第19話『王都の黄昏(静かなる決別)』
パリン、と硬質な音が響いた。
私が手にしたティーカップが、ソーサーの上で細かく震えている音だ。
「……ぬるいわ」
私はカップを乱暴にテーブルへ置いた。中の紅茶が跳ねて、純白のテーブルクロスに茶色い染みを作る。
「申し訳ございません、ソフィア様。すぐに淹れ直してまいります」
侍女が青ざめた顔で頭を下げる。
その顔色の悪さに、さらに苛立ちが募った。
最近、屋敷の使用人たちは皆、幽霊のように生気がない。目の下に濃い隈を作り、咳き込みながら働いている。
その陰気な空気が、私に伝染しそうで不愉快だった。
「もういいわ。下がってちょうだい」
私は手を振って侍女を追い出した。
一人になったサロンは、昼間だというのに薄暗い。
窓の外を見やる。
王都の空は、今日も分厚い鉛色の雲に覆われていた。
太陽の聖女である私が住むこの街で、もう一週間も太陽が顔を出していないなんて、ありえないことだ。
私は立ち上がり、壁に掛けられた大きな鏡の前に立った。
そこに映る自分の姿を見て、息を呑む。
「……嘘よ」
鏡の中の女は、肌が土気色にくすみ、自慢の金髪もパサパサと乾燥して輝きを失っていた。
化粧で隠してはいるけれど、目の奥には隠しきれない疲労と焦燥が滲んでいる。
これが私?
国一番の美貌を誇り、誰もが憧れる『太陽の聖女』であるはずの私が?
「鏡が汚れているのね。……そうに決まっているわ」
私はハンカチで鏡を拭った。けれど、映る像は変わらない。
指先が震える。
最近、体調がおかしい。
体が鉛のように重く、どれだけ寝ても疲れが取れない。呼吸をするたびに、肺の中に砂が溜まっていくような息苦しさがある。
医者は「季節の変わり目による疲労」だと言ったけれど、薬を飲んでも一向に良くならない。
それだけではない。
私の『聖なる力』が、明らかに弱まっているのだ。
以前なら、指先をかざすだけで枯れかけた花を蘇らせることができた。
けれど今は、いくら念じても、微かな光が明滅するだけで、花は黒く萎れたまま動かない。
「どうして……」
爪を噛む。
焦りが、冷たい汗となって背中を伝う。
エルマがいなくなってからだ。あの子を北へ追放してから、何もかもうまくいかなくなった。
父様は「あの子の陰気な呪いだ」と言っていたけれど、本当にそれだけなのだろうか。
まさか、あの子が何か細工を?
あるいは――あの子自身に、何か秘密があったのか。
ドサリ、と廊下で何かが倒れる音がした。
また使用人が倒れたのだろうか。
私は舌打ちをして、サロンを出た。
廊下の向こうから、父様が歩いてくるのが見えた。
父様もまた、随分とやつれていた。自慢の髭には白髪が目立ち、背中が丸まっている。
「お父様」
「ああ、ソフィアか……。カイル殿下の様子はどうだ?」
父様の声は掠れていた。
カイル様。
その名前を聞いただけで、頭痛がした。
「まだお部屋に引きこもっていらっしゃいますわ。誰とも会いたくないと」
カイル様は数日前、辺境への視察から戻ってきた。
……いや、あれは「戻ってきた」のではない。「逃げ帰ってきた」のだ。
馬車から降りてきた彼は、見るも無残な姿だった。
衣服は乱れ、泥にまみれ、目は虚ろで、何かに怯えるようにガタガタと震えていた。
『氷だ……氷が来る……』
うわ言のようにそう繰り返すばかりで、会話もままならない。
王家は「公務による過労」と発表しているけれど、貴族たちの間ではすでに悪い噂が広まっている。
第二王子は発狂したのではないか、と。
「情けない」
私は吐き捨てた。
「私の婚約者なのですから、もっとしっかりしていただかなくては困りますわ。これでは、私の評判まで下がってしまいます」
「そう言うな。……殿下も、何か恐ろしい目に遭われたのだろう」
「恐ろしい目? まさか。ただの辺境視察でしょう? きっと、田舎の不潔な空気に当てられただけですわ」
私は認めなかった。
カイル様が、あの「出来損ない」のエルマを迎えに行ったことなど、認めたくなかった。
そして、あろうことか拒絶され、無様に逃げ帰ってきたなどと。
そんな惨めな話、プライドが許さない。
「それよりソフィア。明日は大聖堂での『浄化の儀』だぞ。準備はできているのか?」
父様の言葉に、私の心臓がドクンと嫌な音を立てた。
浄化の儀。
月に一度、聖女が民衆の前で祈りを捧げ、王都に溜まった穢れを払う重要な儀式だ。
これまでは、何の問題もなくこなしてきた。
ただ台座に立って、綺麗に微笑んでいれば、勝手に空が晴れ、人々が歓声を上げてくれたからだ。
「……もちろんですわ」
私は精一杯の虚勢を張って微笑んだ。
「私が祈れば、この鬱陶しい雲もすぐに消え去ります。民衆も、私の輝く姿を見れば安心するでしょう」
「そうだな。お前は我が家の誇りだ。頼んだぞ」
父様は私の肩を叩き、自室へと戻っていった。
その足取りの重さが、私の不安を煽る。
大丈夫。私は太陽の聖女なのだから。
エルマなんかいなくたって、私一人で十分輝けるはずだわ。
翌日。
大聖堂前の広場は、不安そうな顔をした民衆で埋め尽くされていた。
皆、咳き込んだり、体を擦ったりしている。
王都の空気は、数日前よりもさらに悪化していた。空は黄色く淀み、埃っぽい風が吹き荒れている。
