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氷の城の公爵様は、身代わり花嫁の「痛み」だけを愛せない ~魔力を持たない私が、あなたの孤独を溶かすまで~  作者: 伝福 翠人


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第24話『蝕まれる守護者』

 王宮の大広間は、かつて国中の貴族が集い、舞踏会が開かれた煌びやかな場所だった。


 天井には巨大なシャンデリアが輝き、床は大理石で磨き上げられ、壁には歴代の王たちの肖像画が飾られていたはずだ。


 けれど今、私たちの目の前に広がっているのは、そんな記憶を嘲笑うかのような異界だった。


「……酷い」


 シャンデリアは砕け落ち、床には黒い泥が沼のように広がっている。


 壁の肖像画はすべて黒く塗りつぶされ、そこから滲み出したインクのような液体が、床へと滴り落ちていた。


 そして何より異様なのは、空間そのものが歪んでいることだ。


 遠近感が狂い、上下左右が曖昧になり、まるで悪夢の中を歩いているような浮遊感と吐き気が襲ってくる。


「離れるな、エルマ」


 ギルバート様の声が、緊張で硬くなっている。


 彼は私の手を痛いほど強く握りしめ、油断なく周囲を警戒していた。


 その体から放たれる冷気が、迫り来る瘴気を押し返し、私たちだけを安全な「冬」の中に隔離してくれている。


 ヒュオォォォ……。


 風の音が聞こえた。


 いや、それは風ではない。無数の囁き声だ。


 妬み、恨み、絶望、悲嘆。


 この国の人々が吐き出した負の感情が、行き場を失って渦巻き、怨嗟の声となって響いているのだ。


 ズズッ、と泥の中から何かが立ち上がる音がした。


 一体ではない。十、二十……いや、百。


 黒い泥が人の形を取り、騎士の形を取り、あるいは異形の獣の形を取って、私たちを取り囲む。


 それらは皆、顔のない頭部をこちらに向け、ゆらりと揺れていた。


「……来るぞ」


 ギルバート様が剣を構える。


 次の瞬間、影の群れが一斉に襲いかかってきた。


 キィィィン!!


 ギルバート様の剣が一閃し、先頭の影を切り裂く。


 物理的な手応えはないはずなのに、空間が凍りつき、影はガラス細工のように砕け散った。


 けれど、砕けた破片は地面に落ちるとすぐに溶け、また新たな影となって立ち上がる。


「下がるな! 前に出るぞ!」


 彼は叫び、私を引きずるようにして前進した。


 立ち止まれば飲み込まれる。この泥沼の中で足を止めれば、二度と浮かび上がれない。


 私たちは嵐の中を行く小舟のように、影の波を掻き分けて進んだ。


 ギルバート様の戦いぶりは、凄まじかった。


 剣を振るうたびに氷の華が咲き、近づく敵を凍結させる。


 左手からは吹雪を放ち、遠くの敵を牽制する。


 私には指一本触れさせないという鉄壁の守り。


 けれど、敵の数が多すぎる。


 斬っても斬っても湧いてくる影たちは、疲れを知らず、痛みも感じない。


 対して、ギルバート様は生身の人間だ。


 魔力を使い続け、剣を振り続ければ、やがて限界が来る。


「はぁ、はぁ……ッ!」


 彼の息が荒くなってきた。


 握りしめた私の手が、汗で滑る。


 それでも、その手の力は少しも弱まらなかった。


「あと少しだ。玉座の間まで行けば……元凶があるはずだ」


 彼は自分に言い聞かせるように呟き、目の前の巨大な影を両断した。


 視界が開ける。


 大広間の奥、階段の上にそびえる重厚な扉が見えた。


 あそこだ。あそこから、ドクンドクンという心臓のような音が聞こえてくる。


 私たちは階段へ駆け出した。


 だが、その時。


 ドサァッ!!


 天井が崩落したかのような音がして、私たちの行く手を巨大な黒い壁が遮った。


 いいえ、壁ではない。


 それは、天井から垂れ下がった巨大な「棘」の集合体だった。


 無数の茨が絡み合い、太い柱となって私たちの前に突き刺さったのだ。


「なっ……!?」


 ギルバート様が足を止める。


 その茨の柱から、無数の棘が矢のように発射された。


「しまっ……!」


 彼は咄嗟に私を抱き寄せ、背中を向けた。


 氷の障壁を展開する暇もなかった。


 彼は自分の体を盾にして、私を守ったのだ。


 ドスッ、ドスドスッ!


