第18話『愛していると、言葉にして』
カイル様が去った後の夜は、不思議なほど静かだった。
興奮と恐怖で波立っていた心が凪いでいくにつれ、今度は別の感情が、潮が満ちるように押し寄せてくる。
寝室の窓からは、青白い月光が差し込んでいた。
暖炉の火は落ち、熾火だけが時折パチリと小さな音を立てて爆ぜる。
広いベッドの上、私たちは並んで横たわっていた。
肌と肌が触れ合う距離。
同じ毛布の下で、ギルバート様の体温がじんわりと伝わってくる。
「……眠れないか」
闇の中で、彼の低い声が響いた。
私もまた、目を閉じたまま小さく頷いた。
「はい。……少しだけ、目が冴えてしまって」
「そうか。……私もだ」
ギルバート様が寝返りを打ち、私の方を向く気配がした。
月明かりに照らされた彼の横顔は、彫像のように美しいけれど、その眉間には微かな皺が刻まれている。
彼は、まだ何かを悔いているようだった。
「……すまなかった」
不意に、彼が謝罪の言葉を口にした。
「あんな男を、君の前に立たせてしまった。もっと早く追い返すべきだったのに」
「いいえ、旦那様。謝らないでください」
私は首を横に振った。
「むしろ、感謝しています。あそこで彼とはっきり決別できたことで、私はようやく……過去の自分にさよならを言えた気がしますから」
それは本心だった。
カイル様との対峙は怖かったけれど、必要な儀式だったのだと思う。
誰かに守られるだけの「日陰の女」ではなく、自分の足で立ち、自分の居場所を選び取る一人の人間として。
「そう言ってもらえると救われるが……」
彼は言葉を濁し、大きな手で私の髪を梳いた。
その指先が、微かに震えていることに気づく。
「……怖かったんだ」
彼が、独り言のように漏らした。
「君が、あいつの手を取るのではないかと。……王都へ戻りたいと、そう言うのではないかと」
「そんなこと……」
「わかっている。君はそんな人じゃないと、頭ではわかっているんだ。だが……」
彼は苦しげに息を吐いた。
「私には自信がない。君を幸せにできる自信が」
ギルバート様の瞳が、不安げに揺れている。
最強の騎士と謳われ、国一番の武力を持つ彼が、たった一人の女性の前で、こんなにも脆い顔を見せている。
「あいつの言う通りだ。ここは寒い。花も少ないし、社交界もない。君のような美しい女性を閉じ込めておくには、あまりにも殺風景な場所だ」
「旦那様」
「いつか君が、この寒さに耐えられなくなって、私の手からすり抜けていってしまうんじゃないか。……それが、どうしようもなく怖い」
彼の告白に、私の胸が締め付けられた。
この人は、どれだけ孤独だったのだろう。
誰かに愛されること、誰かが自分の傍に居続けてくれることを、信じることができないほどに。
ずっと一人で、氷の城の中で、誰かを傷つけないように距離を取り続けてきた彼にとって、「永遠」を信じることはあまりにも難しいことなのかもしれない。
私は、毛布の下で彼の手を探り当て、ぎゅっと握りしめた。
「ギルバート様」
彼の目を見つめる。
「私は、どこにも行きません」
「……」
「社交界も、宝石もいりません。私が欲しいのは、あなただけです」
ありったけの想いを込めて伝えたつもりだった。
けれど、彼は悲しげに微笑むだけだ。
「……君は優しいな。そんなふうに、私を慰めてくれる」
「慰めではありません! 本心です!」
私は思わず声を上げた。
どうすれば伝わるのだろう。
言葉だけでは足りない。彼の中に根付いた深い不安の根を断ち切るには、もっと強い「何か」が必要だ。
私は上半身を起こし、彼を見下ろした。
月光を背負った彼の銀髪が、神秘的に輝いている。
