第22話『私は行きます、あなたと共に』
城のエントランスを飛び出すと、そこはすでに戦場だった。
肌を切り裂くような暴風と、耳をつんざく爆音。
空からは粘着質な黒い雨が降り注ぎ、視界を悪くしている。
「きゃっ……!」
石畳に叩きつけられる雨粒が、私の頬に飛沫を上げた。
焼けるような痛み。
ただの雨ではない。これは呪いだ。触れるだけで生命力を奪う毒だ。
私は袖で頬を拭い、前を見た。
中庭の中央。
そこに、あの巨大な影の巨人が立っていた。
城壁よりも高いその体躯は、不定形の泥で構成されており、騎士たちの剣や魔法を受けても、ぬらりと飲み込んでしまう。
物理的な攻撃が通じないのだ。
「凍れぇぇぇッ!!」
裂帛の気合いと共に、蒼い閃光が走った。
ギルバート様だ。
彼は巨人の足元に肉薄し、その大剣を振り抜いていた。
剣閃が触れた箇所から、黒い泥が急速に白く凍りついていく。
すごい。
けれど、巨人の再生速度の方が早かった。凍った端からパリンと砕け、また新しい泥が湧き出してくる。
ギルバート様の背中が、激しく上下しているのが見えた。
彼の周囲の空間が、異常なほど歪んでいる。
魔力の使いすぎだ。
彼自身の体からも、過剰な冷気があふれ出し、銀色の髪が霜で白く染まっている。
このままでは、巨人を倒す前に、彼自身が氷の彫像になってしまう。
「旦那様!」
私は叫んだ。
嵐の音にかき消されそうな声だったけれど、彼は弾かれたようにこちらを振り向いた。
「エルマ!? なぜ出てきた!」
驚愕と、恐怖に彩られた表情。
その一瞬の隙を、巨人は見逃さなかった。
泥の腕が鞭のようにしなり、ギルバート様を薙ぎ払おうと迫る。
「危ない!」
私は考えるよりも先に、地面を蹴っていた。
彼のもとへ。彼の手が届く場所へ。
走りながら、私は意識を研ぎ澄ませる。
『共鳴』。
私の体は空っぽの器だ。だから、いくらでも受け入れられる。
彼の体内で暴走しかけている魔力の奔流も、彼を蝕む穢れの痛みも。
――全部、私に寄越して!
私が彼に触れる直前、巨人の腕が振り下ろされた。
ギルバート様は咄嗟に剣で受け止めたが、圧倒的な質量の前に膝をつく。
ミシミシと、氷の剣が悲鳴を上げる。
「ぐぅ……ッ!」
「ギルバート様!」
私は滑り込むようにして、彼の背中に抱きついた。
冷たい。
まるで氷山に触れたかのような冷気が、私の体温を一瞬で奪っていく。
けれど、私は離さなかった。
もっと強く、彼のコートを握りしめ、私の心臓の鼓動を彼に伝える。
受け取ります。
あなたの痛みを。あなたの限界を。
だから、思う存分やってください!
ドクン、と。
二人の心臓が重なった気がした。
次の瞬間、ギルバート様の瞳が、鮮烈な蒼色に輝いた。
「……おおおおおッ!!」
彼が咆哮する。
剣から放たれた冷気が、爆発的に膨れ上がった。
それは今までのように彼自身を蝕むものではなく、純粋な破壊のエネルギーとなって巨人を飲み込んだ。
カチ、カチ、カチカチカチ……!
