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感情の香りは嘘をつかない

作者: 九葉

「リディア、君は完璧すぎる。まるで心が無い人形のようだ。そこにいるセリーナの純粋さ、その健気さを少しは見習ったらどうだ!」


夜会の中央、きらびやかなシャンデリアの下で、婚約者であるエドガー王太子の声が響き渡った。


彼の腕の中には、今にも泣き出しそうな顔で小鹿のように震える男爵令嬢、セリーナ嬢が庇われている。


周囲の貴族たちから注がれる視線は、同情、好奇、そして侮蔑。

それら全てを一身に受けながら、わたくし、リディア・フォン・アシュベリーは完璧な淑女の笑みを顔に貼り付け、優雅にスカートの裾をつまんだ。


「申し訳ございません、殿下。わたくしの配慮が足りませんでしたわ」


(――ああ、面倒くさい)


心の中で深々とため息をつく。


エドガー殿下からは、鼻につく『古い本の匂い』。陳腐なプライドと、独りよがりな正義感の香りだ。


腕の中のセリーナ嬢からは、野心と計算高さが入り混じった『焦げ付いた砂糖の匂い』と、わたくしへの強烈な嫉妬を示す『酸っぱい果実の匂い』がぷんぷんと漂ってくる。


これが、わたくしの秘密。

わたくしには、人の強い感情が「匂い」として感じられるのだ。


この能力のおかげで、わたくしは人の嘘や本心にうんざりするほど気づいてしまう。誰も彼もが外面とは違う匂いをさせている。だから、誰かを心から信じることなんて、とうの昔に諦めていた。


婚約も、いずれは王太子妃になるということも、アシュベリー侯爵家に生まれた長女としての『義務』。

そう割り切って、感情のない完璧な人形でいることだけを己に課してきた。


「リディア様、ごめんなさい……わたくし、殿下にご迷惑を……」


セリーナ嬢が潤んだ瞳でこちらを見る。

彼女から漂う『焦げ付いた砂糖』の匂いが、さらに濃くなった。


(結構ですわ。その茶番、心ゆくまで演じていらっしゃい)


わたくしはただ、完璧な微笑みを返すだけ。

このくだらない劇場の幕が下りるのを、静かに待っている。


***


殿下たちの前から解放され、喧騒から逃れるようにバルコニーへ出た。

ひんやりとした夜風が、頭にこびりついた甘ったるい匂いを少しだけ洗い流してくれる。


「……はぁ」


誰にも見られていないことを確認し、ようやく息を吐いた。

淑女の仮面は重い。


「見事な人形劇だったな」


不意に、背後から低い声がかけられた。

驚いて振り返ると、闇に溶け込むような黒髪の男性が壁に寄りかかって立っていた。


カイ・ロックウェル公爵。

氷の公爵、鉄仮面。社交界での彼の評判は芳しいものではない。無愛想で、誰にも心を開かない孤高の存在。


けれど、わたくしが驚いたのは彼の評判のせいではなかった。


(匂いが……しない?)


彼からは、何の匂いもしなかった。

人の感情が渦巻くこの夜会で、彼だけがまるで静寂の中にいるかのよう。

わたくしにとって、それは生まれて初めての経験だった。


「……何か御用でございましょうか、ロックウェル公爵様」


動揺を悟られぬよう、再び完璧な淑女の仮面を被る。


彼はわたくしを一瞥すると、ふいと視線を夜空に向けた。


「王太子の言葉を気にする必要はない。あれの鼻は昔から節穴だからな」


「……まあ」


ぶっきらぼうな物言いに、思わず素の声が出た。

彼はちらりとこちらに視線を戻す。その金の瞳は、まるで全てを見透かしているかのようだった。


「完璧な淑女の仮面の下で、退屈している顔が見えただけだ」


「……!」


心を読まれたわけではない。

けれど、この人にはわたくしの『匂い』ではなく、仮面の下にある『本質』が見えているのかもしれない。


初めて感じた不思議な感覚に、胸の奥が小さく波立った。

彼から何も匂いがしないのは、彼が感情を持っていないからではない。

きっと、彼の心が静かで、揺らぎがないからだ。


この人ともっと話してみたい。

そんな柄にもない衝動に駆られたが、彼は「邪魔をしたな」と一言だけ残し、静かに夜会の喧騒の中へと戻っていった。


後に残されたのは、わたくしの心に生まれた、小さな、しかし確かなさざ波だけだった。


***


あの日以来、カイ公爵のことが頭から離れなかった。

彼だけが放つ「無臭」の静寂。それは、絶えず感情の匂いに苛まれてきたわたくしにとって、唯一の安らぎとなり得るものだった。


そんな日々の中、王太子殿下主催の茶会に招かれた。

もちろん、その隣には案の定、セリーナ嬢が寄り添っている。


「リディア。君も婚約者として、セリーナにもっと寛大になるべきだ。彼女はか弱く、私が守らなければならない存在なのだから」


庭園のテーブルにつくやいなや、殿下からのお説教が始まった。

周囲の令嬢たちからは、セリーナ嬢への同情と、わたくしへの非難の匂いが入り混じって漂ってくる。


(もう、うんざり)


セリーナ嬢は、今日も今日とて涙を浮かべている。


「リディア様を困らせたいわけではないのです……でも、殿下のお側だけが、わたくしの唯一の居場所で……うっ……」


(よくもまあ、そんな嘘をぺらぺらと)