私はバルコニーに立った。
最高級のシルクのドレスに身を包み、宝石を散りばめた髪飾りをつけて。
化粧を厚く塗り、肌のくすみを隠している。
遠目に見れば、いつもの美しい聖女に見えるはずだ。
「聖女様だ!」
「ソフィア様、どうかこの淀んだ空気を払ってください!」
「もう限界です、子供たちが咳をして眠れないのです!」
悲鳴のような歓声が上がる。
いつもなら心地よい称賛の声が、今日は耳障りなノイズのように聞こえた。
彼らは私を崇めているのではない。私に「すがりついて」いるのだ。
その重圧が、肩にのしかかる。
私は深呼吸をし、両手を広げた。
いつものように。
優雅に、慈愛に満ちた表情で。
「迷える子羊たちよ、安心なさい。私の光が、すべての穢れを焼き払います」
私は目を閉じ、体内の魔力を練り上げた。
光よ、あれ。
雲を裂き、太陽を呼び戻せ。
……けれど。
指先から放たれた光は、蛍火のように頼りなく、瞬く間に灰色の空気に飲み込まれて消えた。
ざわっ、と広場がどよめく。
「……あれ?」
「光が、弱いぞ」
「消えた? 嘘だろう?」
焦りが爆発する。
違う、こんなはずじゃない。もっと強く、もっと輝かなくては。
私は必死に魔力を絞り出した。
額に脂汗が滲む。歯を食いしばる。優雅な微笑みなど、もう維持できない。
「光よ! 輝きなさい! 私は太陽の聖女なのよ!」
心の中で叫ぶ。
けれど、呼応するように空が鳴動し――落ちてきたのは光ではなく、黒い雨粒だった。
ポツリ。ポツリ。
アスファルトに黒い染みが広がる。
それは、ただの雨ではない。高濃度の穢れが凝縮した、呪いの雨だ。
「あ、雨だ!」
「黒い雨だ! 触れるな、肌が爛れるぞ!」
「聖女様! どうなっているんですか!」
どよめきは、怒号と悲鳴へと変わった。
人々が逃げ惑う。
私はバルコニーの上で、呆然と立ち尽くしていた。
手が震える。膝が笑う。
できない。
浄化できない。
それどころか、私の祈りが、逆に天候を悪化させてしまったかのようだ。
――なぜ? どうして?
私は天才だったはず。選ばれた存在だったはず。
これまでずっと、うまくいっていたじゃない。
どうして急に、何もできなくなってしまったの?
その時、脳裏に一つの映像がフラッシュバックした。
暗い塔の部屋。
ベッドに横たわり、高熱にうなされている妹の姿。
彼女の体からは、黒い靄のようなものが立ち上っていた。
私が「調子が悪い」と言って部屋を訪ねた後、彼女はいつもそうなっていた。
『お姉様、大丈夫ですよ。私が、全部引き受けますから』
弱々しい笑顔で、あの子はそう言っていた。
私はそれを、「無能な妹が、せめてもの罪滅ぼしに姉を励ましている」のだと思っていた。
自分の不調が治ったのは、私の聖女としての自己治癒力のおかげだと信じていた。
でも、もし。
もしも、あれが――。
「……まさか」
恐怖で、血の気が引いた。
私が浄化していたのではなかった?
私が払ったと思っていた穢れは、消えていたのではなく、すべてあの子の体に移動していただけ?
私は……あの子という「ゴミ箱」がなければ、何もできないただの人間だったの?
「そんな……嘘よ……!」
私は手すりを握りしめて叫んだ。
認めるわけにはいかない。
そんなことがあってたまるか。
私は特別だ。私は美しい。私は誰よりも愛され、敬われるべき存在なのだ。
あんな地味で、暗くて、何の価値もない妹ごときに、私が支えられていたなんて。
――ガシャンッ!!
広場から、石が投げ込まれた。
バルコニーの端に当たり、砕け散る。
「偽物だ! 聖女は偽物だ!」
「俺たちを見殺しにする気か!」
「役立たず!」
民衆の目が、憎悪に染まっていた。
さっきまで私を崇めていた人々が、今は鬼のような形相で私を睨みつけている。
怖い。
その視線が、物理的な痛みとなって私を突き刺す。
「ひっ……!」
私は悲鳴を上げて、バルコニーから逃げ出した。
ドレスの裾を踏みつけ、転びそうになりながら、屋敷の中へと駆け込む。
後ろから、罵声と、雨の音が追いかけてくる。
部屋に逃げ込み、鍵をかけた。
暖炉の前でうずくまり、震える体を抱きしめる。
寒い。
暖炉の火は燃えているのに、体の芯が凍りついたように冷たい。
これが、穢れ?
これが、あの子がずっと耐えていたもの?
「……嫌よ」
私は髪を掻きむしった。
「こんなの耐えられない。痛い、苦しい、寒い!」
誰か。誰か助けて。
カイル様。お父様。お母様。
誰でもいい、この痛みを代わってよ。
エルマ。
そうよ、エルマ。
あの子がいれば。あの子がここにいれば、この苦しみを全部押し付けて、私はまた笑っていられるのに。
「帰ってきなさいよ……!」
私は床を叩いて泣き叫んだ。
「あんたは私の影なんでしょう!? 影なら、主人のために泥を被るのが役目でしょう! なんでいないのよ! なんで私を一人にするのよ!」
身勝手な怒りと、底知れない恐怖が、私の中でどろどろに混ざり合う。
窓の外は、もう真昼だというのに夕暮れのように薄暗かった。
王都を覆う灰色の雲は、もはや晴れる気配を見せない。
これが、私の世界の終わり。
輝かしい「太陽の聖女」の時代の、静かで、惨めな黄昏の始まりだった。




