第13話『王都からの手紙、インクの滲み』
その日の午後は、陽光の匂いがした。
庭の雪解け水が小川となってさらさらと流れ、その畔には、先日市場で買った青い花を植えたばかりだった。
私は、執務室の窓辺にあるソファで、ギルバート様のために編んでいたマフラーの手を止め、窓の外を眺めていた。
まだ少し肌寒さは残るものの、窓ガラス越しに伝わる陽射しは柔らかく、平和そのものだ。
「……奥様」
静かなノックと共に、執事が入室してきた。
いつもなら温和な笑みを浮かべている彼が、今日はどこか硬い表情をしている。その手には、銀盆に乗せられた一通の封書があった。
嫌な予感がした。
肌が粟立つような、冷たい予感。
「どうしたの?」
「……王都から、手紙が届いております」
王都。
その言葉を聞いた瞬間、心臓が冷たい手で鷲掴みにされたように縮み上がった。
執事が差し出した封筒。
そこに押された封蝋の紋章を見て、私は息を呑んだ。
輝く太陽の紋章。ローレンツ公爵家――私の実家だ。
「旦那様は、今どちらに?」
「騎士団の詰所へ視察に行かれております。戻られるのは夕刻かと」
「そう……」
私は震える指先で、封書を受け取った。
重い。
ただの紙切れのはずなのに、鉛の塊でも入っているかのようにずっしりと重く感じられた。
宛名は「エルマ・フォン・アイゼンシュタイン公爵夫人」。
私の新しい名前だ。
けれど、その筆跡は父のものだった。几帳面で、神経質で、私を一度も「娘」として見たことのない冷たい文字。
「下がっていいわ。ありがとう」
「……何かあれば、すぐにお呼びください」
執事は心配そうに一礼し、部屋を出て行った。
部屋に一人きりになると、静寂が一気に圧迫感を増した。
さっきまで心地よかった陽光が、急に白々しく、冷たいものに見えてくる。
開けたくない。
このまま暖炉に放り込んでしまいたい。
けれど、父からの手紙を無視することなど、長年染み付いた「従順な娘」としての習慣が許さなかった。
私は深呼吸をし、ペーパーナイフで封を切った。
中に入っていたのは、一枚の便箋だった。
そこには、貴族らしい流麗な挨拶文などは一切なく、いきなり本題が書き殴られていた。
『エルマへ。
お前が北へ発ってから一月が経つが、役目は果たせているのか。
あの怪物公爵の狂気に耐えきれず、もう死んでいるのではないかと案じていたが、生きているなら幸いだ』
冒頭から、私への侮蔑と、ギルバート様への恐怖心が剥き出しだった。
私の安否を気遣っているようで、その実、「まだ死んでいないのか」という驚きすら透けて見える。
そして、文字が乱れていた。
普段の父なら、もっと端正な文字を書くはずだ。
けれどこの手紙は、ペン先が紙に食い込むほど強く押し付けられ、所々インクが飛び散っていた。
焦り。
隠しきれない苛立ち。
『本題だが、お前に帰還を命じる。
最近、ソフィアの体調が優れない。
季節の変わり目のせいか、あるいは今年の大気中の穢れが異常に濃いせいか、あの子の聖なる力が不安定になっている。
屋敷の空気が淀み、使用人たちも体調を崩し始めた。
お前がいなくなってから、屋敷の中が暗くなったように感じる』
私は、思わず便箋を握りしめた。
ソフィアお姉様の体調不良。
それは、私がこれまで一手に引き受けていた「穢れ」が、行き場を失って屋敷中に溢れ出した結果だろう。
彼らは気づいていないのだ。
自分たちが快適に過ごせていたのは、私が空気清浄機のように穢れを吸い取っていたからだということに。
それを「エルマがいないせい」だと書きつつも、まだ私の能力を認めていない。
ただ、「お前がいた頃は調子が良かった」という、自分勝手な体感だけで書いている。
『お前には浄化の力などないが、そばにいるだけで多少の気休めにはなるようだ。
公爵家との縁談は、こちらで上手く破談にしてやる。