彼女からは、もはや隠す気もないほどの強烈な『焦げ付いた砂糖』と『酸っぱい果実』の匂いがしていた。


いつもなら、このまま黙って嵐が過ぎ去るのを待つ。

それが『完璧な淑女』の役割だから。


でも、もうやめだ。

カイ公爵と出会ってから、この偽りの世界に留まっていることが、どうしようもなく馬鹿らしく思えてきたのだ。


わたくしは、ふ、と息を吐いて微笑んだ。


「皆様、本日は素晴らしい茶会ですこと。こんなにも様々な『香り』に満ちていて」


穏やかな口調で切り出すと、皆がきょとんとした顔でこちらを見た。


「香り、ですって? リディア様」


「ええ。例えば、そこにいらっしゃるA夫人。あなたからは、ご自身の婚約指輪よりもセリーナ様の首飾りが高価であることへの、嫉妬の『錆びた鉄の匂い』がいたしますわ」


「なっ……!?」


A夫人が顔を赤くして俯く。


「あら、B伯爵。あなたからは奥様への罪悪感でしょうか。昨夜、別の女性に贈った薔薇の残り香……『湿った土の匂い』がいたしますのよ」


「な、何を……!」


B伯爵が青ざめる。

茶会の空気は一変し、誰もが疑心暗鬼に周囲を見回し始めた。


そしてわたくしは、主役であるセリーナ嬢へと向き直る。


「そして、セリーナ嬢。あなたからは、本当に興味深い香りがいたしますわ」


完璧な笑みで、一言一句、はっきりと告げる。


「殿下を虜にするための計算高さと、甘い罠。その『焦げ付いた砂糖の匂い』。そして、王太子妃の座にいるわたくしへの、どうしようもない嫉妬と渇望……『酸っぱい果実の匂い』。純粋とは程遠い、とても複雑で、刺激的な香りですこと」


「ひっ……!」


セリーナ嬢の顔から血の気が引いた。

周囲は水を打ったように静まり返り、ただただ呆然とわたくしと彼女を見比べている。


「リディア!貴様、何を馬鹿なことを言っている!正気か!?」


エドガー殿下が、ついに激昂して立ち上がった。

その彼から漂うのは、混乱と、傷つけられたプライドの『古い本の匂い』。


(ええ、ええ。わたくしは正気ですわ。あなた様よりも、ずっと)


その時だった。

庭園の入り口から、静かな、しかし有無を言わせぬ威圧感をまとった人物が現れた。


「――正気でないのは、王太子殿下、貴方の方でしょう」


カイ・ロックウェル公爵だった。

彼の後ろには、近衛騎士が数名控えている。


カイ公爵は動揺する殿下を一瞥し、その隣で震えるセリーナ嬢に冷たい視線を向けた。


「セリーナ・クレマン男爵令嬢。貴様には隣国への情報漏洩、つまりスパイ容疑がかかっている。大人しく同行願おうか」


「そ、そんな……!わたくしは何も……!」


「言い訳は騎士団で聞こう。これが証拠だ」


カイ公爵が懐から取り出したのは、一通の密書だった。

セリーナ嬢の筆跡で、我が国の軍事情報が記されている。


彼女は、ただの野心的な男爵令嬢ではなかった。

王太子に取り入り、情報を盗み出すために送り込まれた、隣国の駒だったのだ。


「そん……な……」


エドガー殿下は、愕然と膝から崩れ落ちた。

自分が信じ、庇い続けてきた「純粋で健気な少女」の正体。そして、その策略にまんまと嵌められていた己の愚かさ。


その全てを突きつけられ、彼の『古い本の匂い』は、絶望の『インクの染みの匂い』へと変わっていった。


***


セリーナ嬢は騎士団に連行され、エドガー殿下は監督不行き届きの責を問われ、王宮の一室で謹慎を命じられた。


王位継承権の剥奪も時間の問題だろう。


自業自得。そうとしか思わなかった。


わたくしは騒ぎが収まった庭園で、一人カイ公爵に向き直った。


「公爵様、ありがとうございました。……ですが、なぜわたくしを?」


彼は相変わらずの無表情で、けれどその金の瞳には、どこか穏やかな色が宿っているように見えた。


「俺には匂いはわからん。だが、お前の瞳がずっと退屈そうだったからな」


「……」


「完璧な淑女の仮面の下で、面白いことを考えているに違いないと思っていた。今日の暴露は、なかなかの見ものだったぞ」


初めて、彼の口元に微かな笑みが浮かんだ。

その表情に、自分の頬が熱くなるのを感じる。


「俺も……昔、人に裏切られて心を閉ざしていた時期がある。だから、お前の孤独が少しだけわかる気がした」


彼の言葉は、固く閉ざしていたわたくしの心の扉を、優しく叩いた。


「俺の前では、どんな匂いをさせてもいい。お前の本音も、皮肉も、悪態も……全部受け止めてやる」


その瞬間、堪えていた涙が一筋、頬を伝った。

自分のこの厄介な能力を、初めて誰かに肯定された気がした。


涙で滲む視界の中、ずっと「無臭」だった彼から、ふわりと温かい香りがした。


それは、雨上がりの澄んだ空気と、陽の光をいっぱいに浴びた洗濯物のような……。


(……陽だまりの匂い)


純粋で、温かい愛情の香り。


彼が、わたくしに心を開いてくれた証拠だった。


「公爵様……」


「カイ、と呼べ」


「カイ様……わたくしの心、あなた様には、もう筒抜けになってしまいそうですわ」


いたずらっぽく微笑むと、彼は「望むところだ」と静かに笑った。


彼の隣は、不思議なほど心が穏やかでいられる。

もう、完璧な淑女の仮面を被る必要はない。


感情の香りが渦巻くこの世界で、わたくしは初めて、心の底から安らげる場所を見つけたのだ。

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