第8話『遠い王都の噂(姉・ソフィア視点)』
王都の朝は、いつだって燦然と輝いているはずだった。
『太陽の聖女』と呼ばれる私が住むローレンツ公爵邸。その庭園には、季節を問わず大輪の薔薇が咲き誇り、黄金色の陽光が惜しげもなく降り注いでいる――はずだった。
「……なんだか、薄暗いわね」
私は、レースのカーテンを開け放ちながら、小さく眉を寄せた。
空は晴れている。雲ひとつない青空だ。
それなのに、窓から差し込む光が、どこか頼りなく、白茶けて見えるのだ。まるで、薄い灰色の膜を一枚隔てて世界を見ているような、そんな違和感。
「おはようございます、ソフィア様。お加減はいかがですか?」
部屋に入ってきた侍女が、恭しく頭を下げる。
私は振り返り、軽く肩をすくめた。
「ええ、悪くないわ。ただ、少し肌寒いのよ。暖炉の火を強めておいてちょうだい」
「かしこまりました。……ですが、今日は春のような陽気だと、天気予報には出ておりましたが」
「あら、そうなの? なら、私の気のせいかしら」
私は気を取り直し、鏡台の前に座った。
磨き上げられた鏡に映るのは、完璧な私だ。
艶やかな金色の髪、宝石のような碧眼。国一番の聖女として、誰もが憧れる美しさ。
……けれど、ふと指先で頬に触れる。
心なしか、肌のツヤが落ちているような気がした。化粧のノリも悪い。
「最近、少し疲れが溜まっているのかもしれないわね。夜会の誘いが多すぎるのよ」
「左様でございますね。皆様、ソフィア様の聖なる光を求めていらっしゃいますから」
侍女の言葉に、私は満足げに微笑んだ。
そう、私は求められている。この国の穢れを払い、光をもたらす存在として。
北の果てへ送られた、あの「色のない妹」とは違う。
エルマ。
あの陰気な子のことを思い出すだけで、気分が沈む。浄化の力も持たず、ただ屋敷の隅で幽霊のように生きていた妹。
あの子がいなくなって、ようやくこの家もスッキリしたはずなのに。
「……変ね」
私は再び眉をひそめた。
スッキリしたはずなのに、なぜか以前よりも空気が淀んで感じるのはなぜだろう。
廊下を歩いていても、ふとした瞬間に足元から冷気が這い上がってくるような感覚がある。
まるで、目に見えない埃が積もっているような。
昼食の時間、サロンへ降りると、両親がすでに席についていた。
テーブルには豪華な食事が並んでいるが、どこか色がくすんで見える。
「あら、ソフィア。顔色が優れないようだけど、大丈夫?」
母が心配そうに声をかけてきた。けれど、母自身の顔色も、陶器の人形のように青白い。
「ええ、少し冷えるだけですわ、お母様。……このお屋敷、最近少し寒くありませんこと?」
「そうねぇ、言われてみれば。使用人たちが掃除をサボっているのかしら。埃っぽくて、喉がいがらっぽいのよ」
母は不快そうに咳払いをした。
父もまた、新聞を読みながら首を傾げている。
「季節の変わり目だからな。それに、今年は魔獣の動きが活発だという噂もある。その影響で、大気中の穢れが増えているのかもしれん」
「嫌ですわ。聖女の家系であるこのお屋敷に、穢れが入り込むなんて」
「はは、違いあるまい。我々にはソフィアがいるのだからな」
父は豪快に笑おうとしたが、その声は途中で掠れ、乾いた咳に変わった。
コホッ、コホッ、と乾いた音が、広いサロンに虚しく響く。
テーブルに飾られた花瓶を見る。
今朝活けたばかりのはずの百合の花が、もう花弁の端を茶色く変色させ、ぐったりと首を垂れていた。
「……庭師を変えたほうがいいかもしれませんわね。花の手入れも満足にできないなんて」
私は不機嫌に呟き、冷めた紅茶に口をつけた。
味が薄い。
香りも飛んでしまっている。
何もかもが、以前とは違う。何かが欠けている。
でも、それが何なのかがわからない。
以前は、もっと空気が澄んでいた気がする。
私が少し不調でも、一晩眠れば、翌朝には体が軽くなっていた。
父も母も、もっと血色が良くて、朗らかだった。
それはきっと、私が聖女として優秀だからだと思っていた。私の力が、無意識のうちにこの屋敷を浄化しているのだと。
でも、エルマがいなくなってから、その「当たり前」が少しずつ崩れている。
まさか。
まさか、あの子が?
――いいえ、ありえないわ。
私はすぐにその考えを打ち消した。
あの子には何の力もなかった。鑑定の儀式でも、魔力量はほぼゼロ。浄化の光なんて一度も出したことがない。
ただの穀潰し。出来損ない。
そんな子が、この屋敷の環境を支えていたなんて、そんな馬鹿げた話があるはずがない。
「きっと、エルマの陰気な運気が、まだこの家に染み付いているのよ」
私はナプキンで口元を拭い、そう結論づけた。
「あの子が北へ行ってから、まだ日が浅いもの。あの子が残していった『負の遺産』みたいなものが、漂っているだけだわ」
「そうだな。お前の言う通りかもしれん」
父が頷く。
「北の公爵家からは、到着したという連絡だけは来ている。……まあ、すぐに『死んだ』という知らせに変わるだろうがな」
父は冷淡に言った。
あの怪物公爵のそばにいれば、魔力のないエルマなど、ひとたまりもないだろう。
穢れに当てられて発狂するか、そのまま衰弱死するか。
かわいそうだけど、それがあの子の運命なのだ。
せいぜい、私たちの役に立って死ねたことを、光栄に思うべきね。
「……さて、カイル様がお待ちだわ」
私は席を立った。
婚約者である第二王子、カイル様とのデートがある。
彼も最近、公務が忙しいらしく、会うたびに疲れた顔をしている。
「ソフィアのそばにいると癒やされる」と言ってくれるけれど、最近はその笑顔にも陰りが見える気がする。
きっと彼も、穢れの影響を受けているのね。
私がもっと頑張って、浄化してあげなくては。
私は努めて明るい笑顔を作り、サロンを出た。
背後で、母がまた「寒気がする」と呟き、ショールを羽織り直す音が聞こえた。
窓の外。
王都の空には、目に見えないほど薄い灰色の霞が、音もなく広がり始めていた。
それがやがて黒い雨となり、私たちの上に降り注ぐことになるなんて、この時の私はまだ、知る由もなかったのだ。
私が信じていた「完璧な世界」が、実はあの子という「見えない柱」によって支えられていた砂上の楼閣だったことにも、気づかないまま。
私は廊下を歩く。
足元の影が、以前よりも濃く、長く伸びているような気がして、思わず足を早めた。
逃げるように。
忍び寄る「冬」の気配から、目を背けるように。




