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氷の城の公爵様は、身代わり花嫁の「痛み」だけを愛せない ~魔力を持たない私が、あなたの孤独を溶かすまで~  作者: 伝福 翠人


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第21話『黒い雨が降る』

 その雨は、音もなく降り始めた。


 ポツリ、ポツリと。


 アスファルトや石畳を打つ音は聞こえず、ただ世界が濡れていく気配だけが肌にまとわりつく。


 私は執務室の窓辺に立ち、空を見上げていた。


 昼間だというのに、空は薄墨を流したように暗い。


 南の方角に見えていた黒い渦は、いつの間にか空全体を覆い尽くし、太陽を完全に隠してしまっていた。


「……変な雨」


 ガラス越しに見える雨粒は、透明ではなかった。


 インクを垂らしたような、粘着質のある黒色。


 それが窓ガラスに当たると、スゥーッと黒い筋を残して流れ落ちていく。まるで、空が黒い涙を流しているかのようだ。


 隣で書類を確認していたギルバート様が、ふと手を止めた。


 顔を上げ、私と同じように窓の外を見る。


 その瞳孔が、すっと細められた。


「……来たか」


 彼が席を立ち、窓に近づく。


 そして、窓枠に手を触れた瞬間、パチパチと小さな火花が散った。


 彼が城全体に張り巡らせている結界が、外部からの干渉に反応しているのだ。


「旦那様、これは……」


「触れるな」


 彼が鋭い声で制した。


 私は反射的に手を引っ込める。


「ただの雨ではない。あれは液状化した『穢れ』そのものだ。高濃度の呪いが、物理的な質量を持って降り注いでいる」


 彼は忌々しげに舌打ちをした。


「王都の結界が、完全に崩壊した証拠だ。あふれ出した汚泥が、雨となって国中に撒き散らされている」


 私は息を呑んだ。


 窓の外、庭の植え込みを見る。


 先日、二人で見つけた小さな新芽。


 黒い雨粒を受けたその芽が、目の前でジュッ、と音を立てて煙を上げ、瞬く間に茶色く枯れ果てていくのが見えた。


 それだけではない。


 雨が染み込んだ地面が、どす黒く変色し、泥濘んでいく。


 美しい緑色だった芝生が、まるで病に侵された皮膚のようにただれていく。


「ひどい……」


 胸が痛んだ。


 私たちが大切に育んできた春が、理不尽な暴力によって汚されていく。


 これは天災などではない。


 人の心が生み出し、人の手で管理しきれなくなった「業」の雨だ。


 その時だった。


 庭の隅、雨水が溜まってできた黒い水たまりが、ボコボコと泡立ち始めた。


 最初は、ただの波紋かと思った。


 けれど、違う。


 水面が盛り上がり、何かが「生まれよう」としている。


「……まさか」


 私が呟くのと同時に、その黒い水たまりから、ぬらりとした腕のようなものが伸びた。


 指はない。形も定まっていない。


 泥と影でできた、不定形な怪物。


 それがズルリと這い出し、二本足で立ち上がった。


 顔のない頭部にある空洞が、こちらを見ている気がした。


「魔獣だ」


 ギルバート様が低い声で告げた。


「実体化し始めている。この雨が苗床となって、影が形を得てしまった」


 一体ではない。


 庭のあちこちにある水たまりから、次々と黒い影が這い出してくる。


 犬のような形をしたもの、人のような形をしたもの。


 それらがよろよろと歩き出し、何かを探すように徘徊し始める。


 求めるものは一つ。


 生命の温かさ。


 ウオォォォン……。


 低く、腹の底に響くような遠吠えが聞こえた。


 それに呼応するように、影たちが一斉に城の方を向く。


 ここには、たくさんの人間がいる。温かい命がある。


「総員、配置につけ!」


 ギルバート様が、魔力で声を増幅させて叫んだ。


 その声は城中に響き渡り、即座に騎士たちの足音が廊下を駆ける音が聞こえ始めた。


 彼はマントを翻し、壁に立てかけてあった剣を手に取った。


 その剣身は、氷のように透き通った蒼色をしている。


「エルマ」


 彼は私に向き直り、強い眼差しで言った。


