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氷の城の公爵様は、身代わり花嫁の「痛み」だけを愛せない ~魔力を持たない私が、あなたの孤独を溶かすまで~  作者: 伝福 翠人


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第6話『不器用な優しさと、温かいスープ』

 深い、泥のように重い眠りから浮上すると、まず感じたのは「匂い」だった。


 それは鼻腔をくすぐるような、薪が燃える香ばしい匂いと、何か甘く煮込まれた野菜の香り。


 ゆっくりと目を開ける。


 見慣れた灰色のアパートメントの天井……ではない。


 実家の、北向きの冷たい塔の部屋でもない。


 高い天井には柔らかな光が揺れ、天蓋のドレープが風もないのにふわりと揺れている。


「……あ」


 身じろぎをすると、全身が雲に包まれているかのような感触に驚いた。


 羽毛の詰まった掛け布団。肌触りの良いリネンのシーツ。


 どれもが人肌に温められたように心地よく、冷え切っていた私の四肢を優しく解きほぐしてくれる。


「お目覚めですかな、奥様」


 落ち着いた老人の声に、私は弾かれたように顔を上げた。


 ベッドの傍らに、背筋の伸びた初老の男性が控えている。燕尾服を着こなしたその姿は、いかにも年季の入った執事といった風情だ。


 けれど、私が驚いたのは彼の存在そのものではなく、彼が私に向けた眼差しだった。


 そこには、これまで私が向けられてきた「無関心」や「蔑み」といった色は一切なかった。


 あるのは、壊れ物を扱うような慎重さと、深い敬意。


「あ、あの……私は……」


「お加減はいかがですか。旦那様が、ひどく心配されておりました」


 旦那様。


 その言葉を聞いた瞬間、昨夜の記憶が鮮やかに蘇る。


 凍りついた寝室。苦悶するギルバート公爵。そして、私が彼の穢れを引き受けたこと。


 そうだ、私は生きていたのだ。


 自分の手を見る。指先の青い痣は消えかかり、代わりに血色の良い桜色が戻っていた。


「……旦那様は?」


「食堂でお待ちです。お着替えを済ませたら、ご案内いたします」


 執事が合図をすると、控えていた数名のメイドたちが音もなく進み出てきた。


 彼女たちもまた、私を見る目に怯えの色はない。それどころか、一人のメイドは私の手を取ると、そっと涙ぐむように微笑みかけてくれた。


 それは、私がこれまで知らなかった種類の温かさだった。


 用意されていたのは、華美な装飾のない、けれど仕立ての良い厚手のドレスだった。


 色は落ち着いたモスグリーン。


 袖を通すと、生地の柔らかさが肌に吸い付くようだ。


 鏡に映った自分を見る。いつも顔色が悪く、影の薄かった私が、少しだけ人間らしい輪郭を取り戻しているように見えた。


 案内された食堂は、城の他の場所と同じく、静謐な空気に満ちていた。


 けれど、昨日感じたような、肌を刺す冷気はない。


 大きな暖炉には赤々と火が燃え、部屋全体をオレンジ色の光で満たしている。


 その長いテーブルの端に、ギルバート公爵が座っていた。


「……来たか」


 私が入室すると、彼は読んでいた新聞を置き、ぎこちなく立ち上がった。


 昨日のような恐ろしい冷気は消えている。銀色の髪は窓からの光を受けて柔らかく輝き、彫刻のように整った顔立ちには、人間らしい血色が戻っていた。


 ただ、その瞳だけは、どこか居心地が悪そうに泳いでいる。


「おはようございます、旦那様」


「ああ……。体調は、どうだ」


「おかげさまで。あの、昨日はご迷惑を……」


「謝るな」


 彼は少し強い口調で遮ると、すぐにバツが悪そうに口元を覆った。


「……謝罪など必要ない。座ってくれ」


 彼自ら椅子を引き、私を促す。


 その手つきは不慣れで、どこかぎこちない。おそらく、誰かをエスコートすることなど、長い間なかったのだろう。


 私が席に着くと、すぐに料理が運ばれてきた。


 銀の蓋が開けられると、湯気と共に芳醇な香りが広がる。


 カブと鶏肉を煮込んだクリームスープ。焼きたてのパン。温野菜のサラダ。


