第27話『さようなら、遠い日の私』
大広間に降り注ぐ光は、まだ収まる気配を見せなかった。
天井の裂け目から差し込む夕日は、黄金色の粒子となって舞い踊り、床に散らばる結晶の花を輝かせている。
それは、この世のものとは思えないほど幻想的な光景だった。
その光の中心で、私はギルバート様に支えられて立っていた。
体の奥底から力が抜けていくような疲労感があったけれど、精神は研ぎ澄まされたように澄んでいる。
終わったのだ。
長い冬も、王都を蝕んでいた病も、そして私自身を縛り付けていた過去も。
「……エルマ」
瓦礫の陰から、掠れた声が聞こえた。
私はゆっくりと視線を向けた。
そこには、ドレスの裾を泥と煤で汚し、へたり込んでいるソフィアお姉様の姿があった。
かつての「太陽の聖女」の面影はない。
髪は乱れ、肌はくすみ、その瞳からは傲慢な輝きが消え失せていた。あるのは、ただの呆然とした虚無だけ。
「どうして……」
彼女は、震える唇で呟いた。
「どうして、あんたなの? どうして、あんたが光っているの?」
それは、純粋な疑問だった。
彼女の世界では、光り輝くのは常に自分でなければならなかった。エルマは影であり、踏み台であり、自分の輝きを引き立てるための背景でしかなかったはずだ。
その前提が崩れ去った今、彼女は自分の存在意義を見失い、迷子の子供のように震えていた。
「……私は、光りたかったわけではありません」
私は静かに答えた。
「ただ、大切な人を守りたかっただけです。そのためなら、影になることも、泥を被ることも厭わなかった。……それだけのことです」
そう。
私が光になれたのは、私が特別だったからではない。
ギルバート様という、心から守りたいと思える存在に出会えたからだ。
愛する人のために変わりたいと願う意志が、私を変えたのだ。
ソフィアお姉様は、涙をこぼした。
ポロポロと、大粒の涙が泥だらけの頬を伝い落ちる。
「私は……怖かったのよ」
彼女は、懺悔するように語り出した。
「みんなが私を『聖女』だと崇めるから。期待するから。……失敗できなかった。弱音も吐けなかった。だから、あんたが必要だったの」
彼女は私を見た。その目には、歪んだ依存と、哀れなほどの執着が宿っていた。
「あんたがいれば、私は完璧でいられた。あんたが私の汚れを吸い取ってくれるから、私は綺麗でいられた。……ねえ、エルマ。お願いよ」
彼女は、ズリズリと膝を引きずって近づいてきた。
「戻ってきて。私には、あんたが必要なの。あんたがいないと、私は……私は……!」
彼女の手が伸びてくる。
私に縋ろうとする手。私を再び「影」へと引きずり込もうとする手。
かつての私なら、その涙に絆され、手を差し伸べてしまったかもしれない。
『可哀想なお姉様』『私が支えてあげなきゃ』と、共依存の泥沼に足を踏み入れていたかもしれない。
けれど。
私は一歩も動かず、ただ冷めた目で見下ろしていた。
彼女の言葉が、ひどく遠い世界の出来事のように感じられたのだ。
彼女は「必要だ」と言った。
でもそれは、私という人間が必要なのではない。私の「機能」が必要なだけだ。
彼女は最後まで、私を見ようとはしなかった。
私の心も、痛みも、ささやかな願いも。何一つ知ろうとはせず、ただ自分の都合のために消費しようとしている。
――ああ、もう十分だ。
私の中で、何かが完全に断ち切られる音がした。
それは冷たい音ではなく、鎖が解けて地面に落ちるような、軽やかな音だった。
「お姉様」
私が呼びかけると、彼女は期待に顔を上げた。
私は、彼女の手が届かない距離で、静かに告げた。
「さようなら」
ソフィアお姉様の顔が凍りついた。
「え……?」
「私はもう、あなたの影ではありません。あなたの鏡でも、道具でもありません」
私は隣に立つギルバート様を見上げた。
彼は、何も言わずに私の肩を抱いてくれている。