「君は部屋から出るな。この部屋には最強の結界を張ってある。どんなことがあっても、決して窓や扉を開けてはいけない」


「旦那様、あなたは……」


「討って出る。城壁の内側に入り込まれた以上、悠長に構えている暇はない」


 彼は私の肩を抱き寄せ、短く額に口づけた。


 その唇は熱く、けれど微かに震えているようにも感じられた。


 恐怖ではない。


 大切なものを守りきれるかという、ギリギリの緊張感。


「必ず戻る。……待っていてくれ」


「はい。信じています」


 私は彼の胸に手を当て、ありったけの祈りを込めた。


 どうか、ご無事で。


 彼が部屋を出て行くと、重厚な扉が閉まり、魔法の鍵がかかる音がした。


 一人残された部屋で、私は窓の外を見つめ続けた。


 庭ではすでに戦闘が始まっていた。


 ギルバート様が率いる騎士たちが、黒い影の群れに切り込んでいく。


 彼の剣が一閃するたびに、蒼い光が走り、影たちが凍りついて砕け散る。


 圧倒的な強さ。


 これなら大丈夫かもしれない。そう思いかけた時だった。


 空が、裂けた。


 ゴガァァァァァァッ!!


 耳をつんざくような轟音と共に、南の空から巨大な何かが降りてきた。


 それは雨粒などという可愛いものではない。


 家一軒ほどもありそうな、巨大な黒い泥の塊。


 それが隕石のように城壁の外へ落下し、地面を揺らした。


 ズズズズ……。


 落下地点から立ち上がったのは、山のように巨大な影の巨人だった。


 体中から黒い雨を垂れ流し、その足元にある木々を腐らせながら、ゆっくりと城へ向かって歩き出す。


 その圧倒的な質量の前に、騎士たちの剣など爪楊枝のように見えた。


「……あんなものまで」


 私は窓枠を握りしめた。


 ギルバート様が、空を見上げているのが見える。


 彼の背中から、今まで見たこともないほど強大な冷気が立ち上る。


 彼は一人で、あの巨人と戦うつもりだ。


 自分の命を、魂を、すべて魔力に変えて。


 ――嫌。


 胸騒ぎがした。


 このままでは、彼は帰ってこない気がした。


 あの巨人を倒せたとしても、その代償に彼自身が氷の彫像になってしまうような、そんな不吉な予感。


 私は扉に駆け寄った。


 開かない。ギルバート様の結界は強固だ。


 私を守るための、優しくて頑丈な檻。


「開けて! お願い、開けて!」


 私は扉を叩いた。


 けれど、誰も答えない。


 私はただ待つことしかできないのか。


 安全な場所で、彼が傷つき、すり減っていくのを、ただ見ていることしかできないのか。


「……違う」


 私は首を振った。


 私は誓ったはずだ。


 彼と一緒に生きると。彼の痛みを分かち合うと。


 守られるだけの存在にはならないと、カイル様の前で宣言したではないか。


 私は部屋の中を見回した。


 暖炉の火かき棒がある。重い燭台がある。


 こんなもので結界が破れるわけがない。


 けれど、私には『共鳴』の力がある。


 この結界も、ギルバート様の魔力でできている。彼の心の一部だ。


 なら、私の心と共鳴させれば、開くかもしれない。


 私は扉に両手をつき、目を閉じた。


 意識を集中させる。


 扉の向こうにある、彼を守りたいという意思。私を遠ざけようとする過保護な優しさ。


 その「拒絶」の波長に、私の「行きたい」という波長を合わせていく。


 ギルバート様、お願い。


 私を一人にしないで。


 あなたを一人にさせないで。


 熱い塊が胸の奥からせり上がり、掌を通して扉へと流れ込む。


 パリン、と。


 空気中で何かが割れる音がした。


 次の瞬間、頑丈だったはずの鍵が、カチャリと音を立てて外れた。


 私は扉を開け放ち、廊下へと飛び出した。


 冷たい風が吹き込んでくる。


 遠くで響く爆発音と、騎士たちの怒号。


 足が震える。怖い。


 でも、足は止まらなかった。


 私はドレスの裾をまくり上げ、階段を駆け下りた。


 待っていて、ギルバート様。


 今度は私が、あなたを迎えに行きます。

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