 どれもが湯気を立てており、冷めないうちにという料理人の気遣いが伝わってくるようだ。


「……食べられるか」


 ギルバート公爵が、探るように聞いてくる。


 私は頷き、スプーンを手に取った。


 一口、スープを口に運ぶ。


 とろりとした液体が舌の上で解け、優しい甘みと温かさが喉を通り抜けていく。


 胃の腑に落ちた瞬間、体の芯から熱が広がるような感覚。


「……おいしいです」


 自然と声が出た。


 実家での食事は、いつも冷え切っていた。使用人たちが私を後回しにするため、スープは膜が張り、パンは固くなっていた。


 こんなふうに、誰かと一緒に、温かいものを食べるのはいつぶりだろう。


「そうか」


 ギルバート公爵の表情が、ふっと緩んだ。


 彼は自分では一口も食べようとせず、私が食べる様子をじっと見つめている。まるで、私が食事をすることが、彼にとっての栄養であるかのように。


「……足りなければ言ってくれ。それとも、何か他に欲しいものがあれば」


「いいえ、十分です。こんなに温かい食事は初めてですから」


「……」


 彼はまた眉を寄せた。私が過去の話をすると、彼はいつも痛みに耐えるような顔をする。


「エルマ」


 名前を呼ばれ、私はスプーンを止めた。


 彼の低い声が、暖炉の爆ぜる音に混じって響く。


「私は……不器用だ。君に何をしてやればいいのか、正直わからない」


 彼はテーブルの上で組んだ両手を、強く握りしめた。


「宝石や、最新のドレスが欲しいなら王都から職人を呼ぼう。君の実家のような、華やかな社交界が必要なら、私が無理やりにでも場を作ろう。君が望むなら、何でもするつもりだ。……君は私の恩人であり、妻なのだから」


 彼の言葉は真剣そのものだった。


 不器用な彼なりに、精一杯の誠意を示そうとしてくれているのがわかる。


 けれど、彼が挙げたもののどれも、私の心には響かなかった。


 宝石も、ドレスも、社交界も。


 かつての私が、窓の外から眺めることしか許されなかった「色のある世界」。


 でも、今の私が欲しいものは、そんな煌びやかなものではない。


 私はスプーンを置き、彼を真っ直ぐに見つめた。


「旦那様。私は、ドレスも宝石もいりません」


「……では、何を?」


「このスープで十分です」


 私の答えに、彼は呆気にとられたように目を見開いた。


「スープ?」


「はい。この温かいスープと、燃えている暖炉と……そして、あなたが目の前にいてくださること」


 私は微笑んだ。


 これは、お世辞でも謙遜でもない。心からの本音だった。


「私はずっと寒かったんです。体の芯まで凍えていて、どんなに厚着をしても震えが止まりませんでした。でも今は……あなたがここにいてくれるだけで、とても温かい」


 ギルバート公爵は、言葉を失ったように私を見つめていた。


 やがて、彼は長い溜息をつき、椅子の背もたれに身体を預けた。


 その表情は、困惑しているようで、けれどどこか救われたような安堵の色を帯びていた。


「……欲のない女だ」


「そうですか?」


「ああ。だが……悪くない」


 彼は照れ隠しのように視線を逸らし、初めて自分のスープに口をつけた。


 カチャリ、とスプーンが皿に当たる音が、静寂の中に優しく響く。


 


「なら、もっと薪をくべさせよう。この城にある薪をすべて燃やしてでも、君を温めると約束する」


「ふふ、そんなことをしたら、お城が火事になってしまいますわ」


「構わん。また建てればいい」


 冗談めかして言う彼の瞳に、微かな笑みの光が宿るのを、私は見逃さなかった。


 その光は、どんな高価な宝石よりも美しく、私の心を照らした。


 窓の外では、今日も灰色の雪が降り続いている。


 世界はまだ冷たく、厳しいままだ。


 けれど、この小さな食堂の中だけは、春の日溜まりのような穏やかな空気が流れていた。


 私はスプーンを動かし、温かいスープをもう一口運ぶ。


 じんわりと広がる熱が、私の中の凍りついた記憶を、一つ、また一つと溶かしていく気がした。

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