その温かさだけが、私の居場所だ。
「私は、アイゼンシュタイン公爵夫人、エルマです。……それ以外の何者でもありません」
きっぱりと告げた私の言葉は、広い空間によく響いた。
ソフィアお姉様の手が、空を掴んで力なく落ちる。
「待って……。私を、捨てるの? たった一人の姉を?」
「捨てたのは、あなたたちの方です」
私は淡々と言った。
恨み言ではない。ただの事実確認として。
「あなたたちは私を捨て、殺そうとしました。……その時点で、私たちはもう家族ではありません」
彼女は言葉を失い、ただ口をパクパクと動かしていた。
私はもう、彼女にかける言葉を持たなかった。
怒りも、憎しみも、そして愛情さえも。
すべてが光の中に溶けて消えてしまったようだった。
残ったのは、ただ「他人」であるという事実だけ。
「行きましょう、旦那様」
私はギルバート様に言った。
彼は頷き、私の背中を優しく押してくれた。
「ああ。……ここは空気が悪い」
彼は一度だけ、冷ややかな視線をソフィアお姉様に向けた後、興味なさげに背を向けた。
私たちは歩き出した。
出口へと続く道を。光の射す方へ。
「あああぁぁぁ……ッ!!」
背後で、ソフィアお姉様の絶叫が響いた。
それは子供の夜泣きのような、あるいは全てを失った者の嘆きのような、悲痛な叫びだった。
彼女は理解したのだろう。
自分がもう二度と、私に届かないということを。
そして、これからは「影」を持たないまま、自分の力だけで、あの完璧な聖女を演じ続けなければならないという地獄を。
でも、私は振り返らなかった。
同情はしない。
彼女には彼女の人生があり、私には私の人生がある。
ただ、それだけの話だ。
王宮の外に出ると、夕風が頬を撫でた。
雨上がりの澄んだ空気が、肺いっぱいに満ちていく。
空は茜色に染まり、雲の切れ間から一番星が瞬き始めていた。
街の方からは、人々の話し声や、復興へ向けて動き出す音が聞こえてくる。
世界は傷ついたけれど、死んではいなかった。
また明日から、新しい日々が始まるのだ。
「……終わったな」
ギルバート様が、夕日を見つめながら呟いた。
その横顔は、憑き物が落ちたように穏やかだった。
長年、彼を苦しめてきた「守護者」としての重圧。一人で世界を背負わなければならないという呪い。
それらもまた、今日の光と共に浄化されたのかもしれない。
「はい。終わりました」
「疲れただろう」
「少しだけ」
私が答えると、彼は立ち止まり、私の前に屈み込んだ。
「乗れ」
「え?」
「背中だ。……歩くのも辛いだろう」
彼はぶっきらぼうに背中を差し出した。
周りには騎士たちもいるのに。
私は顔を赤くしながらも、彼の広い背中に遠慮なく身を預けた。
温かい。
そして、何よりも安心する匂い。
「重くありませんか?」
「軽い。……もっと食べて、太らなければな」
彼は軽々と私を背負い上げ、歩き出した。
その足取りは力強く、迷いがない。
「帰ったら、何が食べたい?」
「そうですね……。温かいポトフがいいです。カブがたくさん入った」
「わかった。料理長に最高のものを作らせよう」
私たちは、他愛のない話をしながら、瓦礫の道を歩いた。
かつて私が憧れていた王都。
煌びやかで、冷たくて、私が居場所を持てなかった場所。
今、そこを背にして去っていくことに、一片の未練もなかった。
私の帰る場所は、北にある。
一年中雪が降るけれど、暖炉にはいつも火が灯り、優しい人たちが待っている場所。
そして何より、私を世界で一番愛してくれる人がいる場所。
私はギルバート様の首に腕を回し、そのうなじに顔を埋めた。
さようなら、遠い日の私。
塔の中で泣いていた、孤独な少女。
あなたの分まで、私はきっと、幸せになります。
空には満天の星が輝き始めていた。
それはまるで、私たちの新しい門出を祝うように、静かに瞬いていた。




