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氷の城の公爵様は、身代わり花嫁の「痛み」だけを愛せない ~魔力を持たない私が、あなたの孤独を溶かすまで~  作者: 伝福 翠人


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第26話『灰色の空を晴らす光』

 私が掲げた右手のひらで、金色の光が脈打っている。


 それは、これまで私が知っていたどの魔力とも違っていた。


 誰かを傷つけるための鋭さも、拒絶するための冷たさもない。


 ただひたすらに温かく、そして懐かしい。


 まるで、長い冬の終わりに、分厚い雪の下で春を待ちわびていた種子が、殻を破る瞬間の熱量そのもののようだ。


「……行け」


 私は、その光を解き放った。


 光は矢のように飛んでいくのではない。


 波紋のように、あるいは風に乗る花びらのように、ふわりと広がりながら、大広間の奥にある『元凶』へと吸い込まれていった。


 ドクン、と。


 扉の向こうで響いていた不快な鼓動が、一度だけ大きく跳ねた。


 次の瞬間。


 カアァァァァァッ……!


 音が消えた。


 視界が、純白に塗り潰される。


 まばゆいけれど、目は眩まない。


 光が空間を満たし、壁を、天井を、そして床にこびりついた黒い泥を、優しく透過していく。


 浄化とは、消滅させることではないのだと、私は初めて知った。


 それは「還す」ことだ。


 行き場を失って淀み、腐敗してしまった想いを、本来あるべき美しい形へと解きほぐし、空へ還すこと。


 光の中で、黒い泥がシュワシュワと泡立ち、金色の粒子へと変わっていく。


 それは蛍の群れのように舞い上がり、天井をすり抜けて空へと昇っていく。


 天井が崩落したわけではない。


 ただ、王宮を覆っていた黒い結界のような天井画が、光に洗われて透明になり、その向こうにある「本当の空」を覗かせたのだ。


「……見ろ、エルマ」


 隣で、ギルバート様が震える声で指差した。


 私は顔を上げた。


 そこにあったのは、もはやあの薄汚れた灰色の空ではなかった。


 分厚い黒雲が、光の粒子に貫かれ、内側から裂けていく。


 裂け目から差し込んだのは、目が覚めるような鮮烈な「青」だ。


 ポツリ、と。


 頬に冷たいものが落ちた。


 黒い雨ではない。


 それは透明で、清らかな、ただの水滴だった。


 空に残っていた最後の穢れが、光によって浄化され、恵みの雨となって降り注いでいるのだ。


 雨音が変わる。


 ベチャベチャという粘着質な音から、サーッという爽やかな音色へ。


 その雨が大地を洗うたびに、腐臭が消え、土の匂いと、若草の香りが立ち上ってくる。


「……暖かい」


 私は両手を広げ、雨を受けた。


 痛くない。


 肌を刺すような冷気も、命を削る毒もない。


 ただ、優しい雨が私を包み込んでくれる。


 ――ああ、これが世界だ。


 私がずっと見たかった、色のある世界。


 城の外からも、ざわめきが聞こえ始めた。


 恐怖の悲鳴ではない。


 驚きと、歓喜の声だ。


「雨が……黒くないぞ!」


「空を見ろ! 太陽だ!」


「晴れた……晴れたんだ!」


 人々の声が、風に乗って届く。


 その声を聞いた瞬間、私の胸の奥にあった最後のしこりが溶けて消えた。


 私は、誰かの身代わりにならなくても、誰かを救うことができた。


 自分の命を削るのではなく、愛する人からもらった温かさを分けることで、世界を変えることができたのだ。


 足の力が抜け、私はその場へへたり込んだ。


 けれど、倒れることはなかった。


 ギルバート様が、すぐに私を支えてくれたからだ。


「……よくやった」


 彼は私を抱きしめたまま、その場に膝をついた。


 私たちの目線の高さで、美しい結晶の花が咲いている。


 黒い泥だったものが変わり果てた、永遠に枯れない花。


「すごいな、君は」


 ギルバート様の声は、涙で濡れていた。


「私の剣では、斬ることしかできなかった。凍らせて、時間を止めることしかできなかった。……だが君は、溶かしたんだ。あの呪いを、こんなにも美しい景色に変えてしまった」


 彼は、私の顔を覗き込んだ。


 その蒼い瞳に、晴れ渡った空と、私の姿が映っている。


「私が君を守ると言ったのに。……結局、また君に救われてしまったな」


「いいえ」


 私は首を振って、彼の頬に手を添えた。


 温かい。


 もう、氷のように冷たくはない。血の通った、人間の温もりだ。


「あなたがいてくれたからです。あなたが私の手を握っていてくれたから、私は光になれました。……一人では、きっと暗闇の中で溺れていました」


 そう。


 これは私の力ではない。私たちの力だ。


 『共鳴』は、一人では発動しない。


 受け止めてくれる誰か、信じてくれる誰かがいて初めて、奇跡を起こすことができる。


「ありがとう、ギルバート様。……私を見つけてくれて」


「私の方こそ。……私の人生に現れてくれて、ありがとう」


 私たちは、瓦礫と結晶の花に囲まれた大広間の中心で、静かに額を合わせた。


 周囲にはまだ、戦いの爪痕が残っている。


 王都の復興には、長い時間がかかるだろう。


 人々の心に残った傷跡も、すぐには消えないかもしれない。


 けれど、空は晴れた。


 雲の切れ間から、夕日が差し込んでくる。


 それは、長い長い冬の終わりを告げる、黄金色のファンファーレのようだった。


 ふと、大広間の入り口の方で気配がした。


 振り返ると、そこにソフィアお姉様が立っていた。


 泥だらけのドレスのまま、柱に縋り付いて、呆然と空を見上げている。


 その表情からは、狂気も、嫉妬も消え失せていた。


 あるのは、圧倒的な光景を前にした、子供のような無垢な驚きだけ。


「……きれい」


 彼女の唇が動いた。


 その一言が、かつての『太陽の聖女』が漏らした、初めての飾らない本音のように聞こえた。


 私は彼女に声をかけなかった。


 今はまだ、かける言葉が見つからない。


 彼女もまた、この光の中で、自分の心と向き合わなければならないのだろう。


 誰の影でもなく、誰の光でもなく、ただの「ソフィア」として。


「……帰ろうか、エルマ」


 ギルバート様が、優しく私の肩を抱いた。


「ああ、ここは王都だったな。……私たちの家へ、帰ろう」


「はい」


 私は頷いた。


 私たちの家。


 北の果てにある、今はもう凍りついていない城へ。


 そこには、私たちが植えた小さな花の芽が、きっとこの陽射しを浴びて、背伸びをしているはずだから。


 私たちは手を取り合い、光の中へと歩き出した。


 足元で、結晶の花がシャララと涼やかな音を立てて祝福していた。

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