私は勇気を振り絞り、彼に覆い被さるようにして、その頬に両手を添えた。
「聞いてください、ギルバート様」
鼓動がうるさい。顔が熱い。
でも、言わなければ。
「私は、あなたが思っているような、清らかな聖女ではありません。同情や優しさだけで、こんな最果ての地に残ったりはしません」
「……エルマ?」
「私は、欲張りなんです」
私は彼の瞳を覗き込んだ。
「私は、あなたの全てが欲しいのです。あなたの強さも、弱さも。あなたの喜びも、孤独も。あなたが毎晩耐えているその痛みさえも、全部私だけのものにしたい」
それは、独占欲という名の愛だった。
綺麗事ではない。
ただ彼と一つになりたい、彼の一部になりたいという、焦がれるような渇望。
「他の誰にも、あなたを渡したくない。カイル様にも、この国の王様にも、誰にも。……あなたは、私だけの旦那様でいてくれませんか?」
言い切った瞬間、涙がこぼれた。
こんなに我儘なことを言って、呆れられるかもしれない。
でも、これが私の偽らざる本音だった。
ギルバート様は、目を見開いて私を見つめていた。
その瞳の中で、揺れていた不安の色が、ゆっくりと消えていく。
代わりに浮かんできたのは、熱く、燃えるような情熱の光。
「……ああ」
彼は、私の腰に手を回し、引き寄せた。
「降参だ。……君には敵わない」
彼は愛おしそうに目を細め、私の涙を唇で拭った。
「私もだ、エルマ。私も君が欲しい。君の笑顔も、涙も、その優しい声も、全部私だけのものにしたい」
彼の手が、私の頬から首筋へ、そして背中へと滑り落ちる。
その熱に、身体の芯が痺れるようだ。
「愛している」
低い声が、鼓膜を震わせた。
初めて聞く、明確な愛の言葉。
「君は私の光だ。凍りついていた私の世界を照らし、色を与えてくれた、唯一無二の光だ」
心臓が止まるかと思った。
光。
「色のない子」と呼ばれ、影のように生きてきた私を、彼は光だと言ってくれた。
「君がいなければ、私はもう生きていけない。……だから、お願いだ。私を置いていかないでくれ」
それは、最強の騎士とは思えないほど、弱々しく、切実な懇願だった。
私は胸がいっぱいになり、何度も何度も頷いた。
「はい……はい、もちろんです。ずっと、ずっとお傍にいます」
私たちの唇が重なった。
最初は優しく、触れ合うだけのキス。
けれど、すぐにそれは深く、互いの魂を求め合う口づけへと変わっていった。
冷たい空気の中で、二人の熱だけが燃え上がる。
彼の中にあった孤独が、私の中に流れ込んでくる。
私の中にあった不安が、彼の中に溶けていく。
言葉よりも確かに、魂と魂が触れ合う感覚。
『共鳴』の力が、痛みだけでなく、愛をも増幅させて私たちを繋いでいた。
長い口づけの後、彼は私を抱きしめたまま、耳元で囁いた。
「……もう、離さない」
「はい」
「明日からは、もっと忙しくなるぞ。君のために庭を造り替えねばならんし、南の国から職人を呼んで、君に似合う最高のドレスを作らせる」
「ふふ、そんなにたくさんいりませんよ」
「いるんだ。私が贈りたいんだ」
子供のように拗ねる彼の声が可愛らしくて、私は胸に顔を埋めて笑った。
外では、風が止んでいた。
王都の方角に見えていた黒い雲も、いつの間にか夜の闇に紛れて見えなくなっている。
未来のことはわからない。
ソフィアお姉様の力が弱まれば、いつか本当の危機が訪れるかもしれない。
けれど、今は怖くなかった。
この腕の中にある温もりさえあれば、私たちはどんな冬でも越えていける。
私は、彼の心臓の音を聞きながら、深い安らぎの中で目を閉じた。
これが、私が選んだ幸せ。
氷の城で見つけた、消えることのない永遠の春だった。