 鈍い音が、彼の背中で響いた。


 黒い棘が、彼のマントを貫き、肉体に突き刺さる音。


「ぐぅ……ッ!!」


 ギルバート様が苦悶の声を漏らし、ガクリと膝をついた。


 私を抱きしめた腕が、痙攣するように震える。


「旦那様!?」


 私は悲鳴を上げて、彼の顔を覗き込んだ。


 彼の顔色は、紙のように白かった。


 唇から血が滴り落ちている。


 けれど、それ以上に恐ろしかったのは、彼の背中に突き刺さった棘の状態だった。


 棘は物理的な傷を与えただけではない。


 刺さった場所から、黒い血管のような模様が広がり、彼の肌を侵食し始めていたのだ。


「こ、これは……」


「……大丈夫だ。かする傷だ」


 彼は脂汗を流しながら、強引に立ち上がろうとした。


 けれど、足に力が入らないのか、再びよろめいて膝をつく。


「くそっ……体が、動かない……」


 彼の呼吸が、ヒューヒューと音を立てる。


 穢れだ。


 あの棘に含まれていた高濃度の穢れが、彼の体内に直接注入されたのだ。


 それは猛毒となって全身を駆け巡り、彼の魔力を汚染し、神経を焼き尽くしている。


「旦那様、無理です! これ以上は……!」


「行くぞ……。ここで止まるわけにはいかない」


 彼は剣を杖にして、無理やり体を起こした。


 その目は、まだ死んでいない。


 私を守り抜くという意志だけで、かろうじて意識を繋ぎ止めている。


 周囲からは、また影たちが滲み寄ってくる。


 傷ついた獲物を狙うハイエナのように、じりじりと包囲網を狭めてくる。


「……来い」


 ギルバート様が、私を背に庇い、剣を構えた。


 けれど、その切っ先は震えていた。


 もはや立っているのが不思議なほどの状態。


 影が一斉に飛びかかってきた。


 ギルバート様は剣を振るったが、その動きは明らかに鈍っていた。


 一体を切り伏せる間に、別の影が彼の脇腹に爪を立てる。


「がっ……!」


 鮮血が舞った。


 赤い血ではない。彼の傷口から流れたのは、黒く濁った血だった。


 すでに穢れが、彼の血さえも変質させてしまっている。


「やめて! もうやめて!」


 私は叫んだ。


 私が前に出ようとすると、彼は腕を伸ばして私を制した。


「出るなッ!」


 怒号。


 彼は血を吐きながら、鬼のような形相で私を睨んだ。


「君には、指一本触れさせないと言ったはずだ……! 私の後ろにいろ!」


 彼は再び剣を振るう。


 もう魔力は残っていないのか、氷の華は咲かない。


 ただの鉄塊としての剣技だけで、彼は群がる影をなぎ払い続ける。


 傷が増える。


 穢れが浸透する。


 彼の美しい銀髪が、徐々に黒く染まっていくのが見えた。


 ――怪物化。


 カイル様が言っていた言葉が脳裏をよぎる。


 騎士は穢れを溜め込みすぎると、理性を失い、魔獣へと変貌する。


 今、目の前で、私の愛する人が人であることを辞めようとしている。


 私を守るために。


「はぁ、はぁ……」


 最後の一体を切り伏せ、ギルバート様はその場に崩れ落ちた。


 剣が手から滑り落ち、カランと乾いた音を立てる。


 彼は両手をついて、肩で息をしていた。


 その背中には、無数の黒い棘が突き刺さり、見るも無惨な姿になっていた。


「旦那様……」


 私は駆け寄り、彼の体を支えようとした。


 触れた肌は、火傷しそうなほど熱く、そして次の瞬間には氷のように冷たくなった。


 体内で、熱と冷気が暴走している。


「……エルマ」


 彼が顔を上げた。


 その瞳は、焦点が定まっていなかった。


 白目の部分が黒く濁りかけ、蒼かった瞳孔が赤く明滅している。


「逃げろ」


 彼は掠れた声で言った。


「私は……もう、保たない。……じきに、理性が飛ぶ」


「嫌です。逃げません」


「頼む……! 君を、傷つけたくないんだ……!」


 彼は私の手を振り払おうとした。


 その手は鉤爪のように変形しかけており、黒い鱗のようなものが浮き出ている。


 彼は自分のその手を見て、絶望に顔を歪めた。


「……ここまでか」


 その言葉は、諦めだった。


 戦いに負けたことへの諦めではない。


 最後まで「人間」として、私を愛し抜くことができなかったことへの、深い絶望。


「すまない、エルマ。……君との約束、守れそうにない」


 彼の目から、一筋の黒い涙が流れた。


 そして、彼はガクリと頭を垂れた。


 意識が途切れたのだ。


 同時に、彼の体から爆発的な瘴気が溢れ出した。


 それは周囲の空気を凍らせ、床を腐らせ、彼を中心とした黒い氷の繭を作り始めようとしていた。


 怪物化が始まる。


 彼が完全に「向こう側」へ行ってしまう。


 私は、彼の前に膝をついた。


 怖い。


 目の前で変貌していく彼が、恐ろしくないと言えば嘘になる。


 でも、それ以上に愛おしかった。


 ボロボロになって、人外の姿になりかけてもなお、私を遠ざけようとする彼の魂が、何よりも美しく見えた。


「……いいえ、ギルバート様」


 私は、彼の変形しかけた手を取り、自分の胸に押し当てた。


 


「約束は、まだ破られていません」


 私は微笑んだ。


 彼には見えていないかもしれないけれど、心に届くように。


「あなたは私を守り抜きました。今度は、私があなたを守る番です」


 私は深く息を吸い込んだ。


 覚悟を決める。


 これは賭けだ。


 私の小さな器で、この膨大な穢れを受け止めきれるのか。


 私自身が壊れてしまうかもしれない。


 でも、彼を失うくらいなら、一緒に壊れたほうがいい。


 ――愛しています。


 私は、彼に覆い被さるようにして抱きしめた。


 その体は氷のように冷たく、棘のように痛かったけれど。


 私にとっては、世界で一番温かい場所だった。


 私は目を閉じ、意識を彼の中に沈めていった。


 深く、深く。


 彼の魂の底にある、まだ汚されていない「光」を見つけるために。

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