空気が凍る音が連鎖する。
巨人の腕が、胴体が、そして頭部までもが、瞬く間に美しい氷の結晶へと変わっていく。
再生する隙すら与えない、絶対零度の断罪。
数秒後。
氷像と化した巨人は、自らの重さに耐えきれず、粉々に砕け散った。
キラキラとダイヤモンドダストのように舞う氷の粒の中で、黒い雨さえも凍りつき、地面に落ちていった。
静寂が戻った。
ギルバート様は、肩で息をしながら、ゆっくりと剣を下ろした。
そして、背中にしがみついていた私を振り返る。
「……馬鹿なことを」
彼の声は震えていた。
怒っているのかと思った。けれど、彼が私を抱きしめる力は、骨が軋むほど強かった。
「なぜ出てきた。死ぬかもしれなかったんだぞ」
「あなたが死ぬよりマシです」
「私が死んでも、君は生きろと言ったはずだ!」
「嫌です。あなたがいない世界で生きるなんて、そんなの生きていないのと同じです」
私は彼の胸の中で、きっぱりと言い返した。
彼は言葉を失い、深く溜息をついて、私の頭に顎を乗せた。
「……君には敵わない」
彼の体温が、少しずつ戻ってきているのがわかる。
私の『共鳴』が、彼の魔力の暴走を中和したのだ。
私たちは、二人で一つなら、どんな敵とも戦える。
けれど。
戦いはまだ終わっていなかった。
巨人を倒しても、空を覆う黒い雲は晴れていない。むしろ、南の方角――王都の空は、さらに色濃い闇に包まれている。
「……源を、断たねばならん」
ギルバート様が、南の空を睨み据えて言った。
「あそこから穢れが供給され続ける限り、魔獣は何度でも生まれる。この城だけを守っていても、じり貧だ」
「王都へ、行くのですか」
「ああ」
彼は私を腕から離し、真剣な眼差しで私を見た。
「私はこれから、王都へ向かう。元凶である『穴』を塞ぎにいく」
「はい」
「……君は、ここにいろ」
予想していた言葉だった。
彼は、執務室の方を指差した。
「この城の地下には、古代のシェルターがある。そこなら、たとえ城が崩壊しても数ヶ月は生き延びられる。食料も備蓄してある」
「……」
「騎士団の半数をここに残す。彼らが命に代えても君を守るだろう。だから、君はここで、私が帰るのを待っていてくれ」
彼の瞳は必死だった。
愛する者を安全な場所に隠したいという、切実な願い。
王都へ向かう道中は、ここ以上の地獄になるだろう。黒い雨が降りしきる中、魔獣の群れを突破しなければならないのだから。
足手まといになるのはわかっている。
私がいない方が、彼は自由に戦えるのかもしれない。
でも。
私は首を横に振った。
「嫌です」
「エルマ!」
「連れて行ってください。私も行きます」
私は彼の手を取った。
まだ冷たさが残る、大きな手。
「約束しましたよね? 痛みを分かち合うと。私の命はあなたと共に在ると」
「それは……平穏な時の話だ! これは戦争なんだぞ!」
「関係ありません」
私は一歩も引かなかった。
「あなたが傷つくなら、私も傷つきます。あなたが血を流すなら、私も流します。……置いていかれることの方が、私にとっては死ぬよりも辛いのです」
私の目から、涙がこぼれた。
恐怖の涙ではない。
彼と離れることへの拒絶の涙だ。
「それに……私の力が必要なはずです」
私は涙を拭い、彼を見上げた。
「先ほどの戦いでわかったはずです。あなたの魔力が暴走しそうになった時、私がそれを受け止めました。私がいれば、あなたは全力を出しても氷に飲まれない」
「……」
「私は、あなたの『鞘』になれるんです。ただ守られるだけの存在じゃありません」
ギルバート様は、息を呑んだ。
私の言葉を否定できないのだ。
彼が最強の力を発揮するためには、その反動を受け止める「器」が必要だということを、彼自身が一番よく理解しているから。
長い沈黙があった。
風の音だけが、ヒュウヒュウと鳴っている。
やがて、彼は苦しげに顔を歪め、私の肩を掴んだ。
「……後悔するぞ」
絞り出すような声だった。
「王都はもう、人の住める場所ではないかもしれない。地獄を見ることになる」
「構いません」
「私のそばにいれば、綺麗なドレスも着られない。泥と血にまみれることになる」
「とっくに覚悟しています」
私は、彼の瞳の奥にある迷いを射抜くように見つめた。
「地獄だろうと何だろうと、あなたの隣が私の居場所です。……連れて行ってください、旦那様」
ギルバート様は、天を仰いだ。
そして、諦めたように、けれどどこか救われたように微笑んだ。
「……ああ、もう」
彼は私を乱暴に抱き寄せ、髪に顔を埋めた。
「わかった。……負けたよ、私の愛しい頑固者」
彼の腕に力がこもる。
「連れて行く。その代わり、私の背中から離れるな。一瞬でも離れたら、承知しないぞ」
「はい。……離れません。絶対に」
私は彼の背中に手を回し、その温もりを確かめた。
この背中を、もう二度と孤独にはさせない。
たとえ世界の終わりへ向かう道だとしても、二人ならきっと、怖くはない。
「出立は十分後だ。準備をしろ」
「はい!」
ギルバート様が離れ、騎士たちに指示を飛ばし始めた。
その背中は、先ほどまでの悲壮感漂うものではなく、大切なものを守りながら戦う「王」のような力強さに満ちていた。
私は走り出した。
ドレスの裾をまくり上げ、旅支度を整えるために。
黒い雨はまだ止まない。
けれど、私の心の中には、確かな希望の灯火がともっていた。
私たちは行く。
かつて私を捨てた場所へ。
そして、私たちの未来を勝ち取るために。




