄化していく。
――愛している。
言葉には出せなかった。
まだ、その言葉を口にする資格が私にあるとは思えなかったから。
けれど、心の中で何度も繰り返した。
君が笑うと、私の世界は色を取り戻す。
君がいるだけで、私は息ができる。
雪原の真ん中で、私たちは長い間抱き合っていた。
足元の小さな芽が、風に揺れている。
それはまだ頼りない緑色だったけれど、やがて来る美しい季節を告げる、確かな希望の色をしていた。




