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氷の城の公爵様は、身代わり花嫁の「痛み」だけを愛せない ~魔力を持たない私が、あなたの孤独を溶かすまで~  作者: 伝福 翠人


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第5話『ただ、痛みを分かち合いたくて』

 ギルバートは、自分の天蓋付きベッドに彼女を寝かせたまま、その傍らから動けずにいた。


 老齢の執事が、驚きと戸惑いを隠せない様子で運んできたホットミルク。


 その湯気が、朝日の中で白く立ち上っている。


 だが、エルマはカップを持つ力さえ残っていないようだった。


 ギルバートは、匙ですくった温かいミルクを、彼女の血の気のない唇へそっと運んだ。


 彼女は雛鳥のように小さく口を開け、それをゆっくりと飲み下す。喉が動くたびに、生きているという微かな証が見えて、ギルバートの胸が締め付けられた。


「……ありがとうございます、旦那様」


「喋らなくていい。まだ体が冷え切っている」


「でも……」


 エルマは、毛布の上に出した指先を、所在なさげに動かした。その指先には、まだ凍傷のような青い痣が残っている。


 俺のせいだ。


 ギルバートは唇を噛み締めた。


 俺が弱かったせいで、このか細い少女に、致死量に近い『穢れ』を背負わせてしまった。


 本来なら、屈強な騎士でさえ発狂して死に至るほどの量だ。それを彼女は、一晩中、たった一人で耐え抜いたのだ。


「なぜだ」


 問いかけは、うめき声に近かった。


 怒っているわけではない。ただ、理解ができなかった。


 自分を犠牲にする理由が。そこまでして、他人を救おうとする動機が。


「なぜ、あんな無茶をした。死んでいたかもしれないんだぞ」


「はい。……そうかもしれません」


 エルマは否定しなかった。


 恐怖した様子もなく、ただ淡々と、事実を認めるように頷く。


「でも、旦那様の顔色が良くなって、本当によかったです。昨夜は、とても苦しそうでしたから」


「私の心配をしている場合か! 自分の体を見ろ、ボロボロじゃないか!」


 思わず声を荒らげてしまい、ギルバートはハッとして口をつぐんだ。


 大きな声に驚いたのか、エルマが少しだけ肩を震わせる。


 違う。怒鳴りたいわけじゃない。


 ただ、彼女の自己評価の低さが、見ていてあまりにも痛々しかったのだ。


 まるで、自分の命には価値がないと、最初から諦めているような――。


「……申し訳ありません」


 エルマは、困ったように眉を下げて微笑んだ。


 その笑顔が、ギルバートの心臓を鋭く抉った。


 それは、卑屈な笑みではなかった。


 もっと純粋で、透明で、残酷なほど無垢な微笑み。


「でも、私にはこれしかできませんから」


 彼女は、自分の胸元に手を当てて言った。


「私は『色のない子』と呼ばれていました。姉様のような、輝かしい浄化の力はありません。聖女としては出来損ないの、空っぽの器です」


「……」


「でも、空っぽだからこそ、誰かの汚れを吸い取ることはできます。汚れた水を吸うスポンジのように、痛みや穢れを引き受けることなら、私にもできるんです」


 彼女は、それを誇るわけでもなく、卑下するわけでもなく、ただの「機能」として語った。


 まるで、自分が人間ではなく、便利な道具であるかのように。


「実家でも、そうやって役に立たせていただいていました。姉様の調子が悪い時は、私がそばに行って、穢れを肩代わりして……。そうすれば、姉様はまた綺麗に輝けますから」


「……実家の人間は、君にそう教え込んだのか?」


「いいえ。誰も何も言いません。ただ、私がそうしていれば、みんなが穏やかでいられるんです。私が痛むだけで、みんなが幸せなら、それが一番いいことでしょう?」


 ギルバートは、拳を固く握りしめた。


 爪が掌に食い込み、血が滲みそうになる。


 想像してしまった。


 華やかな聖女の名門家。その片隅にある、陽の当たらない塔の一室。


 そこで一人、膝を抱えて座る少女の姿を。


 


