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氷の城の公爵様は、身代わり花嫁の「痛み」だけを愛せない ~魔力を持たない私が、あなたの孤独を溶かすまで~  作者: 伝福 翠人


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第11話『辺境に春が来る』

 あれから、ひと月が過ぎた。


 氷の城の執務室にある大きな窓。


 そこから見える景色は、劇的に変わり始めていた。


 永遠に降り止まないと思われた灰色の雪は姿を消し、代わりに柔らかな陽光が大地を照らしている。


 雪解け水が小川となって輝き、枯れ木だと思われていた木々の枝先には、薄緑色の新芽が顔を出していた。


 それは、絵本の中でしか見たことのないような、穏やかで美しい春の訪れだった。


「……信じられないな」


 執務机に向かいながら、ギルバート様が独り言のように呟いた。


 手元の書類にサインを走らせながら、その視線は時折、窓の外へと向けられる。


「この地を治めて十年になるが、こんなに早い春は初めてだ。例年なら、まだ吹雪が吹き荒れている時期だというのに」


「きっと、旦那様の心が晴れたからですね」


 私が答えると、彼は少し照れくさそうに頬を掻いた。


「大袈裟だ。……だが、そうかもしれない」


 彼はペンを置き、私の方を向いた。


 私は今、彼の執務室のソファで、領地から届いた報告書の整理を手伝っていた。


 以前の彼なら、自分一人で全ての仕事を抱え込み、誰にも触れさせなかっただろう。


 けれど今の彼は、私にできる範囲の仕事――例えば、簡単な仕分けや清書などを、任せてくれるようになっていた。


「私の魔力と、この土地の気候はリンクしている。私が穢れに蝕まれていれば、空も大地も凍てつく。……逆に、私が安らいでいれば、こうして春が来る」


 彼は立ち上がり、私の隣に腰を下ろした。


 その距離は、もう息がかかるほどに近い。


「君が春を連れてきてくれたんだ、エルマ」


「ふふ、私は何もしていませんよ。ただ、旦那様の隣でお茶を飲んでいただけです」


「それが重要なんだ」


 彼は私の手を取り、その指先に口づけた。


 温かい唇の感触。


 最初は驚いて赤面していた私も、最近ではようやく、この甘い挨拶に慣れてきていた。


 ……嘘。本当はまだ、心臓がうるさいくらいに跳ねている。


「午後から、街へ視察に出ようと思う」


 彼が言った。


「雪解けの状況を確認したい。それに……領民たちも、君の顔を見たがっている」


「私の、ですか?」


「ああ。最近、街では噂になっているらしい。『氷の城に女神様が舞い降りて、冬を追い払ってくれた』とな」


 女神様。


 そんな大層な呼び名に、私は思わず首をすくめた。


 私はただの、色も魔力もない「出来損ない」なのに。


「……怖くはありませんか? 私が出て行って、がっかりされたら」


「誰がそんなことを思うものか。君を見れば、誰もが納得するはずだ」


 彼は優しく微笑んだ。


 その笑顔には、以前のような影はない。


 澄んだ青空のような、曇りのない信頼の色をしていた。


 午後。


 私たちは馬車に乗り、城下町へと向かった。


 以前、私がこの城へ嫁いできた時に乗った古びた馬車とは違い、公爵家の紋章が入った立派な馬車だ。


 窓を開けると、まだ少し冷たいけれど、心地よい風が入ってくる。


 街は活気に満ちていた。


 分厚い雪に閉ざされていた道は綺麗に除雪され、人々が忙しそうに、けれど楽しそうに行き交っている。


 市場には彩り豊かな野菜や果物が並び、子供たちが元気に走り回っていた。


「公爵様だ! 領主様がいらっしゃったぞ!」


 誰かが声を上げると、人々が一斉にこちらを向き、歓声を上げた。


 以前の彼なら、その声を「恐怖」と受け取っていただろう。


 けれど今の彼は、穏やかな顔で手を振り返している。


 馬車が広場で止まると、私たちは外へ降りた。


 その瞬間、わっと人々が集まってきた。


 護衛の騎士たちが制止しようとするのを、ギルバート様が手で制する。


「領主様! ありがとうございます、今年は雪解けが早くて、畑の準備が助かります!」


「魔獣もめっきり減って、夜も安心して眠れるようになりました」


「これも全て、領主様のお力ですね!」


 口々に感謝の言葉を述べる領民たち。


 その目は輝いていて、かつて「処刑人」と恐れられていた男に向ける視線とは思えないほど、親愛に満ちていた。


 ギルバート様は少し面食らったように目を瞬かせ、それから、隣にいる私の肩を抱き寄せた。


「礼なら、私ではなく彼女に言ってくれ。この春を呼んだのは、私の妻だ」


 その言葉に、人々の視線が一斉に私に集まった。


 私は緊張で身を硬くした。


 華やかなドレスも着ていない、目立たない容姿の私。


 がっかりされるのではないか。


 そう思って俯きかけた時。


「まあ……なんて可愛らしい奥様」


「本当だわ、見ているだけで心が温かくなるような方だねぇ」


 お婆さんが一人、進み出てきて、私の手を取った。


 ごつごつとした、働き者の温かい手。


「ありがとうございます、奥様。あなたが来てくださってから、領主様のお顔つきがずいぶんと優しくなられました。私たちにとっても、あなたは春の女神様です」


 その言葉に、周りの人々も大きく頷いた。


 子供たちが駆け寄ってきて、私のドレスの裾に小さな花束を押し付けてくれる。


 まだ咲いたばかりの、クロッカスの花。


「あ、ありがとう……」


 涙が滲んだ。


 実家では「透明な存在」として扱われ、誰からも必要とされていなかった私が。


 ここでは、こんなにも多くの人々に受け入れられ、感謝されている。


 ギルバート様が、私の肩を抱く手に力を込めた。


 見上げると、彼は誇らしげに胸を張っていた。


「聞いたか、エルマ。君はもう、この辺境になくてはならない存在だ」


「……はい。夢のようです」


 私は花束を抱きしめ、涙をこらえて微笑んだ。


 冷たい風が吹いても、もう寒くはない。


 ここには、私の居場所がある。


 私を愛してくれる人と、私が愛したい人々がいる。


 その日の帰り道。


 馬車の中で、私は幸せな疲れに包まれてウトウトとしていた。


 ギルバート様が、私の頭をそっと彼の肩に乗せてくれる。


「眠ればいい。城に着くまでまだ少しかかる」


「はい……」


 彼の匂いと体温に包まれて、私は微睡みへと落ちていく。


 ずっと、こんな日が続けばいい。


 穏やかで、優しくて、誰も傷つかない世界。


 けれど。


 幸せの中にいると、ふいに不安になることがある。


 この温かさが、あまりにも脆いもののように思えて。


 王都の方角から吹いてくる風が、微かに冷たさを帯びていることに、私たちはまだ気づかないふりをしていた。


 春の光が強くなればなるほど、その足元に伸びる影もまた、濃くなっていくことを。


 私は無意識のうちに、ギルバート様の袖をぎゅっと掴んだ。


 彼は何も言わず、ただ私の手を優しく包み込んでくれた。


 その温もりだけが、今の私にとっての絶対的な真実だった。

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