あの怪物と暮らすのは、お前にとっても苦痛だろう。
これは親心だ。お前をあの極寒の地獄から救い出してやる』
親心。
その言葉が、鋭い棘となって胸に突き刺さった。
私を「出来損ない」と呼び、冷たい塔に閉じ込め、最後は生贄として売り飛ばした人たちが、今さら親心などと。
吐き気がした。
彼らは私がこの城で、どれほど幸せに暮らしているかなど想像もしていないのだ。
私が毎日怯え、泣き暮らし、救いを求めていると決めつけている。
自分たちが「救済者」になることで、私を再び支配下に置こうとしている。
ふと、視線が手紙の最後の一行に止まった。
そこには、インクが滲んで大きく崩れた文字があった。
『戻ってこい。今すぐにだ。
……さもなくば、お前の居場所は二度とないと思え』
その滲みは、涙の跡ではなかった。
汗か、あるいは興奮した父の手汗か。
それとも、書き損じたインク壺を倒したのか。
黒く広がった染みは、まるで病巣のように紙面を侵食していた。
怖い。
条件反射のように、体が震えだす。
幼い頃から刷り込まれてきた「無価値な自分」という呪い。
父の命令は絶対で、逆らえば居場所がなくなるという恐怖。
この手紙は、私をあの冷たい塔へ引き戻そうとする鎖だった。
――帰りたくない。
心の底から、そう思った。
あそこには、色がない。温かさがない。
私を「エルマ」として見てくれる人は、誰一人としていない。
でも、もし私が帰らなければ、彼らはどうするだろう。
実家が崩壊するのは構わない。けれど、王都には多くの人々が住んでいる。
ソフィアお姉様の力が弱まり、結界が保てなくなれば、王都の人々まで危険に晒されるのではないか。
私の『共鳴』の力があれば、一時的にでも穢れを吸い取り、時間を稼ぐことはできるかもしれない。
……そうやって、また私は自分を犠牲にするの?
自問自答する。
ギルバート様の顔が浮かんだ。
「君の痛みは、君だけのものだ」と言ってくれた、あの真摯な瞳。
「君を離さない」と抱きしめてくれた、温かい腕。
もし私が戻れば、彼はどう思うだろう。
私が彼を捨てたと思うだろうか。
それとも、また一人で氷の城に閉じこもってしまうだろうか。
嫌だ。
彼を悲しませたくない。彼を一人にしたくない。
でも、実家からの命令を無視すれば、ローレンツ家は公爵家に圧力をかけてくるかもしれない。
ギルバート様に迷惑がかかる。
どうすればいい。どうすれば……。
思考が空回りし、視界が暗く狭まっていく。
息が苦しい。
手紙を持つ指が白くなり、紙がくしゃりと音を立てた。
「……エルマ?」
不意に、名前を呼ばれた。
ハッとして顔を上げると、いつの間にか帰宅していたギルバート様が、執務室の入り口に立っていた。
軍服のマントには、まだ外の冷気が微かに纏わりついている。
けれど、私を見るその瞳は、心配そうに揺れていた。
「どうした。顔色が真っ青だぞ」
彼は大股で近づいてくる。
私は反射的に、手紙を背中に隠そうとした。
見せてはいけない。
これを見せれば、彼はきっと怒る。そして傷つく。
「私を返せ」という身勝手な要求に、彼がどれほど心を痛めるか、想像するだけで胸が詰まる。
けれど、彼のごまかしのない視線は、私の強張った肩と、隠した手の震えを見逃さなかった。
「……何を隠している」
低い声。
責めるような響きではない。ただ、私の不安を共有しようとする、静かな問いかけ。
私は唇を噛み締め、俯いた。
隠し通せるわけがない。
この城で、彼に隠し事なんてできないのだ。
私は震える手で、くしゃくしゃになった手紙を差し出した。
ギルバート様はそれを受け取り、一瞥した。
眉間に深い皺が刻まれる。
その瞳に、静かな、けれど凍てつくような怒りの炎が宿るのを、私は見た。
インクの滲んだ文字が、まるで呪詛のように、私たちの間に横たわっていた。




