第12話『市場への外出と、小さな花束』
数日後、私たちは再び街へ出かけた。
前回の視察のような、馬車の上から手を振る公式なものではない。
護衛を遠巻きに控えさせ、身軽な服装で歩く、いわゆる「お忍び」というやつだ。
「……歩き疲れてはいないか?」
「ええ、大丈夫です。風がとても気持ちいいですから」
私は、隣を歩くギルバート様を見上げた。
今日の彼は、いつもの堅苦しい軍服ではなく、シンプルなシャツにコートという出で立ちだ。銀髪も無造作に流しており、その姿はどこかの若い学者のようにも見える。
けれど、その整いすぎた容姿は、人混みの中でも隠しきれない輝きを放っていた。
街は、春の到来を祝うかのような賑わいを見せていた。
雪が溶けた石畳の上には、色とりどりの露店が並んでいる。
焼きたてのパンの香り、スパイスの刺激的な匂い、そして陽気な売り声。
これまでの私にとって、市場という場所は「遠くから眺めるもの」だった。
実家の屋敷の窓から見えるその喧騒は、私とは無縁の世界の出来事であり、そこに自分が混ざることなど想像もできなかったからだ。
「何か、欲しいものはあるか?」
ギルバート様が、露店を指差して尋ねてくる。
そこには、ガラス細工や刺繍入りのハンカチなど、可愛らしい小物が並んでいた。
「君に何か贈りたいんだ。……私が選ぶと、どうしても実用一点張りになってしまうからな」
彼は少し困ったように眉を下げた。
以前、彼が「君のために」と用意してくれたドレスは、確かに最高級の生地だったけれど、防寒性を重視しすぎていて、まるで鎧のように分厚かったのを思い出す。
その不器用な優しさを思い出し、私は思わずくすりと笑った。
「そうですね……見ているだけで楽しいので、今はまだ」
「遠慮はいらないと言っただろう。この街にあるものなら、店ごと買ったっていいんだぞ」
「ふふ、そんなことをしたら、お店の人が困ってしまいます」
私は冗談めかして断った。
けれど、本心では、まだ少し怖かったのだ。
「自分のために何かを選ぶ」という行為が。
私なんかが、こんな綺麗なものを持っていいのだろうか。
私には分不相応ではないだろうか。
そんな、染み付いた思考の癖が、どうしても顔を出してしまう。
そんな時だった。
ふと、路地の入り口に、小さな花売りの屋台が出ているのが見えた。
豪華な店ではない。木箱を並べただけの簡素なものだ。
そこに、色とりどりの春の花が並んでいる。
「いらっしゃいませ! 綺麗なお花はいかがですか?」
店番をしていたのは、十歳くらいの少女だった。
そばかすのある元気そうな顔で、私たちに向かって大きく手を振っている。
私は吸い寄せられるように、その屋台の前へ歩み寄った。
「まあ、可愛い……」
並んでいたのは、温室育ちの薔薇のような豪華な花ではない。
野に咲くアネモネや、スミレ、ムスカリといった、可憐な草花ばかりだ。
けれど、そのどれもが生命力に溢れ、生き生きと葉を広げていた。
「お姉さん、お花が好きなの?」
少女が屈託のない笑顔で話しかけてくる。
私は頷き、目の前にあった青い小花に指先で触れた。
「ええ、大好きよ。……これは、ワスレナグサね」
「うん! 今朝、森の入り口で摘んできたの。この青色はね、空の色を吸い込んで咲くんだって」
空の色。
その言葉に、私は隣にいるギルバート様を盗み見た。
彼が世界の色を取り戻した時、最初に見上げたあの空の色と同じだ。
「素敵ね」
「でしょう? お姉さんの瞳の色に似てるよ」
少女の言葉に、私は目を丸くした。
私の瞳は、ありふれた蜂蜜色だ。青くはない。
不思議そうな顔をする私に、少女はにっと笑って付け加えた。
「だって、お姉さんの目、キラキラしてて綺麗だもん。空みたいに透き通ってるよ」
心臓が、とくんと跳ねた。
綺麗。
実家では「濁った目」と言われ続けてきたこの瞳を、この子は綺麗だと言ってくれた。
お世辞を言うような歳ではない。彼女の目は真っ直ぐで、純粋な称賛の色をしていた。
私は、自分がここに「いる」のだと感じた。
透明な影ではなく、色を持った一人の人間として、この少女の目に映っている。
「……これを、いただけるかしら」
私は、青いワスレナグサの小さな束を指差した。
初めて、自分のために「欲しい」と口にした瞬間だった。
「はい、ありがとうございます! 銅貨三枚だよ」
私が財布を取り出そうとすると、横からギルバート様の手が伸びてきた。
彼が銀貨を一枚、少女の手のひらに置く。
「釣りはいらない。……妻に似合う花を選んでくれて、ありがとう」
妻。
その響きに、顔が熱くなるのを感じた。
少女は銀貨を見て目を丸くし、それから弾けるような笑顔で「ありがとう!」と叫んだ。
花束を受け取った私の手は、微かに震えていた。
たった数百円程度の、小さな草花の束。
けれど、それは私にとって、どんな高価な宝石よりも重みのあるものだった。
「嬉しいか?」
ギルバート様が、私の顔を覗き込むようにして尋ねてくる。
私は花束を胸に抱きしめ、深く頷いた。
「はい。……とても」
「そうか」
彼は満足そうに目を細め、そして不意に、私の空いている方の手を取った。
「その花も美しいが、私にとっては、それを選んで笑っている君のほうが、ずっと得難い光景だ」
「旦那様……」
「もっと欲張っていいんだ、エルマ。君が世界を愛するなら、私はその世界ごと君を守ろう」
市場の雑踏の中で、私たちは手を繋いで歩き出した。
すれ違う人々が、私たちを見て微笑ましそうに道を譲ってくれる。
誰も、私を「出来損ない」とは見ない。
愛する人の隣で、花を抱えて歩く、一人の幸せな女性として見てくれている。
その日、私たちが持ち帰ったのは、小さな青い花束と、それ以上に鮮やかな「自信」という名の贈り物だった。
私の世界は、もう灰色ではない。
こんなにも優しく、温かい色で満ちているのだから。