 誰も彼女を褒めない。


 誰も彼女を愛さない。


 ただ、都合のいい時だけ「ゴミ箱」として利用し、用が済めば忘れる。


 罵倒や暴力よりもさらに冷たい、「無関心」という名の虐待。


 彼女の心は、ずっと長い間、たった一人で雪の中に置き去りにされていたのだ。


 この氷の城よりもずっと寒い場所で。


 ――俺と同じだ。


 いや、俺よりも孤独だ。


 俺には「守護者」という誇りがあった。人々から恐れられようと、世界を守っているという自負があった。


 だが、彼女には何も与えられてこなかった。


 誇りも、役割も、愛も。


 ただ「痛み」だけが、彼女が世界と繋がる唯一の手段だったのだ。


「……馬鹿なことを言うな」


 ギルバートの声が震えた。


 エルマが、きょとんとして顔を上げる。


「君は道具じゃない。スポンジでも、ゴミ箱でもない」


「旦那様……?」


「痛ければ泣けばいい。嫌なら拒絶すればいい。君が痛みを引き受けることで誰かが幸せになるとしても、君自身が不幸なら、それは間違いだ」


 ギルバートは、ベッドの縁に座り込み、彼女の冷え切った両手を、自分の大きな手で包み込んだ。


 まだ冷たい。


 けれど、彼の体温が伝わると、彼女の指先が微かに赤く色づいた。


「私は……君に救われた」


「え……」


「昨夜、君が手を握ってくれなければ、私は今頃、理性を失った怪物に成り果てていただろう。君は私を人間に戻してくれた。……それが、価値のないことだと言うのか?」


 エルマの瞳が揺れた。


 蜂蜜色の瞳に、涙の膜が張る。


 彼女は、自分が救ったのだという自覚すらなかったのかもしれない。ただ、使い潰されるつもりだったのだ。


「君の痛みは、君だけのものだ。誰かのために差し出す必要なんてない」


 ギルバートは、彼女の手を強く、けれど壊れ物を扱うように優しく握りしめた。


 誓うように。祈るように。


「これからは、私が君を守る」


「……私を?」


「ああ。君がくれたこの命と力は、すべて君のために使う。もう二度と、君一人を凍えさせはしない」


 その言葉は、ギルバート自身の魂からの叫びだった。


 これまで世界を守るために振るってきた剣を、これからは、たった一人の少女のために振るう。


 その決意が、彼の凍りついていた時間を溶かし、新たな熱となって全身を駆け巡った。


 エルマの頬を、一筋の涙が伝い落ちた。


 彼女は驚いたように自分の頬に触れ、濡れた指先を見つめた。


「……変ですね。痛くないのに、涙が出るなんて」


「それは、君の心が溶けたからだ」


「溶けた……?」


「ああ。ずっと凍っていたんだ。私と同じように」


 ギルバートは手を伸ばし、彼女の頬の涙を親指で拭った。


 その温かさに、エルマがまた一つ、涙をこぼす。


 それは悲しみの涙ではなく、春の雪解け水のように、彼女の中に溜まっていた冷たいものを洗い流す涙だった。


「……暖かいです、旦那様」


 エルマが、泣き笑いのような表情で呟く。


 その手がおずおずと、ギルバートの手を握り返した。


 微かな力。


 けれど、それはギルバートにとって、どんな聖剣よりも強く、確かな「絆」の重さだった。


 窓の外では、いつの間にか雪が止んでいた。


 雲の切れ間から差し込む光が、部屋の中を優しく照らし出している。


 二人は言葉もなく、ただ互いの体温を確かめ合うように、長い間、手を繋いでいた。


 


 共鳴。


 それは痛みを分かち合うだけでなく、温もりさえも分かち合える力なのだと、二人が知るのはまだ少し先のことだ。


 今はただ、この小さな温もりだけが、世界で唯一の真実だった。

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