第20話『嵐の予感と、誓いのキス』
その夜、私は奇妙な音で目を覚ました。
ゴロゴロ、という地鳴りのような重低音。
雷鳴だろうか。
けれど、窓の外に閃光は見えない。ただ、遠い遠い場所で、何かが崩れ落ちるような低い音が響いているだけだ。
「……ん」
隣で眠っていたギルバート様が、弾かれたように目を開けた。
その瞳は、寝起きとは思えないほど鋭く、澄んでいた。
「……聞こえたか」
「はい。雷……でしょうか?」
「いや」
彼はベッドから降り、ガウンを羽織った。
窓辺へ歩み寄り、重いカーテンを少しだけ開く。
隙間から流れ込んだ夜風は、昼間の陽気を忘れさせるほど冷たく、そして鉄の錆びたような苦い匂いを含んでいた。
「……王都の方角だ」
彼の呟きに、心臓が早鐘を打つ。
私もベッドから抜け出し、彼の背中に寄り添った。
窓の外、遥か南の空。
そこには、星ひとつ見えない漆黒の闇が広がっていた。
いいえ、ただの闇ではない。夜空よりもさらに濃く、粘りつくような黒い雲が、渦を巻きながら広がっているのだ。
時折、その雲の中で赤い稲妻が走る。
それは自然の雷ではなく、まるで生き物の血管のように脈打っていた。
「……あれは?」
「穢れだ。それも、尋常な量ではない」
ギルバート様の声が硬くなる。
「王都の結界に亀裂が入ったのかもしれない。あるいは……決壊したか」
ソフィアお姉様。
脳裏に、かつて完璧だった姉の姿が浮かんだ。
太陽の聖女。国を照らす光。
カイル様が「眩しすぎる」と言って逃げ出し、そして父様からの手紙には「調子が悪い」と書かれていた。
あの黒い渦は、彼女が支えきれなくなった「影」そのものなのだろうか。
「……来ますか? ここへ」
私が尋ねると、ギルバート様は窓枠に手をかけ、じっと闇を見据えた。
「ああ。あふれ出した水は、低い場所へと流れる。王都からあふれた穢れは、魔獣を引き連れて、やがてこの国全土へと広がるだろう」
彼は私を振り返った。
その表情には、領主としての厳しい覚悟と、私を案じる深い憂いが混在していた。
「エルマ。……やはり、君だけでも南へ逃がすべきだったかもしれない」
「旦那様」
「あの黒い嵐は、これまでの比ではない。私の力で食い止められるかどうかもわからない。……君を巻き込むことになる」
彼は悔しげに拳を握りしめた。
せっかく訪れた春を、二人の穏やかな日々を、理不尽な災厄が奪おうとしている。
そのことが、彼には耐え難いのだろう。
私は彼の手を取り、自分の両手で包み込んだ。
冷え切った指先。
かつては、ただ冷たいだけだった手。
けれど今は、私が触れれば温かさを取り戻してくれることを知っている。
「逃げません」
私は静かに言った。
「私は、あなたの妻です。喜びも悲しみも、そして嵐も。全てを分かち合うと誓いました」
「……だが、死ぬかもしれないんだぞ」
「あなたがいない場所で生き永らえるくらいなら、あなたの隣で凍える方を選びます」
私の言葉に、ギルバート様は息を呑んだ。
そして、苦しげに、けれど嬉しそうに眉を寄せた。
「……君は、本当に頑固だ」
「ええ。誰かさんに似てしまいましたから」
私が悪戯っぽく微笑むと、彼もつられて微かに笑った。
張り詰めていた空気が、ふっと緩む。
「……テラスへ出よう。風に当たりたい」
「はい」
私たちは厚手のショールを羽織り、寝室から続くテラスへと出た。
外気は冷たいけれど、凍えるほどではない。
ギルバート様が腕を回し、私をマントごと包み込んでくれたからだ。
私たちは手すりに寄りかかり、並んで南の空を見つめた。
遠くで響く雷鳴は、魔獣の咆哮のようにも聞こえる。
世界が軋む音。
平穏な日常が崩れていく音。
けれど、不思議と怖くはなかった。
背中に感じる彼の体温と、一定のリズムで打つ心臓の音が、私を現実に繋ぎ止めてくれている。
「エルマ」
彼が、夜風に紛れるような声で呼んだ。
「君に出会うまで、私は自分の命などどうでもよかった。いつか穢れに飲まれて死ぬのなら、せめて多くの魔獣を道連れにできればいいと、そう思っていた」
彼の腕に力がこもる。
「だが、今は違う。……死にたくない。君を残して死ぬことなど、考えたくもない」
それは、弱さではない。
守るべきものを持った人間だけが知る、切実な「生への執着」だった。
「生きてくれ、ギルバート様」
私は彼の胸に頭を預け、祈るように言った。
「私のために、生きてください。私も、あなたのために生きます。どんな嵐が来ても、私があなたの盾になります」
「盾になどさせない。……私が剣となり、君を傷つける全てを切り裂く」
彼は私の顎をすくい上げ、月明かりの中で瞳を覗き込んだ。
その瞳は、遠くの稲妻よりも強く、美しく輝いていた。
「約束しよう。必ず守り抜く。この城も、領民も……そして何より、君という私の光を」
「はい。信じています」
私たちの顔が近づく。
吐息が触れ合い、白く混ざり合う。
遠雷の音が、二人の鼓動の音にかき消されていく。
重ねた唇は、冷たくて、温かかった。
それは情熱的な口づけというよりも、互いの魂の形を確かめ合うような、静かで深い誓いのキスだった。
もしも明日、世界が終わるとしても。
今この瞬間、私たちがこうして愛し合っているという事実は、誰にも消せない。
灰色の雪も、黒い雨も、この温もりまでは奪えない。
長い口づけの後、彼は額を私の額に押し当て、低く囁いた。
「……愛している」
「私もです。……愛しています、あなたの全てを」
私たちは、嵐の前の静寂の中で、強く抱き合った。
風が強まり、庭の木々がざわめき始める。
王都の方角から、黒い影が少しずつ、確実に近づいてきているのがわかった。
それでも。
私の心にあるのは恐怖ではなく、隣に立つ人への絶対的な信頼と、共に運命に立ち向かう静かな闘志だけだった。




