第10話『「ここにいたい」という願い』
その日の夕食は、いつもよりも静かだった。
暖炉の火は穏やかに燃え、銀食器が触れ合う澄んだ音だけが響いている。
料理は美味しく、部屋は温かい。
けれど、向かいに座るギルバート公爵の様子が、どこかおかしいことに私は気づいていた。
彼は時折、ナイフを動かす手を止め、何かを言いたげに私を見る。
しかし、視線が合うとすぐに目を伏せ、グラスの水を煽るのだ。
その横顔には、あの最初に出会った夜のような、痛みを堪えるような影が落ちていた。
――体調が悪いのだろうか。
不安がよぎる。
けれど、私の中に流れ込んでくる『共鳴』の感覚は、肉体的な苦痛ではなく、もっと別の……深く、重い葛藤の気配を伝えていた。
「エルマ」
食後のハーブティーが運ばれ、執事が一礼して下がった直後、彼が口を開いた。
その声は低く、そして覚悟を決めたように硬かった。
「少し、話がある」
「はい」
私はカップをソーサーに戻し、背筋を伸ばした。
心臓が早鐘を打つ。
何の話だろう。
この半月、私たちは穏やかな日々を過ごしてきた。
一緒に食事をし、本を読み、庭を散歩した。言葉は多くなかったけれど、互いの体温を感じながら、凍りついた時間を少しずつ溶かしてきたはずだ。
あの雪解けのような日々が、私の勘違いだったのだろうか。
ギルバート公爵は、懐から一通の封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。
分厚い羊皮紙の封筒。
そこに押された封蝋の紋章を見て、私は息を呑んだ。
「これは……」
「離縁状だ」
時が止まった気がした。
暖炉の爆ぜる音が、急に遠くなる。
離縁。
その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「……私が、何か至らないことをしたでしょうか」
震える声で尋ねる。
ギルバート公爵は首を横に振った。
「違う。君は何も悪くない」
「では、なぜ……」
「君を、自由にするためだ」
彼は私を真っ直ぐに見つめた。その瞳は悲しいほど澄んでいて、揺るぎない決意に満ちていた。
「君はこの半月、私の穢れを受け止め、癒やしてくれた。そのおかげで、私の精神は安定し、もはや発作を起こすこともなくなった。……君には、十分すぎるほど救われた」
「でしたら、これからも……」
「だからこそだ」
彼は私の言葉を遮り、テーブルの上で拳を握りしめた。
「君はまだ若い。こんな最果ての地で、いつ怪物になるかわからない男の世話をして一生を終えるには、あまりにも惜しい」
「怪物だなんて、そんなこと」
「事実だ!」
彼が声を張り上げる。
その声に驚いて私が身を竦めると、彼はすぐに表情を歪め、悔しそうに顔を伏せた。
「……すまない。怒鳴るつもりはなかったんだ」
彼は深く息を吐き、静かに続けた。
「君の実家とは話がついている。この離縁は、君の落ち度ではなく、私の都合によるものだとする。君には十分な慰謝料と、王都から離れた南の領地に別邸を用意した。そこなら気候も温暖で、花も一年中咲いている」
彼は封筒の隣に、一枚の鍵を置いた。
「金銭的な心配はいらない。君はそこで、誰にも縛られず、好きなように生きればいい。本を読んでもいいし、新しい恋を見つけてもいい。……普通の、幸せな女性としての人生を」
彼の言葉は、あまりにも完璧だった。
私の未来を案じ、私の幸福を願い、そのための準備をすべて整えてくれている。
それは、この上なく誠実で、深い愛情に満ちた提案のはずだった。
それなのに。
どうしてこんなにも、胸が引き裂かれそうに痛いのだろう。
私の視界が滲んだ。
自由。
実家の塔に閉じ込められていた頃、私が何よりも渇望していたもの。
誰の身代わりでもなく、誰の役にも立たなくていい、私だけの時間。
それを、彼は私にくれようとしている。
――でも、違う。
私が欲しいのは、そんな「自由」じゃない。
