第14話『暖炉にくべた過去』
部屋に、重い沈黙が降りた。
私の差し出した手紙を受け取ったまま、ギルバート様は微動だにしない。
視線だけが、インクの滲んだ文字の上をなぞっている。
その時間が永遠のように感じられた。
心臓が早鐘を打つ。
怒っているだろうか。
呆れているだろうか。
こんな面倒な事情を抱え込んだ妻など、やはり手放すべきだと考えているだろうか。
私は俯き、ドレスの裾を強く握りしめた。
指先が白くなるほど力を込めていないと、足元の床が抜けて、暗い底へ落ちてしまいそうだったからだ。
「……親心、か」
ぽつりと、乾いた声が落ちた。
それは怒鳴り声ではなかった。
むしろ、恐ろしいほどに静かで、冷え切った響きを持っていた。
顔を上げるのが怖い。けれど、確認せずにはいられなかった。
恐る恐る視線を向けると、彼は手紙を見つめたまま、凍りついたような無表情で立ち尽くしていた。
だが、その手の中にある紙が、微かに震えているのが見えた。
そして、部屋の空気が急激に冷え込んでいく。
窓から差し込んでいた春の陽射しが翳り、ガラスに薄い霜が走り始めた。
彼の感情が、この空間を侵食している。
それは、私のよく知る「孤独な冷たさ」ではなく、もっと鋭利な「殺気」に近いものだった。
「ふざけるな」
吐き捨てるような低い声と共に、彼の手の中で手紙がくしゃりと音を立てた。
「自分たちの都合で君を捨て、化け物の生贄として売り飛ばしておいて……。今になって『返せ』だと? あの子の代わりが必要だから?」
彼が顔を上げた。
その瞳は、凍てつく湖面のように蒼く、底知れない怒りを宿していた。
「彼らにとって、君は何だ。道具か? 使い捨てのフィルターか? ……人間として見ていないのか」
彼の怒りは、私に向けられたものではなかった。
私を傷つけた人々、私を軽んじた過去への、烈火のような怒り。
それが痛いほど伝わってきて、私は思わず息を呑んだ。
私自身でさえ、諦めて飲み込んでいた屈辱。それを、彼はこんなにも許せないと感じてくれている。
「エルマ」
彼が、私に一歩近づいた。
その足音だけで、空気がびりびりと震える。
「君はどうしたい」
問いかけられた言葉に、私は言葉を詰まらせた。
どうしたいか。
そんなことを聞かれたのは、生まれて初めてかもしれない。
これまでの人生で、私に選択権などなかった。命令に従うか、従わないか。それだけの世界だったから。
「私は……」
声が震える。
実家の命令は絶対だ。逆らえば居場所がなくなる。
その恐怖は、骨の髄まで染み込んでいる。
「私は……帰りたく、ありません」
「ならば」
ギルバート様は、私の言葉を待たずに言った。
「帰る必要はない。この手紙は、届かなかったことにする」
「で、でも……無視すれば、実家の方々は何をしてくるかわかりません。お父様は執念深い方です。きっと、公爵家に圧力をかけたり、悪い噂を流したり……」
「それがどうした」
彼は、鼻で笑った。
強がりではない。心底、どうでもいいと思っているような、傲慢な笑みだった。
「私は『氷の城の処刑人』だぞ? 今さら悪評の一つや二つ増えたところで、痛くも痒くもない。圧力? かけられるものならやってみればいい。私がその気になれば、王都ごと凍らせることだってできるのだからな」
それは冗談めかしていたけれど、半分は本気なのだろう。
彼の力なら、本当にそれができる。
けれど、そんなことをすれば、彼はまた「怪物」として恐れられ、孤独な世界に逆戻りしてしまう。
私が守りたかった、彼の穏やかな春が壊れてしまう。
「いけません、旦那様。そんなことをしたら、あなたが傷つきます」
私が必死に訴えると、彼は不意に表情を緩め、困ったような顔をした。
「……君は、まだそんなことを言うのか。自分のことよりも、私の心配か」
「だって、あなたは私の大切な……」
「わかっている」
彼は私の頭にぽん、と手を置いた。
その手は温かく、さっきまでの冷気は嘘のように引いていた。
「乱暴な真似はしないさ。君が悲しむならな。……だが、これだけはさせてもらう」
彼は手紙を持ったまま、暖炉の前へと歩いていった。
赤々と燃える炎が、彼の手の中にある歪な紙片を照らし出す。
「エルマ、よく見ておけ」
彼は背中越しに私に言った。
「これは、ただの紙だ。君を縛り付ける鎖でも、君の価値を決める審判書でもない。ただの、薄汚れたインクの染みにすぎない」
彼は手紙を、炎の中へと放り込んだ。
一瞬の間。
紙は熱に煽られてめくれ上がり、端から黒く焦げていく。
父の筆跡が、滲んだインクが、炎に舐められて歪んでいく。
『戻ってこい』という命令も、『居場所はない』という呪いも。
すべてが火の粉となって舞い上がり、煙となって消えていく。
私は、その光景から目を離せなかった。
怖いと思っていたものが、あっけなく灰になっていく様を。
「……燃えた」
私の唇から、小さな呟きが漏れた。
ただそれだけのことが、どうしてこんなにも胸を軽くするのだろう。
喉の奥に詰まっていた冷たい塊が、熱によって溶かされていくようだ。
「ああ、燃えた。もう何もない」
ギルバート様が振り返る。
逆光の中で、彼の姿は頼もしく、そして神々しいほどに美しかった。
「君の平穏を乱すものは、私が全て燃やそう。過去のしがらみも、未来への不安も。君を傷つけるものは何一つ、この城壁の中へは入れない」
彼は私の元へ戻り、膝をついて視線を合わせた。
騎士が、主君に忠誠を誓うように。
あるいは、愛する女性に求愛するように。
「だから、君はただ、ここで笑っていてくれればいい。私の隣で、春の花を愛でていてくれれば、それだけでいいんだ」
彼の手に包まれた私の手が、温かい。
その温もりが、冷え切っていた私の心を芯から温めてくれる。
実家の呪縛は、まだ完全に消えたわけではないかもしれない。父が諦めるとも思えない。
けれど、今は怖くなかった。
この人がいてくれるなら。
私の痛みを「許せない」と怒ってくれる、この優しい怪物が味方でいてくれるなら。
「……はい」
私は涙をこらえ、深く頷いた。
「ありがとうございます、ギルバート様。……私、帰りません。ここが、私の家ですから」
「ああ。……おかえり、エルマ」
彼は私の手を引き寄せ、その甲に長く口づけた。
暖炉の中では、最後の一片となった手紙が、ぱちんと音を立てて弾け飛び、完全な灰となった。
それは、私たちが本当の意味で「夫婦」として、外敵に立ち向かう覚悟を決めた、最初の儀式だったのかもしれない。
窓の外では、陽が傾き始めていた。
茜色に染まる空の下、王都から吹く風が、微かに不穏な音を立てていたけれど。
今の私たちには、この部屋の温かさがあれば、それで十分だった。




