第28話『エピローグ:永遠に溶けない愛』
北の果てにあるその領地は、かつて『氷の牢獄』と呼ばれていたという。
一年中灰色の雪が降り続き、太陽すら顔を出さない死の世界。
近づく者は凍りつき、心を病むと恐れられていた場所。
けれど今、その場所をそう呼ぶ者は誰もいない。
人々は親愛と敬意を込めて、そこを『花の城』と呼ぶ。
「……ママ、見て! 青いお花が咲いたよ!」
元気な声と共に、小さな男の子が駆け寄ってきた。
ふわふわの銀髪が風に揺れ、宝石のような碧眼がキラキラと輝いている。
私はしゃがみ込み、泥だらけの小さな手を受け止めた。
「まあ、本当ね。これはネモフィラよ。空の色を映して咲くお花」
「ネモフィラ! パパの目と同じ色だね!」
「ええ、そうね」
私は愛おしさを込めて、息子の頭を撫でた。
彼が指差す先には、かつては無機質な雪原だった中庭が広がっている。
今はもう、雪はない。
見渡す限りの緑の絨毯。色とりどりの花々が咲き乱れ、蝶が舞い、噴水が虹を作っている。
どこまでも穏やかで、美しい春の庭。
「……リオン、ママを困らせていないか?」
テラスの方から、穏やかな声がかかった。
振り返ると、ギルバート様が立っていた。
年を重ね、目尻に笑い皺が刻まれたけれど、その美貌と気品は衰えるどころか、深みを増している。
かつての刺々しい冷気は消え失せ、今は春の陽射しのような温かいオーラを纏っていた。
「パパ! 見て、お花!」
「ああ、綺麗だな。……だが、ママのドレスを汚してはいけないよ」
彼は苦笑しながら、ハンカチを取り出して私の頬についた泥を拭った。
その手つきは、相変わらず過保護で、くすぐったいほど優しい。
「君もだ、エルマ。庭いじりは庭師に任せろと言っただろう? そんな細い腕で土を掘り返して、疲れてしまう」
「ふふ、これくらい平気です。土に触れていると、落ち着くんです」
私は彼の手を取り、頬ずりをした。
温かい。
あの頃、氷のように冷たかったこの手が、今はこんなにも温かい。
あれから、五年が経った。
王都での決戦の後、世界は劇的に変わった。
空を覆っていた穢れの雲は消え去り、国中に光が戻った。
ソフィアお姉様はその後、聖女の地位を返上し、修道院に入ったと聞く。そこで静かに祈りの日々を送っているらしい。
カイル様は王位継承権を放棄し、地方の領主として地道に働いているという噂だ。
そして私たちは、この辺境で、二人だけの(今は三人になったけれど)静かな暮らしを営んでいる。
王都からは何度も「救国の英雄として戻ってきてほしい」という要請があったけれど、ギルバート様はすべて断った。
『私が守りたい世界は、この城壁の中にある』と言って。
「……何を考えているんだ?」
ギルバート様が、私の顔を覗き込んできた。
私は首を横に振った。
「いいえ。……ただ、幸せだなと思って」
「そうか」
彼は満足そうに目を細め、私の肩を抱いた。
「リオン、おやつの時間だぞ。乳母がアップルパイを焼いて待っている」
「わーい! 行ってきます!」
息子は元気よく返事をすると、嵐のように駆けていった。
その小さな背中を見送りながら、私たちはベンチに腰を下ろした。
心地よい風が吹いている。
花の香りと、土の匂い。
かつては、血と錆の匂いしかしない場所だったのに。
「……時々、夢を見るんだ」
ギルバート様が、遠くを見る目で言った。
「君がいなくなる夢だ。朝起きると、隣に君がいなくて……世界がまた、灰色の雪に閉ざされている。そんな悪夢だ」
「旦那様……」
「飛び起きて、隣で眠る君の寝息を確認して、ようやく息ができる。……情けない話だろう? 何年経っても、まだ怖がっているんだ」
彼は自嘲気味に笑った。
最強の守護者と呼ばれた男の、愛おしい弱さ。
私は彼の手を両手で包み込み、ぎゅっと握りしめた。
「いなくなりませんよ。私はここにいます」
「ああ」
「私があなたの一部であるように、あなたも私の一部です。……たとえ離れていても、心臓の音が聞こえるくらい、私たちは繋がっていますから」
『共鳴』の力は、戦いが終わった今も消えていない。
ただ、その使い方は変わった。
痛みを分かち合うためではなく、喜びと愛を共有するための絆として、私たちの魂を繋いでいる。
ギルバート様は、私の手を引き寄せ、その甲に口づけた。
「……痛くないか?」
彼がいつものように尋ねる。
それは、私の古傷を気遣う言葉であり、同時に「君は今、幸せか?」と問う、彼なりの愛の確認だった。
私は微笑んだ。
心からの、曇りのない笑顔で。
「ええ、とても温かいです」
私の答えに、彼もまた、春の雪解けのような笑顔を見せた。
空を見上げる。
どこまでも高く、澄み渡る青空。
そこにはもう、黒い雲も、灰色の雪もない。
あるのは、降り注ぐ光と、未来への希望だけだ。
私たちは寄り添い、静かに目を閉じた。
言葉はいらない。
ただ、隣にいる体温を感じるだけで、満ち足りていた。
かつて、痛みだけが絆だった二人は、今、温もりという永遠の絆で結ばれている。
氷の城の物語は、ここで幕を閉じる。
けれど、私たちの「春」は、これからもずっと続いていくのだ。
永遠に溶けない愛と共に。
【完】




