第7話『図書館の秘密と、共有する静寂』
その部屋を見つけたのは、本当に偶然だった。
体調が回復した私は、執事の勧めで城内を少しだけ散策することにしたのだ。
城は広く、迷路のようだったけれど、不思議と不安はなかった。
あの最初の日に感じた、肌を刺すような拒絶の冷気はもう消えている。
廊下の窓から差し込む陽光が、埃の舞う古いカーペットを優しく照らしていた。
ふと、どこかから古書の匂いが漂ってきた気がした。
乾いた紙と、インクと、革表紙の匂い。
実家の塔に閉じ込められていた頃、私の唯一の友人は本だったから、その匂いには敏感なのだ。
鼻をくすぐる香りに誘われるようにして、重厚な樫の木の扉を開けると――。
「……まぁ」
思わず、感嘆の息が漏れた。
そこは、本の森だった。
天井まで届く高い書架が何列も並び、そこには数え切れないほどの書物がぎっしりと詰め込まれている。
吹き抜けになった高い天井には、美しいステンドグラスが嵌め込まれており、そこから降り注ぐ光が、無数の背表紙を宝石のように輝かせていた。
静かだ。
けれど、それは寂しい静けさではない。
何千、何万という言葉たちが、静かに呼吸をしているような、満ち足りた静寂だった。
私は夢遊病者のように、ふらふらと書架の間を歩いた。
指先で背表紙を撫でる。
革の感触、金箔の凹凸。
歴史書、詩集、魔導書、そして色褪せた物語の本。
ここにある全てが、私を受け入れてくれているような気がして、胸がいっぱいになる。
ふと、一番奥の窓辺に、大きなソファが置かれているのが見えた。
その隣のサイドテーブルには、読みかけの本が一冊、伏せて置かれている。
誰かがここにいたのだろうか。
使用人が休憩に使う場所とは思えない。だとしたら――。
「……気に入ったか」
背後からかけられた声に、私はびくりと肩を震わせる。
振り返ると、いつの間にかギルバート公爵が立っていた。
仕事の合間なのだろうか。襟元のボタンを一つだけ外し、少しラフな姿をしている。その銀色の髪が、ステンドグラスの光を受けて柔らかく透けていた。
「だ、旦那様。申し訳ありません、勝手に……」
「構わんと言ったはずだ。この城のものは、すべて好きに使えばいい」
彼はそう言って、ゆっくりと部屋の中へ歩み入ってきた。
彼が動くと、淀んでいた空気がふわりと揺れ、古書の匂いがより濃くなる。
「ここは、私が唯一落ち着ける場所だ」
彼は窓辺のソファに視線を向けた。
「ここには、私を恐れる者も、媚びる者もいない。ただ、過去の記録があるだけだ。死んだ言葉たちは、私を傷つけないし、私も彼らを傷つけない」
その言葉には、彼が抱えてきた長い孤独が滲んでいた。
彼はこれまで、この部屋でたった一人、本の世界に逃げ込むことで精神の均衡を保ってきたのかもしれない。
誰とも触れ合わず、誰とも言葉を交わさず。
ただ、文字の羅列の中にだけ安らぎを求めて。
「……私も、本が好きです」
私は小さな声で言った。
「実家にいた頃、本だけが私の味方でした。ページを開けば、私はどこへでも行けましたから。南の島にも、空の上にも、遠い過去にも」
「……そうか」
彼は短く答えると、ソファの端に腰を下ろした。
そして、手招きをするように隣を叩く。
「座りなさい。立ち話もなんだろう」
私は躊躇いながらも、彼の隣、少し距離を空けた場所に腰を下ろした。
ソファは二人で座っても十分に広かったけれど、彼の体温が微かに伝わってくる距離だ。
緊張して背筋を伸ばしていると、彼が伏せてあった本を手に取った。
「読んでいたのか?」
「いえ、それは旦那様のものでは……」
「違う。これは昔、母が読んでいた古い童話だ。懐かしくて、少し開いただけだ」
彼はそう言うと、パラパラとページをめくった。
古びた紙が擦れる、カサリカサリという乾いた音が、静寂の中に響く。
私は横目でそのページを盗み見た。
美しい挿絵が描かれている。大きな木と、その下に集まる動物たち。
けれど、添えられている文字は、今の公用語とは少し違う、古い時代の装飾文字だった。
「……読めますか?」
彼がふと、私に聞いた。
私は首を横に振った。
「いいえ。絵は綺麗ですが、文字は難しくて……」
「そうか。……なら」
彼は一度本を閉じかけ、それから思い直したように、少しだけ私の方へ体を向けた。
「読んでやろうか」
「え……?」
「暇つぶしだ。それに、一人で読むよりは、誰かに聞かせたほうが……物語も喜ぶだろう」
不器用な言い訳だった。
けれど、その耳が微かに赤くなっているのを見て、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
彼は、私が文字を読めないことを恥じないように、そして私を楽しませようとして、そんな提案をしてくれたのだ。
「……お願いします」
私が頷くと、彼は一つ咳払いをし、ゆっくりと読み始めた。
彼の声は低く、チェロの音色のように深みがあった。
普段の冷たい命令口調とは違う。
物語を紡ぐその声は、驚くほど優しく、穏やかだった。
――昔々、深い森の奥に、一本の大きな樫の木がありました。
その木はとても年寄りで、森のすべての記憶を持っていました。
物語の内容は、孤独な木が、渡り鳥や風から世界の話を聞くという、静かなお伽噺だった。
派手な冒険も、劇的な魔法もない。
ただ、季節が巡り、出会いと別れが繰り返されるだけの話。
けれど、ギルバート公爵の声で語られると、その世界は鮮やかな色彩を持って私の心に流れ込んできた。
私は目を閉じて、その声に身を委ねた。
薪が暖炉で爆ぜるパチ、という音。
ページをめくる指の音。
そして、一定のリズムで紡がれる彼の声。
心地よかった。
これまでの私は、いつも一人で本を読んでいた。
沈黙の中で、自分の頭の中だけで物語を再生していた。
けれど今は違う。
隣に、同じ物語を共有してくれる人がいる。
同じ場面で息を呑み、同じ言葉に心を震わせている誰かがいる。
それがこんなにも、満ち足りた気持ちになることだなんて知らなかった。
いつの間にか、私の頭は彼の肩に触れていた。
失礼だとわかっているのに、重いまぶたを持ち上げることができない。
彼の体温と、服から漂う微かなインクの匂いが、私を甘い微睡みへと誘っていく。
「……エルマ?」
物語が途切れ、彼が私の名前を呼んだ。
私は薄く目を開けようとしたけれど、体が言うことを聞かない。
怒られるだろうか。
けれど、彼が私を押しのけることはなかった。
代わりに、大きな手が私の頭にそっと乗せられた。
「……眠ればいい」
囁くような声が、頭上から降ってきた。
その手は、不慣れな手つきで、けれどとても優しく私の髪を撫でた。
「おやすみ。……良い夢を」
その言葉を最後に、私の意識は深い眠りへと落ちていった。
夢の中で、私は大きな木の下に座っていた。
隣には、銀色の髪をした優しい人がいて、ずっと私の手を握っていてくれた。
灰色の雪が止んだ世界で。
私たちは、言葉などなくても、互いの孤独を溶かし合えることを知ったのだ。
静寂さえも、二人で分かち合えば、こんなにも温かい毛布になるのだと。




