第17話『公爵の剣、守るための力』
カイル様の手が伸びてくる。
私の意思など介在しない、一方的な救済という名の暴力。
怖い。
本能的な恐怖に足が竦む。逃げなければと思うのに、蛇に睨まれた蛙のように体が動かない。
彼の指先が、私の腕に触れようとした、その瞬間だった。
ゴォッ!!
突風が巻いた。
いいえ、それは風ではない。
圧倒的な質量を持った『魔力』の波動が、私とカイル様の間を切り裂くように奔ったのだ。
「……ひっ!?」
カイル様が短い悲鳴を上げて飛び退く。
彼の目の前の床、ほんの数センチの場所に、鋭利な氷の柱が突き立っていた。
もし彼が手を引くのが遅れていたら、その腕は串刺しになっていただろう。
「……私の妻に、気安く触れるな」
地獄の底から響くような、低く、冷徹な声。
室内の温度が一気に氷点下まで下がり、窓ガラスにピキピキと霜が走る。
ギルバート様が、私の前に立ちはだかっていた。
その背中から溢れ出す黒い冷気は、怒りの形をとって渦巻き、部屋中の空気を支配している。
「ギ、ギルバート……! 貴様、王族に向かって魔法を放ったのか!?」
カイル様が尻餅をついたまま叫んだ。
顔面は蒼白で、唇が震えている。
ギルバート様は、冷ややかに彼を見下ろした。その瞳には、一切の慈悲がない。
「警告だ。次は外さない」
「なっ、脅迫する気か! これは反逆罪だぞ!」
「反逆? 笑わせる」
ギルバート様は一歩、踏み出した。
カイルッ、と床の氷が軋む音がする。
「他人の妻を誘拐しようとする暴漢から、家族を守るのが反逆か? 王族ならば、人の心を無視して略奪することも許されるとでも?」
「りゃ、略奪ではない! 保護だ! 彼女は判断力を失っているだけだ!」
「失っているのはお前の方だ、カイル殿下」
ギルバート様の手元に、魔力が収束していく。
それは形を持たない剣となって、カイル様の喉元に突きつけられた。
「彼女は断った。自分の意志で、ここでの生活を選んだ。……その言葉が理解できないほど、お前の耳は飾り物になり下がったのか?」
言葉の刃が、鋭くカイル様を刺す。
カイル様は反論しようと口を開いたが、声が出ないようだった。
圧倒的な力量差。そして、覚悟の差。
世界を守るために穢れを飲み込み続けてきた男と、安全な場所で守られてきただけの男。
その魂の重量が違いすぎた。
「彼女はもう、お前たちの都合の良い道具ではない。私の愛する妻であり、この辺境の唯一無二の公爵夫人だ」
ギルバート様の言葉に、私の胸が熱くなった。
愛する妻。
公爵夫人。
その響きが、私の中にあった最後の「無価値感」を溶かしていく。
「……後悔するぞ、アイゼンシュタイン! 王家に弓引くような真似をして、タダで済むと思うな! 父上や兄上が黙ってはいないぞ!」
カイル様は、震える声で精一杯の虚勢を張った。
権威を笠に着て脅すことしかできない、その姿があまりにも哀れで、私は目を逸らしたくなった。
「やってみるがいい」
ギルバート様は、不敵に笑った。
それは傲慢ですらあったけれど、今の彼にはその資格があった。
「私がその気になれば、この国を覆う結界を解くこともできる。私が飲み込んでいる穢れを全て王都へ返せば、一晩で国は滅びるだろう」
「き、貴様……!」
「だが、そんなことはしない。……彼女が悲しむからな」
ギルバート様は、ふっと殺気を緩め、私を振り返った。
その瞳が一瞬で和らぐ。
「私は国を守るために戦ってきた。だが、その国が私の大切なものを奪おうとするなら、守るべき対象を変えるまでだ」
彼は再びカイル様に向き直り、静かに、けれど決定的な宣告をした。
「私の妻に触れるなら、国を敵に回す覚悟をしろ」
その言葉は、比喩には聞こえなかった。
本気の決意。
世界を敵に回してでも、私一人を守り抜くという凄絶な愛の証明。
カイル様は、ついに恐怖に顔を引きつらせた。
彼は悟ったのだ。
目の前にいる男が、王家の権威などでは到底縛れない、本物の『怪物』であり『英雄』であるということを。
そして、自分には彼から何も奪えないということを。
「……ひっ、うぅ……!」
カイル様は悲鳴のような声を上げて立ち上がり、逃げるように部屋を飛び出した。
去り際に残していったのは、王族としての威厳の欠片もない、惨めな敗走の足音だけだった。
静寂が戻った部屋で、氷の柱がサラサラと粒子になって消えていく。
ギルバート様は大きく息を吐き、肩の力を抜いた。
張り詰めていた空気が緩み、窓から再び春の陽射しが差し込んでくる。
「……怖かったか?」
彼が、恐る恐る私に尋ねた。
私は首を横に振った。
「いいえ。……頼もしかったです」
「そうか」
彼は安堵したように目を細め、私に近づいてきた。
そして、私の両手をそっと包み込む。
その手は、先ほどまで魔力を帯びていたとは思えないほど温かかった。
「……良かったのか」
彼は、自信なさげに呟いた。
「あいつの言う通り、王都へ戻れば、華やかな生活が待っていたかもしれない。私のそばにいれば、君は一生この寒さと付き合うことになる。……後悔しないか?」
まだ、そんなことを聞くのですね。
私は彼の手を握り返し、精一杯の笑顔を向けた。
「はい。後悔なんてしません」
私は、彼の胸に飛び込んだ。
彼は一瞬驚いたように目を見開き、それから崩れ落ちるように私を抱きしめた。
「でも、ここにはあなたがいます。あなたがいない王都なんて、私にとっては砂漠と同じです」
「……ありがとう、エルマ」
彼の震える声が、私の胸に染み込んでいく。
彼の心臓の音が聞こえる。力強く、温かいリズム。
これが、私が選んだ場所。
誰に何を言われようと、ここが私の世界の中心なのだ。
窓の外では、カイル様を乗せた馬車が、逃げるように去っていくのが見えた。
雪解けの道を、泥を跳ね上げて遠ざかっていく。
もう、戻らない。
私は鳥籠の鍵を、自分自身で捨てたのだ。
この氷の城で、愛する人と共に生きていくために。
その夜、私たちは初めて、一つの毛布にくるまって眠った。
悪夢は来なかった。
ただ、春の夜の静けさと、互いの体温だけがあった。