「……旦那様は、それでいいのですか?」
私は涙をこらえ、やっとの思いで声を絞り出した。
「私が去れば、またあなたは一人になります。灰色の雪の中で、また一人で凍えることになるんですよ?」
「慣れている」
彼は短く答えた。
「君が来る前も、ずっとそうだった。……それに、君との思い出がある。この半月の記憶があれば、私はこれから先も、その温かさだけで生きていける」
嘘だ。
彼の言葉の端々に、血を吐くような寂しさが滲んでいるのがわかる。
『共鳴』の力がなくてもわかる。
彼の指先が白くなるほど強く握りしめられているのが。
私と目を合わせようとしないのが。
彼は今、自分の心を引き裂いて、私を押し出そうとしているのだ。
優しい人。
どこまでも不器用で、自分を傷つけることしか知らない人。
私は椅子から立ち上がった。
そして、テーブルの上の封筒と鍵を手に取る。
ギルバート公爵の肩が、びくりと揺れる。
私がそれを受け取って、出て行くと思ったのだろう。
私は暖炉の前まで歩いていった。
そして。
「あっ……!」
彼が息を呑む音と同時に、私は手の中のものを炎の中へ放り込んだ。
羊皮紙が瞬く間に燃え上がり、灰へと変わっていく。
「な、何を……」
彼は呆然として立ち尽くしていた。
私は振り返り、彼に向き直った。
膝が震えている。怖い。拒絶されるかもしれない。
けれど、今ここで言わなければ、私は一生後悔する。
「いりません」
私ははっきりと言った。
「南の別荘も、お金も、自由も。そんな冷たい幸せなんて、私はいりません」
「エルマ……君は、わかっていない。ここにいれば、君はまた傷つくかもしれないんだぞ。私の穢れにあてられて、命を縮めるかもしれない」
「構いません!」
私は一歩、彼に近づいた。
「私の命は、私だけのものです。誰かに強制されたわけでも、身代わりにされたわけでもありません。だから、使い道は私が自分で決めます」
「……」
「私は、あなたの傍にいたいです。ギルバート様」
初めて、彼の名前を呼んだ。
旦那様、という役割名ではなく、ただ一人の男性としての名前を。
「あなたが凍える夜には、私が温めます。あなたが悪夢を見るなら、私が隣で手を握ります。あなたが一人で耐えている痛みを、半分私にください」
涙が頬を伝い落ちる。
でも、私は笑った。彼に届くように、精一杯の笑顔で。
「南の島で一人で咲く花よりも、私は、あなたの庭で、あなたと一緒に春を待つ芽でありたいのです」
部屋に沈黙が落ちた。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが、やけに大きく響く。
ギルバートは、まるで打たれたように立ち尽くしていた。
その瞳が揺れ、潤み、やがて一筋の雫が零れ落ちる。
「……愚かな人だ」
彼は、泣きそうな顔で笑った。
「こんな、呪われた男を選ぶなんて」
「ええ。物好きな妻だと笑ってください」
彼はゆっくりと歩み寄り、私を抱きしめた。
これまでの、壊れ物を扱うような遠慮がちな抱擁ではない。
骨が軋むほど強く、全身全霊で私を求め、すがりつくような力強さだった。
「ありがとう……エルマ」
耳元で囁かれた声は震えていた。
「君を離さない。もう二度と、君を放したりしない。君がそう望んでくれるなら、私は死ぬまで君の側にいる」
彼の体温が、私の中に流れ込んでくる。
それは、どんな言葉よりも雄弁な「愛」の証だった。
痛みも、孤独も、穢れさえも。
二人で分かち合えば、それは冷たい雪ではなく、二人を繋ぐ絆になる。
私は彼の背中に手を回し、その温もりに顔を埋めた。
窓の外では、まだ灰色の雪が降り続いている。
世界は何も変わっていない。
けれど、この氷の城には、今、確かな春が訪れていた。
私たちは、契約でも、身代わりでもなく。
ただのギルバートとエルマとして、ここで生きていくのだ。
暖炉の炎が、二人の影を一つに重ねて揺らめいていた。




