第25話『覚醒、春の陽射しのように』
そこは、光の届かない深海のような場所だった。
目を開けているのか閉じているのかもわからないほどの漆黒。
音もなく、温度もなく、ただ絶望だけが沈殿している世界。
――寒い。
私は、ギルバート様の心の中にいた。
私の体を通して、彼の中に溜め込まれた膨大な『穢れ』が流れ込んでくる。
それは、これまで私が引き受けてきたものとは桁が違った。
針で刺されるような鋭い痛みではない。
巨大な万力で全身を粉砕されるような、圧倒的な質量の暴力。
私の血管を、神経を、細胞の一つ一つを、黒い泥が食い破りながら駆け巡る。
「……っ、ぐ……!」
呼吸ができない。
肺の中まで泥が詰まってしまったようだ。
私の小さな器なんて、この奔流の前では木の葉のように脆い。
もう、限界だった。
意識が千切れ飛びそうになる。
手足の感覚はとうになく、自分が生きているのか死んでいるのかさえ曖昧だ。
『……逃げろ』
闇の奥底から、声が聞こえた。
ギルバート様の声だ。
けれど、それはもう言葉としての形を失いかけていた。
『離れろ……エルマ……。私が……お前を……壊して、しまう……』
拒絶。
最後の理性で、彼は私を突き放そうとしている。
愛する者を守るために、自分だけが孤独な怪物になって死のうとしている。
その優しさが、たまらなく悲しかった。
どうしてこの人は、いつも自分を犠牲にするのだろう。
どうして、幸せになることを許さないのだろう。
「……嫌です」
私は、心の中で叫んだ。
声は出ないけれど、意志の力で彼に伝える。
「私は離れません。あなたの痛みは、私の痛みです。約束したでしょう?」
私は闇の中で、彼を探した。
どこ? どこにいるの?
黒い泥をかき分け、茨の棘に身体を引き裂かれながら、私は必死に手を伸ばした。
かつての私なら、ここで諦めていただろう。
「これで役に立って死ねるなら本望だ」と、安らかな死を受け入れていただろう。
自分には生きる価値がないと思っていたから。
誰かの身代わりとして死ぬことが、私の唯一の存在意義だと思い込まされていたから。
でも、今は違う。
死にたくない。
生きたい。
もっと、この人と一緒にいたい。
春になれば、また庭のベンチで本を読みたい。
夏には、冷たい小川に足を浸して笑い合いたい。
秋には、色づいた葉を栞にして、冬には、暖かいスープを二人で飲みたい。
そんな、当たり前の未来が欲しい。
彼と一緒の未来が。
「……ギルバート様!」
指先に、硬く、冷たい何かが触れた。
それは、氷の中に閉じ込められた彼の手だった。
私はその手を、力一杯握りしめた。
「見つけました。……もう、離しません」
その瞬間。
私の中に流れ込む穢れの量が、爆発的に増えた。
ダムが決壊したような濁流。
私の体が悲鳴を上げる。ミシミシと魂がひび割れる音がする。
受け止めきれない。
あふれる。壊れる。
――死ぬ。
死の予感が、冷たい刃となって首筋に触れた。
怖い。
でも、それ以上に悔しかった。
私の愛は、こんな泥なんかに負けるほど弱いものなの?
私が彼を想う気持ちは、ただ痛みを受け入れるだけの「受動的」なものでしかないの?
違う。
私は、彼を守りたい。
彼を苦しめる全ての理不尽を払い除け、彼が安心して眠れる場所を作りたい。
ただのゴミ箱じゃない。
彼を照らす光になりたいと、そう願ったはずだ。
「……負けない」
私は奥歯を噛み締めた。
血の味が口の中に広がる。
「私の体なんて、いくら傷ついてもいい。でも……私の愛する人を傷つけることは、絶対に許さない!」
心の奥底で、何かが熱く燃え上がった。
それはこれまでの、静かで控えめな共感の灯火ではない。
もっと激しく、能動的で、攻撃的ですらある「意志」の炎。
――穢れなんて、いらない。
こんな痛み、彼には必要ない。
私が全部飲み込んで、変えてみせる。
冷たい雪を溶かす春の陽射しのように。
黒い炭をダイヤモンドに変える地熱のように。
熱い。
体の芯が、燃えるように熱い。
限界を超えて悲鳴を上げていた私の魔力回路が、焼き切れる寸前で、奇妙な変質を始めた。
『吸収』するための器が、形を変えていく。
ただ受け入れるのではなく、内側に取り込み、圧縮し、昇華させるための『炉』へと。
「……あ、あああああっ!!」
私の喉から、絶叫がほとばしった。
それは断末魔ではない。産声だ。
私の中からあふれ出した光が、内側から私の体を突き破り、外へと解き放たれる。
カッ!!
視界が白く染まった。
闇が弾け飛ぶ。
ギルバート様を縛り付けていた黒い茨が、光に触れた端からガラスのように砕け散っていく。
泥が乾き、砂金のような粒子になって舞い上がる。
温かい。
まるで、日向の中にいるようだ。
「……エル……マ……?」
呆然とした声が聞こえた。
私は目を開けた。
そこは、もう闇の中ではなかった。
王宮の大広間。
けれど、さっきまでの地獄絵図は消え失せていた。
私の体から放たれた光は、同心円状に広がり、周囲の空間を満たしている。
その光の中で、襲いかかってきていた魔獣たちが、次々と動きを止めていた。
彼らの体である黒い泥が、光を受けると白く硬化し、そしてキラキラと輝く結晶へと変わっていくのだ。
パリン、パリン、シャララ……。
美しい音色と共に、魔獣たちが宝石の欠片となって崩れ落ちていく。
穢れが消滅したのではない。
浄化され、無害で美しい『聖結晶』へと変質したのだ。
「これは……」
私の腕の中で、ギルバート様が目を見開いていた。
彼の背中を侵食していた黒い棘はもうない。
傷口は塞がり、顔色には赤みが戻っている。
彼の瞳の赤かった光も消え、いつもの美しい氷河の青色が戻っていた。
「君が……やったのか?」
彼は信じられないものを見るように、私を見つめた。
私の体は、淡い金色のオーラに包まれている。
その光は、彼の体温よりも温かく、そして力強かった。
「……はい」
私は、自分の手を見つめた。
震えは止まっていた。
体の中を巡っていた重苦しい泥は消え、代わりに清冽な力が満ち溢れている。
わかったのだ。
これが、私の本当の力。
ただ痛みに耐えるだけの『共鳴』ではなく、痛みを糧にして光を生み出す『結晶化』の力。
「旦那様、私……わかりました」
私は彼を抱きしめ直した。
「私はもう、誰かの身代わりではありません。私は、あなたを守るための盾であり、闇を切り裂く剣です」
「エルマ……」
「見ていてください。この光で、終わらせてみせます」
私は立ち上がった。
足元には、美しい結晶の花が咲き乱れている。
ギルバート様も、ふらつきながら立ち上がり、私の隣に並んだ。
彼はもう、私を庇うように前には立たなかった。
対等なパートナーとして、私の腰を支え、剣を構える。
「……ああ。行こう」
彼の声に、力が戻っていた。
「君の光があれば、もう何も怖くはない」
私たちは、大広間の奥にある扉を見据えた。
そこからはまだ、ドクンドクンと不快な鼓動が聞こえてくる。
けれど、その音はもう、恐怖の対象ではなかった。
ただの、浄化されるのを待っている「汚れ」に過ぎない。
私は右手をかざした。
掌に、光が集まる。
それは春の陽射しのように優しく、けれど冬の氷をも溶かす熱量を持って、煌々と輝き始めた。




